収拾不能の大混乱、東労組の末期症状
労働組合は何のために?
もはや収拾不可能
東労組千葉地本は、収拾のつかない大混乱を深めている。
大会1日目の夜に、本部中執(組織部長)が、反本部派の組合員に暴力をふるい、さらにそれを開き直ったために流会に終わった地本定期大会の続開大会が7月31日に開催された。
地本が「暴力事件などウソ・デッチ上げだ」と開き直ったために、27名の代議員が、謝罪などを求めて再び出席を拒否したが、東労組千葉地本は、その場で27名のうち3名の代議員権をはく脱して、代議員選挙で次点だった者を「代議員」にデッチあげ、構成人員の三分の二をギリギリクリアして大会を強行した。
まさに前代未聞。規約もルールも関係ない、言いなりになる人間だけでやっちまえばいい、そのためには手段など選ぶ必要はないというのだ。3人だけ代議員権をはく脱したのも、代議員選挙の次点が本部派だったのが、その3人だけだったからだ。
東労組千葉地本は、もはや組織の体すらなしていない。完全な分裂状態だ。まさに末期症状である。
結託体制の末期!
しかし、より異常なのは、東労組・革マルのこの異様な現実を、会社が必死になって救い、支えていることだ。実際、針の穴ひとつほどの道理もないこんな組織運営ができる根拠は、「会社がバックにいるのだから、例え何をやったって組合員を黙らせ、つなぎ止めておくことはできる」という一点だけである。
「暴力事件などウソ」という「地本見解」も、その唯一の理由は「千葉支社幹部も暴力行為が無かったことを明言している」からだという。この支社幹部とは、暴力事件の現場に同席して本部中執と呑んでいた者だ。
この間の木更津の要員補充をめぐる異常事態といい、今回の東労組地本大会をめぐる異常事態といい、会社と革マルの結託体制は、その矛盾を激しく噴出させている。これは東労組の末期症状であると同時に、結託体制そのものの末期症状だ。こんなことが長続きするなどということはもはやあり得ない。
大切なことは何か
だが、本当に大切な問題は何なのだろうか。こんな現実のなかにあって、今求められているのは、労働組合とは一体何なのか、労働者の団結とは一体何なのか、という原点に帰った問いかけに他ならない。
他労組の組合員の多くが、会社と革マルが手を結んだ異常な支配が長く続く状況のなかで、労働組合そのものに嫌気がさしてしまっている。「こんなことには深入りしないで、会社の言うことをそこそこ聞いて、自己保身第一で日々過ごした方が得策だ」・──これが職場の現実になってしまっている。
東労組は本部派と反本部派で激しく憎しみ合い、対立しているが、実際のところ、どっちもどっちだ。反本部派のなかには、正義心に燃えて今の地本のあり方に強く抗議している人たちがいることもわれわれは知っている。しかし、小林委員長時代も、会社とべったり一体となって、動労千葉の組合員をはじめ、他労組への徹底的な差別政策をやり続けていたことには何も変わりはない。
彼らのだしているビラなどを見ても、本部・地本に対する憎しみはあっても、自分たちが、一体どのような労働組合運動をめざしているのか、その理念は一度も提起されことがない。
仲間、団結、誇り!
しかし、本来労働組合は、労働者にとって何よりも大切なものなはずだ。
企業は、1円でも多くの利益をあげるために、つねに労働者が団結することを分断し、わずかばかりの昇進やボーナスアップを餌に労働者を競い合わせ、蹴落とし合わせ、労働者労働者の権利を破壊し、ロボットのように会社の言うことを聞く労働者を作ろうとする。そして利潤のために安全を破壊する。
労働組合はこんな現実にたち向うために生まれた。だから本来労働組合が何よりも大切にするのは「仲間」であり、「団結」であり、労働者としての「誇り」でなければならない。「労働者こそ社会の主人公であり、職場の主人公だ」このことを胸を張って言い続けるために労働組合はある。
考えてほしい!
会社と革マルの結託支配、東労組の内部抗争のなかで、今一番考えなければいけないことはこのことだ。
動労千葉は、どんな困難に直面しても、このことを何よりも大切にしてきた。そして会社と手を結んで、それを最もふみにじってきたのが東労組だ。
職場に本物のの団結、本物の労働組合をつくり直そう。動労千葉に結集し、ともに闘おう。
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