進行の指示運転の問題点G
「何があっても運転士の責任とはしない」と確認!
◆安全を政治の道具とする東労組・革マルを許すな!
支社団交での確認
「場内に対する進行の指示」について、12月25日の千葉支社との団交で、次のことが確認された。
進行の指示を受けて列車を進行させた場合、列車が動きだしてから所定の停止位置に停止するまで、例えどのようなことがあろうと運転士の責任とはしない。
───ということである。何よりも
昨年来、全力をあげて「進行の指示運転」に関する問題点を本社・支社・現場で追及し、闘いを展開してきた大きな成果として、千葉支社をここまで追いつめたことを、大きな成果として確認することができる。
しかし、問題はこれで解決したわけではない。「進行の指示運転」そのものが問題なのだ。冒頭に触れたようにこの取扱いは、安全に係わる運転取扱いの最も基本の部分=信号絶対主義を解体するものである。だからわれわれは、あくまでも「進行の指示運転の即時中止」を求めてさらに闘いを強化しなければならない。
更に闘いの強化を
さらには、千葉支社は「例えいかなることがあろうと運転士の責任にはしない」と回答したが、例えば運転士の刑事責任が問われるような重大事故が発生した場合、この団交での確認は本当に約束どおり貫かれるのか、現在のJRの経営姿勢を考えた場合、重大な疑念が残らざるを得ない。疑念どころか。結局は運転士の責任に帰せられることは火を見るよりも明らかだと言わざるを得ない。
それ以前に、いくら「運転士の責任にはしない」などと言っても、東中野事故のように、乗客や運転士の生命が奪われるような悲惨な事故に行き着いてしまってからでは、何と言おうと何の意味もない。
やはりわれわれの基本的な立場は、「闘いなくして安全なし」───以外にはあり得ないのだ。
異様な会社賛美!
東労組は「進行の指示運転」という、運転保安上これほど重大な問題について何ひとつ触れようとせず、団交すら行なわず、文字通り全く問題にもしようとしていない。
その一方で東労組・松崎は、事故問題について、次のように一種異様なまでの会社への全面賛美をうたいあげている。
責任追及から原因究明へという方向を明確に示し得たJR東日本の経営幹部は立派だ。世界に冠たる資質をもっている。責任追及が原因究明に転化したということは、経営哲学あるいは企業文化の極めて高いレベルの所産だ。
責任追及から原因究明へという世界に冠たるテーマ、概念、カテゴリーを明確にし得たJR東日本の労使の高いレベルをこれからも誇りにしていきたい。
(第10回政策フォーラム)
この言い方はあまりに異様だ。新興宗教の教団が教祖を崇めたてるかのように会社を讃え、奴隷的な忠誠を誓っているのである。
しかもこの発言が、97年10月に起きた大月駅事故の1ヵ月後に行なわれていることを考えればなおさら異常としか言いようがない。
事故当該の東労組組合員は、逮捕され連日警察の取り調べを受けており、マスコミですら「JRの指導体制には背筋が凍る思いだ」(朝日新聞)等、安全に関するJR東日本の指導体制の問題点を厳しく追及していた状況の最中で、松崎は平然とこのような発言をしていたのだ。
しかも機関紙などでは、事実関係が明らかになる前から、「事故は本人のミスによるものだ」と、繰り返し繰り返し書き立てたのである。東中野事故で自らの組合員が死亡したときも同じであった。
意図は明らかだ。組合員を犠牲にしようが、安全を犠牲にしようが、とにかく会社と革マルの結託体制を守るという、ただ一点だけを念頭に、
このような発言を繰り返したのである。「進行の指示運転」で、貝のように黙んまりを決め込んだのも、全く同じ意図である。一体これが労働組合と言えるのか。絶対に否である。
東労組のペテン
そもそも、東労組・革マルが繰り返している「責任追及から原因究明へ」なるスローガン自体が、職場の現実を知っている者ば誰でもわかるとおり、全くのペテンに他ならない。
東労組のこのスローガンは、労働者への責任追及をさせないということではなく、「事故や安全問題について会社の経営責任の追及は絶対にしません」という表明に他ならない。
東労組・革マルは、JR西日本や
東海で起きた事故については、社宅へのビラまきなど「追及行動」を行なうが、東日本で起きた事故については一度たりと追及したためしがない。要するに彼らは、安全や運転保安のことなど、何ひとつ真剣に考えてはいないということである。彼らにとって安全問題とは、革マルに従わない者を追及する政治的な道具に過ぎないのだ。まさに労働者とは全く無縁の腐りきった存在だ。
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