労働学校に参加して 高島喜久男氏「戦後労働運動史」

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臨調 行革粉砕!
三 里塚ジェット 闘争勝利!



動労千葉の三里塚労働運動路線に封すます確信
民同労働運動の限界をつきやぶるもの
ことが話されました。
で労働者同志会が結成され、のちの民同になった
たそれに反対する勢力があったこと、そうした中
に経済復興、第四に、総資本対総労働があり、ま
か単独講和か、第二に、反ソ·反米の中立、第三
は四つに分けられ、第一に独立について全面講和
総評結成の中心となった勢力の思想が、大きく
母体となったことが話されました。
組合懇談会がつくられ、これが今日の全民労協の
一九七〇年一月に民間主要単産委員長による労働
~二年ごろから労戦統一がいわれるようになり、
今日、「右翼労戦統一」が叫ばれる中で、一九八
されました。
になり、大会が一日遅れて開会したこと等、が話
年の総評大会は一名増の代議員をめぐって大荒れ
発言権·議決権などなかったことや、また一九五六
ために中小企業の代表が構成員にもなれず、当初
して組織化され、運営のリーダーシップをとった
された総評が、大企業労組=従業員組合を中心と
盟と合体して総評の結成に至ったこと。また結成
私鉄=中立系を中心とした組合が呼びかけ、総同
ずれも総評の結成までには至らず、そうした中で
民主化運動、産別民主化運動などがおきたが、い
と。当時としては、国鉄反共民主化運動、総同盟
れ、自主性の尊重を求めた民主化運動がおきたこ
作や産別会議の中に共産党に反対する運動が生ま
本共産党の強い指導下にあって占領軍指令部のエ
総評が結成に至るまで迂余曲折があり、戦後日
がされました。
民同の誕生と総評の結成
こと、の三段階に分けて時代の流れに沿って講義
らした民同の運動と対立する運動が生まれてきた
育って今日の総評が育ってきたこと。第三に、こ
いこと。 戦後の日本共産党の指導のもとに徐々に
第二に、民同が突然として生まれたものではな
か、またどのような考え方をもっていたのか。
われるいわゆる民同はどのように発生してきたの
講義は、第一に今日の総評労働運動の中心とい
労働学校
動の一端を垣間みた気がしました。
永年の体験を通して、労働運動の教訓を語られる高島講師。
り等ももりこみ、短い時間でしたが、戦後労働運
運動の経験をまじえながら、動労千葉とのかかわ
非常な興味をおぼえました。講師の長年にわたる
されました。また、氏がレバノンへ旅行した話も
た中で、政治闘争を闘わねばならないことが力説
さらにさまざまな労働運動にたずさわって来られ
労「本部」革マルと同じであるといわれました。
を導入して共産党員を逮補させ、まさに今日の動
れ、さらに追いうちをかけるように総同盟が権力
その意味で革命的な高揚期であったことが述べら
資本主義は変わっていたのではないか。この時期は
前に目的意識的に強い指導、方針があったならば
火が消えてしまったこと。もし一九四六年六月以
日本共産党はこれを受け入れたがために、闘いの
指令部が生産管理闘争を違法としたことに対して せ
生きていくための闘いは一九四六年六月、占領軍
った時期に自然発生的に生産管理闘争が生まれ、
っている企業が戦後はそういうものしか出来なか
求めた電熱器を例に出し、現在大企業にのしあが
高島講師は、戦後の労働運動の中で、当時買い
全組合員·家族の強固な団結で組織破壊攻撃を粉砕せよ!
民同労働運動について
戦後革命的高揚期
れました。受講生の感想文を掲載します。
講師·高島喜久男氏
(聴講·S生)
男氏をむかえて、「戦後労働運動史から=民同労働運動批判」をテーマに講義がおこなわれ
第五回講座は、八月二五日、講師に労働学校の学長であり、労働運動研究家の高島喜久
常働学校与合加し
『戦後労働運動史からー民同労働運動批判」
红白
新動芳千葉
84.8. 30
DC
8
No. 1730
(鉄電)二九三五~六·(公衆)〇四七二(2)七二〇七
千葉市要町二–八(動力車会館)
4
国鉄千葉動力車労働組合
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