国鉄「分割 ·民営化」阻止!三里塚二期着工粉砕!
お
じい弾圧攻撃をかけてきたのであった。
怖を与えた闘いであったが故に、すさま
動の高揚を切り拓き、何よりも権力に恐
につながっていった。新潟闘争は労働運
床にした二組=新地労(現·鉄労)結成
雇、刑事弾圧の拡大、そして敗北感を温
統制によるもので、結果として十九人解
処分によるのではなく、国労中央民同の
されたにもかかわらず、敗北は敵の弾圧、
対し、怒りの一斉無期限ストに戦術拡大
鉄局長·河村勝の権力導入=五人逮捕に
潟地本は反撃へ連日ストに突入、当時新
地本の二人に懲戒免職攻撃を行った。新
五七春闘に対し新潟鉄局は、国労新潟
国鉄新潟闘争
権力に恐怖をあたえた
さ
れ
た
· うたず裏切っていった民同によってひき
民 方針決定にもかかわらず、ストを一度も
営.る解放軍規定による裏切り。国労のスト
その原因は、共産党の米占領軍に対す
コ 員法闘争は敗北。
组 山、三鷹、松川三大謀略事件が発生、定
止 一·二次解雇通告がかけられる中で、下
! していたが七月、九三七〇〇人の国鉄第
委は定員法に対しストで闘う方針を決定
H 実施され、人民電車が走った。国労中央
施行されるなかで、新交番制反対国電ストが
四九年、国鉄は公社化され定員法が強行
書簡が出され、公務員のスト権ハク奪、
ッカーサー法令「公務員の争議権否認」
四八年七月、すべての法に優先するマ
に燃えて直ちに闘いに起ちあがった。
ながらも敗けてはいられなかった。怒り
者はインフレのもとで飢餓状態におかれ
一ゼネスト中止」された。 しかし、労働
令、共産党指導部の屈服によって「二·
一九四七年一月三一日、米占領軍の命
共産党·民同の裏切り
定員法闘争
労働学校·六国講座
おれば込らず起つ
勝利の路線 ·方針か
知動芳千葉
者の首切りと三大謀略事件という血ぬられた歴史のなかから出発した事実を忘れてはならない。
れたのである。今日にいたる公共企業体としての国鉄=日本国有鉄道公社が、この一〇万国鉄労働
反共·反国労キャンペーンによって、国鉄労働者のいっさいの反抗の芽をおしつぶすなかで強行さ
内にパージ(レッド·バージ)された。またこの攻撃は、下山·三鷹·松川事件とこれをつかった
たのだ。とりわけ、それまで組合の中心的活動家であった共産党員とそのシンパはことごとく選別
(行政機関職員定員法)が成立(四九·五)、国鉄ではいっきょに一〇万人の労働者の首が切られ
:一九四九年には、ドッジ·ブランのもとで、緊縮財政=行政整理のための、いわゆる定員法
C 51133
北下山事件
1948年
7 · 22
マッカーサー 公務員の争議
禁止のための法改正を要望
7·31 政令201号公布実施(公務員の
爭議権·団体交渉権を否認)
マッカーサー書簡による政令
201号公布で30日の全通につ
づき国鉄労組 非常事態宣言
00
8 · 5
政令201号反対で国鉄松山機
関区乗務拒否 各地に拡大
松川事件
1949年
–
3·7 2·1来日のドッジ公使 日
本経済安定策(超均衡予算な
ど)を明示(ドッジ·ライン)
6 . 9
新交番制·行政整理反対の国
電スト 神奈川から始まり拡
大 10日東神奈川人民電車事
件 11日GHQ スト中止命
令 12日~平常運転
7 . 4
マッカーサー 日本は共産主
義進出阻止の防壁」と言明
国鉄第1次人員整理 3 万700
人を発表
三慶事件
7
7 . 5
5
国鉄総裁下山定則行方不明
6日常磐線で死体で発見(下
山事件)
起って闘う歴史をみれば明らかである。
·方針があれば必ず起つ、国鉄労働者が
の敗北は指導の問題であって勝利の路線
これらの闘いからの教訓として、
屈服しない国鉄労働者
たたかれても、裏切られても
国鉄新潟闘争弾圧のために大挙出動し庁舎に逆ピケを
張る警官隊と対峙する国労新潟の労働者(57年7月)
労働者学校は終了した。
勝利の展望がひらけるものだ、と話され
うだ。そして勝利した。
たかれても屈服しない。マル生闘争もそ
7 · 12
国鉄第2次人員整理6万3000
人の通告開始
7 · 15
国電三鷹駅で無人電車暴走
6 人死亡(三鷹事件)
8 . 17
国鉄東北線松川一金谷川駅間
で列車転覆 乗務員 3 人死亡
(松川事件)
いぬいてきた歴史をみすえるならば必ず
国鉄労働者は裏切られても決起し、闘
し示した。
「第二三二一号」です。おわびして訂正いたします。】
【訂正とおわび=8月16日付『日刊』の号数に誤りがありました。正しくは
闘うのか、を鮮明にうちだし「十一月ダイ改」阻止闘争への勝利の道しるべをさ
のようにとらえるか、なぜ敗北したのか、その闘いをのりこえ勝利するにはどう
性をもった国鉄定員法闘争、国鉄新潟闘争を国鉄分割·民営化攻撃のなかで、ど
年間の労働運動の歴史において労働者の決起によって革命にまでつきすすむ可能
究家·大塚宏氏より「戦後労働運動史·その一」をテーマに行われた。戦後四十
動労千葉第二期労働学校、第十回講座が八月九日開催され、講師の労働運動研
とつながってしまう。
突破口としてある。
り者との闘い。
い戦闘性をもっている。たたかれてもた
そして、何よりも国鉄労働者は限りな
労攻撃としてかけられ、そして、戦争へ
ゆ国鉄が敗ければ、次には日教組、自治
死活がかかっており、階級全体の決起の
四国鉄労働者の闘いは日本労働者階級の
1民同·革マルなど、労働者内部の裏切
部批判闘争をふくめて横につなげていく。
らでは敗ける。職場からの反撃を中央幹
○従って中央の指導を口をあけてまつよ
全組合員·家族の強固な団結で組織破壊攻撃を粉砕せよ!
日
86.8. 18
00
1
No. 2322
(鉄電)二九三五~六·(公衆)〇四七二(2)七二〇七
千葉市要町二–八(動力車会館)
国鉄千葉動力車労働組合
お
じい弾圧攻撃をかけてきたのであった。
怖を与えた闘いであったが故に、すさま
動の高揚を切り拓き、何よりも権力に恐
につながっていった。新潟闘争は労働運
床にした二組=新地労(現·鉄労)結成
雇、刑事弾圧の拡大、そして敗北感を温
統制によるもので、結果として十九人解
処分によるのではなく、国労中央民同の
されたにもかかわらず、敗北は敵の弾圧、
対し、怒りの一斉無期限ストに戦術拡大
鉄局長·河村勝の権力導入=五人逮捕に
潟地本は反撃へ連日ストに突入、当時新
地本の二人に懲戒免職攻撃を行った。新
五七春闘に対し新潟鉄局は、国労新潟
国鉄新潟闘争
権力に恐怖をあたえた
さ
れ
た
· うたず裏切っていった民同によってひき
民 方針決定にもかかわらず、ストを一度も
営.る解放軍規定による裏切り。国労のスト
その原因は、共産党の米占領軍に対す
コ 員法闘争は敗北。
组 山、三鷹、松川三大謀略事件が発生、定
止 一·二次解雇通告がかけられる中で、下
! していたが七月、九三七〇〇人の国鉄第
委は定員法に対しストで闘う方針を決定
H 実施され、人民電車が走った。国労中央
施行されるなかで、新交番制反対国電ストが
四九年、国鉄は公社化され定員法が強行
書簡が出され、公務員のスト権ハク奪、
ッカーサー法令「公務員の争議権否認」
四八年七月、すべての法に優先するマ
に燃えて直ちに闘いに起ちあがった。
ながらも敗けてはいられなかった。怒り
者はインフレのもとで飢餓状態におかれ
一ゼネスト中止」された。 しかし、労働
令、共産党指導部の屈服によって「二·
一九四七年一月三一日、米占領軍の命
共産党·民同の裏切り
定員法闘争
労働学校·六国講座
おれば込らず起つ
勝利の路線 ·方針か
知動芳千葉
者の首切りと三大謀略事件という血ぬられた歴史のなかから出発した事実を忘れてはならない。
れたのである。今日にいたる公共企業体としての国鉄=日本国有鉄道公社が、この一〇万国鉄労働
反共·反国労キャンペーンによって、国鉄労働者のいっさいの反抗の芽をおしつぶすなかで強行さ
内にパージ(レッド·バージ)された。またこの攻撃は、下山·三鷹·松川事件とこれをつかった
たのだ。とりわけ、それまで組合の中心的活動家であった共産党員とそのシンパはことごとく選別
(行政機関職員定員法)が成立(四九·五)、国鉄ではいっきょに一〇万人の労働者の首が切られ
:一九四九年には、ドッジ·ブランのもとで、緊縮財政=行政整理のための、いわゆる定員法
C 51133
北下山事件
1948年
7 · 22
マッカーサー 公務員の争議
禁止のための法改正を要望
7·31 政令201号公布実施(公務員の
爭議権·団体交渉権を否認)
マッカーサー書簡による政令
201号公布で30日の全通につ
づき国鉄労組 非常事態宣言
00
8 · 5
政令201号反対で国鉄松山機
関区乗務拒否 各地に拡大
松川事件
1949年
–
3·7 2·1来日のドッジ公使 日
本経済安定策(超均衡予算な
ど)を明示(ドッジ·ライン)
6 . 9
新交番制·行政整理反対の国
電スト 神奈川から始まり拡
大 10日東神奈川人民電車事
件 11日GHQ スト中止命
令 12日~平常運転
7 . 4
マッカーサー 日本は共産主
義進出阻止の防壁」と言明
国鉄第1次人員整理 3 万700
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三慶事件
7
7 . 5
5
国鉄総裁下山定則行方不明
6日常磐線で死体で発見(下
山事件)
起って闘う歴史をみれば明らかである。
·方針があれば必ず起つ、国鉄労働者が
の敗北は指導の問題であって勝利の路線
これらの闘いからの教訓として、
屈服しない国鉄労働者
たたかれても、裏切られても
国鉄新潟闘争弾圧のために大挙出動し庁舎に逆ピケを
張る警官隊と対峙する国労新潟の労働者(57年7月)
労働者学校は終了した。
勝利の展望がひらけるものだ、と話され
うだ。そして勝利した。
たかれても屈服しない。マル生闘争もそ
7 · 12
国鉄第2次人員整理6万3000
人の通告開始
7 · 15
国電三鷹駅で無人電車暴走
6 人死亡(三鷹事件)
8 . 17
国鉄東北線松川一金谷川駅間
で列車転覆 乗務員 3 人死亡
(松川事件)
いぬいてきた歴史をみすえるならば必ず
国鉄労働者は裏切られても決起し、闘
し示した。
「第二三二一号」です。おわびして訂正いたします。】
【訂正とおわび=8月16日付『日刊』の号数に誤りがありました。正しくは
闘うのか、を鮮明にうちだし「十一月ダイ改」阻止闘争への勝利の道しるべをさ
のようにとらえるか、なぜ敗北したのか、その闘いをのりこえ勝利するにはどう
性をもった国鉄定員法闘争、国鉄新潟闘争を国鉄分割·民営化攻撃のなかで、ど
年間の労働運動の歴史において労働者の決起によって革命にまでつきすすむ可能
究家·大塚宏氏より「戦後労働運動史·その一」をテーマに行われた。戦後四十
動労千葉第二期労働学校、第十回講座が八月九日開催され、講師の労働運動研
とつながってしまう。
突破口としてある。
り者との闘い。
い戦闘性をもっている。たたかれてもた
そして、何よりも国鉄労働者は限りな
労攻撃としてかけられ、そして、戦争へ
ゆ国鉄が敗ければ、次には日教組、自治
死活がかかっており、階級全体の決起の
四国鉄労働者の闘いは日本労働者階級の
1民同·革マルなど、労働者内部の裏切
部批判闘争をふくめて横につなげていく。
らでは敗ける。職場からの反撃を中央幹
○従って中央の指導を口をあけてまつよ
全組合員·家族の強固な団結で組織破壊攻撃を粉砕せよ!
日
86.8. 18
00
1
No. 2322
(鉄電)二九三五~六·(公衆)〇四七二(2)七二〇七
千葉市要町二–八(動力車会館)
国鉄千葉動力車労働組合