追悼 中野 洋
元副委員長 布施 宇一
〈その死〉
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中野洋が最後に入院した10日ほどの間、連日のように病院へ通った。
そんなある日、自宅の庭先で蕗のトウを見つけた。彼は、私の妻の作った田舎風の季節の野菜の煮物などを届けると、「昔の味がする」と喜んだが、とりわけ、春の訪れを告げる甘苦い蕗味噌を喜んだものだった。そのことを思い出し、妻と語らって小さなザルいっぱいの蕗のトウを集めた。
夕刻、出来上がったまだ暖かい蕗味噌を小さなタッパーに入れて病床へ届けた。
病床の彼が口にすることができないことは分かっていたが、発病以来、献身的に看病してきた彼の姉さんをはじめ、付き添っている人達に食べてもらえればと思ったのである。
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その夜病院から帰って、同じ蕗味噌を肴に酒を飲んだ。
蕗味噌をアテにするならば、酒は日本酒。「普通酒」の常温がいい。
狭心症で手術をした身には「アルコールは原則禁止。どうしても飲みたい時は、日本酒なら一合まで」なるドクターストップがかかっている。しかし、この夜は飲みたかった。
家族が寝た後の茶の間。石油ストーブの温もりの中で、外を吹く風の音を聞きながら飲んだ。いつも傍らにある「俺たちは鉄路に生きるⅢ」の職場の活動家の座談会のページをパラパラとめくりながら飲んだ。
酒は千葉の地酒・仁勇の「ワンカップ」。蕗の苦さ。味噌の甘さ。久しぶりの酒精の辛さ。
戦争で父親を亡くし母子家庭で育ち、国鉄労働者として生き、今、末期ガンで苦しんでいる中野の人生を想った。
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翌3月4日、9時過ぎに田中委員長から電話。「血圧が40になりました」。
すぐに病院へ向かったが、到着すると「10分ほど前に息を引き取りました」とのことであった。
胆管ガンの発病から足かけ五年。「長くてもあと1年」と宣告された命を、階級闘争への執念に裏打ちされた生きることへの強い確信で奇跡的に生きて、彼は逝ったのだ。
〈その闘い〉
「俺たちは…Ⅲ」の職場の活動家たちの座談会を読むと、何度読んでも心が暖かくなる。館山、木更津、幕張…それぞれの職場で、ひとり一人の労働者が、悩み、苦しみながら闘いに結集していく様子が明るく語られている。
リストラされた労働者の自殺が累々と続く今日の状況下で、何でこんなに明るいのか。それは激烈な討論を経て決意した闘いを職場・生産点でやり抜いたからだということが私にはよく分かる。
40年余り前、私も彼らと同じように自分の職場が廃止されるという事態に立ち向かっていた。職場討議といえば聞こえはいいが、その実態は、まるで喧嘩のような怒鳴りあいであることが珍しくなかった。しかし、苦しいが充実した日々であったと今にして想う。「俺たち…Ⅲ」を読むと、40年の時空を超えて、自分が若い人達と一緒にいるような気分になり、現に闘っている若い人達の気持ちが「よく分かる」と思えてうれしいのだ。
20代の頃から、中野洋は、このような職場・生産点の闘い…職制に「ものも言えない」状態から、団結の力で、職制を圧倒するような力関係をつくっていく闘いの先頭に立っていた。
それから40年余も、動労千葉で彼と一緒にやってきた私には、この職場・生産点に立脚し切るという姿勢を終生貫いたことが中野洋の真骨頂なのだということが身に沁みて分かる。ここのところがなければ、動労千葉の今日の団結はなかったと心底思う。
中野の通夜、告別式には連日千人もの人が集まった。とりわけ、委員長を退いて十余年も経っているのに実に多くのOB(元組合員)が集まった。延々と続く焼香の列を目の前にして私は、職場・生産点に立脚し切るという原点を守り抜いた中野の姿勢を多くの仲間たちが私と同じように支持していたのだと改めて確信した。
〈これからも〉
田中委員長から本稿を依頼されたのは告別式が終わってまもなくのことであった。
書こうと思っても書けなかった。1ヶ月も経ってしまった。
40年も共にいて、中野洋が何者であるかを考えたことがなかったのだ。考えなくても、あるがままの姿で中野はそこにいたのだ。
戦略・戦術をめぐる怒鳴りあいもしたし、何日も口をきかないような対立も何回もあった。しかし、「職場・生産点」の一点で、敵対矛盾に転化することなく、動労千葉は動労千葉でありえたのだと本稿を書いていて、あらためて思った。
動労千葉の団結は、このような、個々の組合員同士の葛藤の中から生み出され、「俺たちは…Ⅲ」にあるように、今も若い人達に引き継がれている。
中野洋を送るのに言葉はいらない。冥福など祈らなくてもよい。
「職場・生産点からの闘い」がある限り、その伴走者として彼はいつもわれわれのそばにいるのだ。彼が真に安らぐのは、若い労働者たちの闘いが中野世代のそれを乗り越えた時なのだ。
これからも闘おう! 若い労働者達に、心から呼びかけたい。
2010年4月6日記