「動労千葉にかけた人生に悔いはない」ーー 結成45周年レセプション 組合表彰者の発言から 

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多年にわたり動労千葉役員として献身的に努力し、組合の発展に与した功績を讃え3名が表彰された。

◆大竹哲治さん(千葉機関区支部)

私は仙台組で電車運転士になるつもりでしたが、千葉に戻ったら新小岩機関区で貨物機関士に。「出世するから」と言われ支部執行委員のサークル担当になり、結局は本部執行委員に「出世」してしまいました。
亡くなった後藤俊哉君、中村仁君も同じ仙台組で、分割民営化反対ストで同期が解雇されたことで、組合活動を続けていくことになりました。中村仁君も解雇撤回まであと一歩と言っているし、私も、もう一歩、闘っていきます。

◆相馬正利さん(津田沼支部)

(*85年の第一波ストの時にスト破りを拒否して国労から動労千葉に。96年から現在まで津田沼支部長を担う)
動労千葉の椿さんにスト破りだけは辞めてほしいと言われ国労から来ました。当時26歳でスト破りをやって、55歳定年までスト破りとして生きるのか、闘う道を選ぶのか、人生の分岐点でした。当時私は85年11月10日に結婚式をあげ、17日に新婚旅行から帰ってきて、10日後に11・28ー29第一波ストです。女房のお腹には5カ月の子供がいて、悩みました。だけどスト破りで生きていくのは無理だと思い動労千葉に入って生きていくことに。親父には首になったらどうするんだと言われましたが、宅急便でもタクシードライバでもやって、女房子供は食わせていくからと、この道を選んだことは正解だったと思っています。今こうやって大先輩たちの前で話すことができることに感謝の気持ちで一杯です。本当にありがとうございました。

◆高澤成夫さん(千葉運転区支部)

(*90年3月のスト破りを拒否し国労から動労千葉に結集。2012年から昨年まで支部長を務めた)
90年3月に国労から変わったのですが、国労にいたときから中村栄一君らと中野顧問と一緒に飲んでいました。その時中野顧問は「お前ら絶対に国労をやめるな。お前らが国労変えていくんだ」と言われました。国労青年部で組合に不満はありましたが、1990年3月のストは、中村仁君らが清算事業団から解雇されることに対するストだったのです。
JR不採用で首になり、事業団解散でまた首を切られる。私は休日勤務の業務命令が出ました。それは絶対できなかった。中村仁君とは同期ですし、分民反対ストで首になった先輩がいっぱいいました。国労だから許されるものではない。国労も事業団解雇は反対だと言っていたので、千葉地本に行って中村栄一君と朝まで指名ストを入れろと要求したが、国労の方針ではないと。悔しくて栄一君と一緒に国労を抜けて動労千葉に来ました。
その後、多くの仲間が売店や駅に飛ばされたこともあり最後まで頑張ろうと。それから40年間、千葉転で頑張ってきました。今後も多くの先輩たちと付き合っていきたいと思います。

来賓あいさつ

◆萩原富夫さん(反対同盟)
三里塚ジェット闘争で労農連帯を貫き分離・独立し、車の両輪として闘ってくれた動労千葉のみなさんに感謝します。反対同盟も結成58周年、今後も共に闘い続ける決意です。
◆高山俊吉さん(改憲・戦争阻止大行進)
私は、動労千葉の労働学校の講師に呼ばれたのがご縁の始まりでした。先日、青年法律家協会結成70周年レセプションがあり、私が乾杯の音頭をやらされました。何とも言いようがないものがあり、関委員長や田中顧問が動労や国労の席で乾杯をやらされるようなものです。会場からは拍手され、涙を流して駆け寄る人もいました。様々な既存の組織の中に、今大きな分岐が起きている。私たちは勝利の道を堂々と進んでいることを実感しました。共に頑張りましょう。
◆金元重さん(国鉄闘争全国運動)
動労千葉との縁の始まりは、20年前の韓国民主労総との国際連帯が始まったころです。国際労研で私の講演に参加していた動労千葉の関係者が、韓国との国際連帯を考えているので、労働学校の講師にと頼まれました。動労千葉と聞いて、最初はビクッとした。それから毎年の民主労総との交流で通訳をやり、動労千葉から見た民主労総、民主労総から見た動労千葉を学ぶ機会を得たことは非常に良かったと思っています。
◆武谷新吾さん(関生支部)
三労組共闘との話し合いで千葉に来た時、電車の掲示板に「動労千葉のストで運行に影響」とあるのを見て驚いたことを思い出します。動労千葉と関生支部と共通しているものがあります。動労千葉の安全闘争、関生のコンプライアンス闘争です。この闘いで動労千葉も処分され、関生も弾圧され湯川委員長は実刑4年だと言われています。兄弟分ということを改めて確認しました。

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