追悼 中野 洋 前委員長
3月4日、中野顧問が亡くなった。2006年に胆管の癌が発見されてから4年。医者からは「手術することもできない。おそらく年内には起き上がれなくなるでしょう」と言われながら、ものすごい意志と精神力で病魔と闘い、最後の日まで労働運動の発展のために心を配り、闘いの一線に立ち続けました。
組合員は悲しみの底に沈んでいます。しかし中野顧問は組合員一人ひとりのなかに生き続けます。
亡くなる数日前、病床に、3月1日~2日にストライキに立ち上がることを報告しました。「負けるなよ!」。それが最後の言葉になりました。そのひと言は、明らかに、資本との攻防の直接的な結果だけでなく、情勢に負けるな、どんな激しい攻撃の渦中でも気持ちの上で絶対に負けるな、と残された組合員に訴えるものでした。だから私たちは、3月12日~14日の第三波ストライキをやりぬくまでは中野顧問の追悼はしないと心に決めました。
今はまだ10春闘の渦中です。しかし私たちは一糸乱れぬ団結で3波のストライキを闘いぬいて、4月1日の外注化実施を止めました。組合員は組織拡大への揺るぎない確信に燃えています。JRと東労組はあわてふためいています。このことを何よりもはじめに中野顧問の霊前に報告します。
語ろうとすると、様々な思いが去来し、語るべきことが多すぎて言葉になりません。
1959年の国鉄入社からちょうど半世紀、中野顧問は、最後の一日まで、労働運動に人生のすべてを捧げた人でした。労働組合が大好きで、現場の組合員、労働者が大好きで、その団結した力がもつ可能性にかけた人生でした。そうであるがゆえに、現実の日本の労働組合の惨たんたる現状を烈火のごとく怒り、労働組合を労働者の手に取り戻すために全力を尽くして闘い続けました。その結晶が動労千葉です。人間臭く、義理・人情に厚く、原則を曲げない動労千葉は、中野顧問そのものと言っても過言ではありません。だから中野顧問は動労千葉の中に生き続けています。
船橋事故闘争の中から確立された反合・運転保安闘争路線、三里塚空港へのジェット燃料輸送阻止闘争、動労本部からの分離・独立闘争、 国鉄分割・民営化反対闘争、JR体制下での断固たる闘いの継続、労働運動の復権に向けた全国への闘いの呼びかけと組織化、そしてランク ・アンド・ファイルからの国際連帯闘争の組織化など、中野顧問が指導された闘いの全てが、戦後の労働運動の「常識」を覆すものでした。
同時に、どんなに大きな課題に挑んでいるときでも中野顧問の目線は現場の組合員のもとにありました。組合員は、そういう中野顧問のことが大好きでした。
中野顧問は、やりたいことがいつも頭の中にいっぱい詰まっている人でした。日々の日本の動き、世界の動きは、中野顧問の頭脳を通ると、たちどころに、今、動労千葉は何をなすべきかという闘いの路線や方針となって、熱を帯びて組合員をとらえました。山ほどの見果てぬ夢があったはずです。その夢は残された私たちが引き継いで実現する決意です。
中野顧問が、この10年余り、最も情熱を傾けたのは労働者学習センターの取り組みでした。次世代の若い活動家を育てるために、本当に全力を尽くしていました。「労働組合運動を自らの天職と腹を固めよう」といつも訴えていました。労働学校から育った若い活動家があらゆる闘いの先頭に立っているのを目を細めて見ているときが一番嬉しそうでした。
風が雷雲を吹き集めています。怒りの声は社会の隅々まで積み上がり沸騰しています。この時代に中野顧問だったら何を言ったのか。今こそ、雷鳴に向って群れ、団結して高く高くさかまいて飛ぶときだと情熱的に訴えたに違いありません。
私たちは闘い続けます。私たちはもっと団結を強化します。私たちはいつも中野顧問とスクラムを組み続けています。遺志は必ず引き継ぎます。どうか安らかにお眠りください。