8.9狭山集会 宮岡政雄氏を追悼する

1126

読み込みエラー:

PDF をダウンロード

大集会」(於·千葉公園体育館)で挨拶にたつ宮岡氏) われは深い悲しみと共にしかし氏の不屈の遺志をひきつりで三里塚の勝利を必ずや勝ちとろうではありませんか。
ありし日の宮岡氏。(五七七年「ジェット輪送阻止ど·12]多くのう仲間がつめかけ、勤労千葉からは実川委員長はじめ本部執行委員が参列し哀悼の意を表しました。われ
臨 調·行革粉砕! 三 里塚ジェット 闘争勝利!
闻争勝利のけん引者
砂川麻争·全国住民
上告棄却
5周年
糾弾
89狭山奥集会開がる
1
:.
.7
……
16
三里塚ジェット肉争に深い理解と評価をよせられ、支援の先頭に立ち続けられました。11日の葬儀には全国から
えたものでした。74三里塚印争が氏の最後の参加となりました。また、氏は生前、勤労千葉の労豊連帯·
がある。必ず勝利する。」と提起·激励·指導されぬいてきた姿は、忘れることのできないものとして感動を与
車イスで最後まで三里塚現地肉争の先頭に立ち、「一人になっても農民が土地を売らない、ごこに勝利の核心
勝利をさし示した偉大な指導者として生涯を聞いの中に貫き通されました。とりわけ晩年、病苦をおして、
里塚を始めとする全国の反戦·反基地·住民農民印争の決定的高揚を牽引し、「農地死守·実力争」の
られた拡張攻撃をも実力阻止する(ヤニ次砂川印争)勝利をかちどり、60年安保、70年安保、沖縄争、そしてミ
拡張に反対し、反対同盟を結成して砂川農民の先頭に立って聞いを勝利に導き(第一次砂川印争)、六七年再びかけ
去る8月8日午後、入院先の病院で逝去されました。享年9歳でした。宮岡氏は一九五五年米軍立川基地
I
全組合員·家族の強固な団結で組織破壊攻撃を粉砕せよ!
別裁判を断じて許してはならない。
ろうとしているのだ。このような暗黒の差
もって石川さんの無実を窓から闇に葬り去
くわえ、今また「再審」「特別抗告」の棄却を
こそ、5年前の8月9日「上告棄却」の攻撃を
配者階級は、裁判の「中立性」すらかほぐり捨
柳の主軸を創り上げてきた。だからこそ支
国争の戦邦的両軸として聞いぬかれ人民共
狭山印争は、三里塚争と並ぶ日本階級
を一挙に強めている。
に、解放運動と解放同盟解体·圧殺の策動
放運動史上空前の大弾圧にも見られるよう
荒本支部や意岐部東小学校に対する部落解
外主義を煽りたて、又、解放同盟大阪府連
活保障すら次々と奪いとり、差別主義や排
牲の上に獲得してきた諸権利·最低限の生
的に転換し、部落解放運動が幾多の血の犠
現在、支配者達は戦後の部落政策を反動
反戦·反安保·反基地、不屈の農民争の勝利を牽引しぬいた偉大な指導者、砂川の宮岡政雄氏が
宮岡政雄氏を追悼する
なぎ
作業をしていた小名木さんが「不審な者
とされる雑木林からわずか5 mの畑で農せ
証拠=小名木証言(事件当日、「犯行現場」
持っていた石川さんの無実を証明する新
集会では、永いあいだ検察庁がかくい
石川ぶ無実の実証ろにム(町名木)を公開
1
確信し、全力で印いぬかなければならない。抜
合の中に狭山南争勝利の道があることを
さし迫る三里塚二期決戦の爆発との結
までのデモを貫徹した。
えに「必ず奪還するぞ!」と誓い、日比谷公園
新たにした。又、獄中からの石川さんの訴
の確信とこみ上げる差別裁判への怒りを
上映され、参加者全員が再び石川さん無実
発覚)を実証する弁護団の実験フィルムも
庁がこの調書を永い間かくしていた事が
み捜査の段階で証言していたのに、検察
ども全く聞かなかった」と当時の聞き込
の姿は見かけなかったし、悲鳴や物音な
車大化攻裏の下で強まる差別攻裏
けて印いぬいた。
同盟千葉県連·同茨城県連の隊列とともに狭山再審貫徹·石川氏実力奪還にむ
解放同盟を先頭に三千名が結集し、勤労千葉からも青年部50名が参加し、解放
央総決起集会が、東京·清水谷公園で開催された。集会には関東各地より部落
8月9日、最高裁による狭山差別裁判の上告棄却5周年を糾弾して、狭山中
三里塚さを結合し狭山等の勝利をかちころう
红動芳千葉
82.8.20
No. 1126
(鉄電)二一九三五~六·(公衆)日時さ(2)七二〇七
千葉市要町二-八(動力車会館)
国鉄千葉動力車労働組合
タイトルとURLをコピーしました