幕張構内事故への不当処分許すな!運転保安確立! あすは我が身だ、事故責任転嫁粉砕! 6・1緊急総決起集会へ DC会館/18時?
反合・運転保安闘争の核心
安全の確立という課題はきれいごとでは済まない問題だ。事故を起こしたくて起こす者など誰もいない。だけど人間はミスを犯し、あるいは一旦ミスをすればパニックに陥るもので、鉄道で働く以上、「事故」という現実から逃れることができる者はいない。ひとたび事故を起こせば、当局の攻撃や世間の非難がひとりの労働者に集中し、職場は暗たんとした雰囲気になる。 だが、事故を起こした労働者を処分し、職場を締めあげれば安全性は向上するのか。断じて否。それは本質的な問題を個人の責任にすり替えて覆い隠すことにしかならない。 問題はそのときに労働組合がどのような立場にたち、何をなすことができるかだ。事故に直面した労働者を守りぬいて闘うことができるか否か。それができなくて運転保安確立など空語だ。われわれが船橋事故との闘いのなかから確立した反合・運転保安闘争路線の核心もここにあった。そうでなければ労働組合など何の意味があるのか。
安全と資本の本質、労働組合
JRの安全が危機に瀕している。その原因を追求していけば、いずれも安全を無視・軽視する資本の合理化攻撃に行き着く。そして何よりも民営化、規制緩和という犯罪的政策に行き着く。その責任を徹底的に追及することなくして安全の確保は不可能なことだ。そうした闘いがなければ、選択の余地なく一切の責任が事故を起こした労働者だけに押し着せられることになる。 尼崎事故で107名の生命が奪われてから1年が経ち、われわれの前にはこれまでと何ひとつ変わらない現実がある。変わらないどころか、問題の本質を現場への徹底した締めつけの強化にすり替え、様々な問題への処分はますます重くなり、暗雲が垂れこめるような職場の現実がある。そして何よりも「安全の確保」という、口先では誰も否定しないことが、労資が最も鋭く対立する問題となっている。 ここには、あくなき利潤の追求を目的とする資本の本質が鮮明に現われている。結局、安全の確保は、労働組合の闘いによって資本に強制する以外に実現するいかなる道もない。だからこそ「闘いなくして安全なし」なのである。 このときに、われわれが決意しなければならないのは具体的な問題だ。二度と尼崎事故を許さない闘いとは、幕張構内で事故を起こした仲間への不当処分?責任転嫁を許さない闘いに総決起することである。
労働組合の変質、社会的責任
問われているのはJR東日本だけではない。労資協調路線にとり込まれ、変質した労働組合の責任も厳しく問われている。とくに、国鉄分割・民営化攻撃に恐れをなしてその手先となった東労組の責任は重大である。結局彼らは、役員の自己保身と私利私欲のために、 自らの組合員も、安全も、雇用も、労働条件も、全てを投げ捨てて会社の手先となった。 あらゆる合理化が右から左に丸呑みされ、安全の危機が社会的問題になると、労働組合が会社擁護の急先鋒の役割を果たし、その結果、営利優先、弱肉強食の競争原理が歯止めを失って暴走したのだ。安全問題の核心は、労働組合の闘いと団結にある。
今こそ東労組と決別を!
彼らには「事故」という問題は絶対に組合運動の課題とはならない。逆に「会社にご迷惑をおかけした」と、会社と一体となってその労働者を責め立て続けてきたのが東労組だ。 現場の労働者は、大月駅事故のときのように、事故を起こせば、会社から責められ、組合から責められて職場を辞めていかざるを得なくなる。東中野事故のように、自らの組合員が生命を奪われたというのに「本人のミスだった。会社に責任はない」のひと言で全てが終わりにされる。 その結果、乗務中に携帯電話を使ったというだけで、いきなり懲戒解雇されるという事態にまで行き着いたのだ。このときの東労組の対応は本当に許せないものだった。東労組の役員はもちろん事態を知っていた。そして「仕方ない」と認めていた。しかし当該の仲間は何も知らされず、ある日出勤すると、突然解雇を言い渡されて、ロッカーを整理することも許されずに職場から放り出されたのである。これが職場の現実だ。こんなことを許してはならない。あすは我が身だ。事故責任転嫁?不当処分を許すな!運転保安確立に向けて全力で闘いぬこう。
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