館山運転区・木更津支区廃止絶対反対闘争勝利の教訓(下)

6474

第57回定期委員会に向けて

(6473号よりつづく)

平成採がスト破りの業務命令を拒否

館山・木更津廃止反対闘争の中で、もう一つ当初から訴え職場で議論していたのは、こうした攻撃を本当の意味ではね返す道は、組織を拡大する以外ないということであった。われわれが力を持たなければ、本質的にはこのような攻撃を止めることはできない。これは厳然たる事実だ。だから組織拡大こそわれわれの最大の課題である。
今回の闘いの渦中でも、それは意識的に追求された。職場で取り組まれた「館山運転区・木更津支区廃止反対署名」は、運転職場の多くで東労組の平成採用者ほとんど全員の署名をかちとったし、また闘いは同じ時期に提案された「ライフサイクルの深度化」提案への怒りの声の組織化と一体で進められた。
これは、駅要員がパンクしようとしている現状を泥縄的にのり切るために、平成採の運転士を5年間駅に配転するという提案であり、現場では、平成採の運転士から激しい怒りの声が吹き出した。われわれは、基地廃止反対闘争と一体の取り組みとして、この攻撃の本質を東労組の若い組合員に明らかにし、会社と東労組・革マルの結託体制を現場から覆す闘いに立ち上がれば粉砕できることを訴え、そして3・17~19ストでは、基地廃止計画の撤回とともに、ライフサイクル提案の白紙撤回を求めた。
こうした全支部をあげた取り組みのなかで、今回の春闘ストでは、スト破りの業務命令を拒否する平成採の東労組の組合員が生まれた。現場長に呼び付けられ、缶詰にされてオルグされ、最後は業務命令でこれを拒否したら処分すると脅かされながら、それでも、「スト破りはできません」とつっぱりぬく青年がこの闘いのなかから生まれてきたのだ。
未だ少数の反乱とはいえ、これは決定的に大きなことであった。今回の闘いの勝利は、職場の団結が一切揺らがなかったこと、地域の怒りの声の組織化、平成採の反乱の始まり等、その全体が当局を包囲し、下手なことはできないという関係に持ち込んだ結果である。

労働運動全体の再生をめざして

さらに3・17~19ストは、館山・木更津問題と同時に、三つの闘争課題に取り組む闘いとなった。新小岩支部、千葉機関区支部、幕張支部は、3月18日に東京・日比谷野外音楽堂で開かれた、イラク開戦4周年弾劾、憲法改悪阻止に向けた青年労働者集会に全力で参加する方針をとり、鴨川支部、いすみ支部は、ストの最中から、一ヵ月後に迫った勝浦市議選での水野さんの必勝に向けた取り組みを開始したのである。
われわれは07春闘ストを、館山や木更津の廃止という職場で直面する課題との関係だけではなく、教育基本法が改悪され、防衛庁が防衛省となり、国民投票法制定策動など、改憲攻撃が本格的に開始されようとしている情勢のなかでの闘いであり、歴史的な分岐点での闘いだと訴えてきた。しかも、労働者にはこの間の民営化・規制緩和政策のなかで生み出された「格差社会」の現実がのしかかり、世界的には労働者の大反乱が開始されている。だから「今回の闘争はストの規模や戦術は去年と大して変わらないが、去年のストライキと今年のストライキの意味は全く違うのだ」ということを、春闘の組織化に当たって何度も確認し、労働運動全体の再生に向け、3・18集会の成功のために全力で取り組むことを決定したのである。

3・18集会が切り開いた地平

とくに、われわれも呼びかけ人の一人となった3・18青年労働者集会の成功は大きな意味をもつものであった。集会は、動労千葉労働学校などから育っていった様々な産別や未組織の青年労働者たちが呼びかけた初めての取り組みであった。労働学校で初めてマルクス主義に触れ、様々な職場で闘いを始め、資本やご用組合の幹部から弾圧を受け、壁に突き当たり、必死でそれをのり越える格闘のなかで彼らは団結を恢復し、ものすごいエネルギー発揮し始めた。そしてこの集会で「労働運動の力で革命をやろう」というスローガン掲げた。これは、「ワーキングプア」「ロストジェネレーション」と呼ばれるような、未来も希望もすべて奪われた切実な現実のなかから、青年たちが自らの声として生み出したスローガンであった。
集会で発揮された青年労働者のエネルギーは、時代が変わろうとしていることを示した。青年が自発的に闘いを開始したことのなかにこそ、労働運動復権の具体的な展望があるのだ。
これは、労働運動の再生に向けたわれわれの地道な努力が、時代の流れと噛み合って大きく発展しようとしていることを示している。

勝浦市議選勝利と一体の闘いとして

さらに、今回の基地廃止反対闘争は、勝浦市議選必勝の取り組みと一体の闘いでもあった。
そもそも1995年に、水野さんを勝浦市議会議員に押し立てるという決断は、その年の12月に勝浦運転区を廃止するという攻撃にいかに立ち向かうのかという議論のなかから生まれた方針であった。そして、組合員が勝浦市内の文字通り全戸をオルグし、市の人口2万5千名の内、1万6千名以上の廃止反対署名を集めきったのである。こうした取り組みによって、運転区は廃止されても旧勝浦支部の固い団結、外房地域の団結は守られたのである。
こうした経過からして、館山運転区・木更津支区の廃止が提案されている状況のなかで、絶対に負けることのできない闘いだった。
館山・木更津廃止反対闘争に全力を投入していたこともあり、取り組みは3月18日から1ヵ月の短期決戦と設定し、地元支部を中心に春闘ストの最中から行動を開始した。
結果としては、票数も順位も前回を上回る8位という高位当選を実現。ここでも大きかったのは、館山・木更津廃止反対闘争の勝利であった。この闘いの勝利と、絶対に負けるわけにはいかないという照岡選対委員長を先頭とした執念が組合員を団結させ、この1ヵ月の間に勝浦での行動に参加した組合員は約600名に上った。これは4回の勝浦市議選のなかで最高の動員数である。4年前と比べると組合員は退職によって100名余り減っている。にも関わらず、この選挙闘争で最高の団結を実現したのは、この間の闘いのなかで動労千葉の団結が一皮向けて一層強くなっていることを示した。
また、選挙闘争には、OBもこれまでになく参加してくれた。勝浦市議選の勝利は、組合員、OB、地元の支持者がまさに一体となってかちとった大きな勝利であった。

JR体制の矛盾の噴出

最後に二点確認しておきたい。
第一に、今回の闘いが大きな勝利をかちとった背景には、国鉄分割・民営化から20年を経て、JR体制の矛盾が激しく噴出しているという問題が横たわっているということである。
この間も、保線・電気・信号関係のトラブルが相次いでいる。メンテナンスコストの削減を進め、極端なまでの要員削減を行い、業務の全面的な外注化を遂行した結果、技術継承が途絶え、安全が崩壊しようとしているのだ。それに加え、労働者には無理なスピードアップや労働強化がのしかかり、安全を「守る」唯一の手段が労働者への徹底した締め付け以外になくなった結果行き着いたのが尼崎事故であった。
さらに、要員政策の完全な破産・失敗である。検修、施設、駅等で「どうせ外注化するのだから専門職など育てる必要はない」という方針で20年間突き進んできた結果、大量退職が進む状況のなかで、列車を動かすという基本的な機能さえ崩れようとしているのである。例えば営業関係だが、この間東京支社では、駅要員がパンクし、支社の課員や地区指導センターの課員を駅員として臨時発令せざるを得なくなっているという。千葉では、事前通知一枚で車掌が駅にバタバタと配転されている。無理な要員削減によって多くのキオスクでシャッターが閉められていることが問題となっているが、このままいけば、キオスクどころか、駅自体のシャッターを閉めざるを得なくなるような事態である。
もうひとつが、革マル結託体制の矛盾である。今もJR東日本は、少なくとも表面上は、東労組・革マルとの結託体制を続けている。しかし、この間あらわになった東労組の内部や、会社との癒着関係のなかで生まれた驚くべき腐敗は、JR足体制の底知れぬ闇をつくっている。東労組内では、利権をめぐって果てしない抗争が続き、ついに幹部が送検される事態にまで至った。しかもこれは、JR体制の土台をなす労務政策をめぐる問題であり、否応なく分割・民営化体制全体に激震をもたらす問題である。
さらに、1047名闘争が、闘いを継続しているという問題がある。今、1047名闘争は「政治解決路線」への埋没という、主体的な危機に直面しているが、改憲と大民営化攻撃が労働者全体にのしかかろうとしている状況のなかで、労働運動にとってそのもつ位置はこれまでになく大きくなっている。

6年間の苦闘が切り開いた成果

第二に確認したいことは、今回の勝利は、われわれが「第二の分割・民営化」と呼んだ攻撃が開始されから6年余りの苦闘の蓄積の上にかちとられた勝利であるということだ。
闘いは、シニア制度(再雇用機会提供制度)と業務の全面的な外注化攻撃をワンセットにして労働組合に呑ませるという卑劣な攻撃との対決から始まった。労働組合として外注化を積極的に推進することを約束しなければ定年後の再雇用を拒否するというやり方は、何よりも労働組合の決定的な変質を迫る攻撃であった。
われわれはこの協定の締結を拒否したが、それから数年間は、毎年定年を迎える組合員との胃の痛むような議論となった。組合自身の力で再雇用先を確保する等の努力も重ねたが、当初は定年を間近にして脱退していく者もでた。しかし、職場をあげた議論のなかで、3年後には脱退者もでなくなり、結局千葉支社だけが今も検修業務の外注化に手をつけることができない状況に追い込んだのである。そして5年後には、「高齢法」が改正されるなかで、小なりとはいえ動労千葉が再雇用制度の協定を締結していなかったことによって、再雇用を就業規則化せざるを得ない事態にJRを追い込み、シニア制度そのものも粉砕したのである。
また03年には、退職間際の組合員の不当配転をめぐり、1、日間にわたって指名ストを拡大していくという闘いで、分割・民営化の過程で駅に不当配転されていた仲間たち14人を運転職場に奪い返すという成果も実現した。
さらに04年からは、レール破断が多発し、尼崎事故が起きる状況のなか、監視・処分を受けながら安全運転闘争を闘いぬき、管内60㎞に及ぶレール交換やATSの設置を実現するという成果もかちとった。そして幕張構内事故闘争では、当該組合員を守りぬいたのである。
厳しくとも原則を貫いて闘うことがいかに重要なのか。館山、木更津廃止反対闘争の勝利は、こうした闘いの積み重ねの上に実現されたものだ。原則的を曲げないこと、そしてこの原則で納得いくまで組合員と討議することこそが組合員の階級的団結をつくるのである。

組織拡大に向け全組合員の総決起を

この間、確かに大きな成果をかちとってきた。しかし、大切なことは、成果を実現したことにあるのではない。仮に何ひとつ目に見える成果がなくとも、団結を守って闘い続けることができるか否かにある。それこそが本当の団結の強さだ。成果は、その結果として後からついてくるものである。
われわれが、本当の意味でJR体制下での闘いに勝利したと総括することができるのは、本格的な組織拡大を実現したときである。かちとった地平をバネに組織拡大闘争への全組合員の総決起を実現しよう。

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