5月15日朝、中村栄一書記長が突然自宅で倒れ、帰らぬ人となりました。享年44歳。くも膜下出血でした。
あまりに突然の訃報に言葉を失いました。書記長に就任して3年目、いよいよこれからだというのに。あんなに輝いていた栄一がなぜこんなに早く……。未だに信じられない思いで、組合員は哀しみの底に沈んでいます。
中村書記長は、動労千葉にとって本当にかけがえのない仲間であり、新世代のリーダーでした。
彼が動労千葉に加入したのは、1990年1月。国鉄分割・民営化が強行されてから3年が経ち、JRへの採用を拒否されて清算事業団に送り込まれた7千名余りの仲間たちの二度目の不当解雇が迫る最中のことでした。
1月18日に予定されたストライキを前に、当時中村君が所属していた国労内では、現場の組合員と地方本部、東日本エリア本部の間で激論が続いていました。「スト指令さえ下ろしてくれれば処分されてもいい。犠救もいらない。だからスト破りだけはさせないでくれ!」。連日連夜にわたる必死の訴えにも係わらず、その声は通じませんでした。17日深夜、彼は8名の仲間たちともに国労と決別し、動労千葉に結集。千葉運転区支部のろう城先に駆けつけてくれたたのです。彼は、そのときのことを「とめどもなく涙が流れてた」と語っていました。
以降、組合員から絶大な信頼を集め、たちまち動労千葉の団結にとって、なくてはならない中心的な存在となって頭角をあらわしました。
1995年10月に本部執行委員、そして2001年10月には本部書記長に就任し、組合員の期待を一身に背負って、全身全霊を捧げて組合員を牽引し続けたのです。
動労千葉にとっては初めての「非専従の書記長」という重責を引き受けてから二期3年目に入り、誰からも信頼を得て、いよいよこれからというときでした。
彼は、親分はだで本当に人情に厚い男でした。自分の身を削ってでも仲間を大切にし、そのためには迷わず火の中にも飛び込むような男でした。「仲間が大切だから俺は動労千葉に生命をかけている」と言い切る男でした。誰に対しても熱く、激しく真正面から向き合う人でした。そして物事の本質をするどく見抜く素晴らしい感性の持ち主でもありました。接する人をたちどころに引き込んでしまうような魅力をもった人間でした。
定年間際の組合員の配転をきっかけとして大闘争となった04春闘の決起集会で、「俺はこの闘いで首を覚悟して先頭にたつ決意をしている。仲間を守るために頑張ろう」と、仁王のように組合員に訴えていた姿が今も目に焼き付いています。彼は、文字通り全人生を動労千葉に捧げ、労働者の団結にかけて闘いぬいたのです。
また彼は、動労千葉とともに闘う
仲間を心の底から大切にし、各地から多くの労働者が結集してくれることを心から喜んでいました。動労千葉を支援する会の会合や労働学校には必ず参加し、終了後に酒を酌み交わしながら、夜遅くまで語り合うことを楽しみにしていました。
中村書記長は、全身全霊をかけて組織拡大を実現するために奮闘していました。04春闘の総括でも彼は「やり残した最大の課題は『平成採』の獲得。だけど可能性は絶対ある。労働者としてどう生きるのかを問い、仲間として一緒に闘っていこうと訴えよう」と組合員に提起し、自らその先頭にたっていました。
自分にも絶対に妥協を許さなかった彼は生き急ぎすぎたのかも知れません。乗務をしながら書記長という要職を務め、そして仲間とのつき合いを何よりも大切にした彼は、無理をしすぎていたのかも知れません。改めて残念至極です。
しかし、残された私たちは、この悲しみに打ちひしがれていることはできません。彼も常に訴え続けていたとおり、すでに動労千葉は死活をかけた闘いに突入しています。そしてわれわれは今春闘や、昨年11月集会での国際連帯闘争の実現に示されるように、新たな地平を築きあげようとしています。戦争と大失業の時代にたち向う不屈の団結を一層固め、彼の思い、志なかばにして倒れた彼の無念を引き受けて私たちが代わりに達成することこそが彼の供養となるただひとつの道です。
中村書記長は不帰の人となりましたが、永遠にわれわれの仲間であり、これからも天国から私たちの闘いの戦列に加わり、スクラムを組み続けるでしょう。
ご遺族の皆様の悲しみはいかばかりか、心情を察するに余りあります。これからも後顧の憂いの残らぬよう、全組合員が一致協力して、残されたご家族を支えてゆく所存です。
書記長、栄一、お前の遺志は絶対俺たちが引継ぐ。その決意をもって、最後のお別れの言葉とします。
2004年5月17日