追悼 鷲田正平さん

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臨調 · 行革粉砕
三里塚

ット 闘 争勝利!
労働者農民に捧げたいいの生涯
ません。
カと権力とに対して、私は立ちあがって闘わざるをえ
約一七〇億円ほどで、地元を懐柔してまいります。金
先般、動労の会議が、わが津山市において行われま
約三〇%を町に交付しております。基地周辺整備費が
議員全員は自衛隊の小使いでございます。国は町予算の
わが日本原においてもいま法律はございません。町会
私たち日本原は七十年の歴史をもっておりますが、
国の無謀を黙視することはできません。
んまに農地をとり上げる策動を行いました。私たちは
合にも、閣議決定緊急施行の名において、農民の知ら
権のない裁判所にしてしまいました。三里塚空港の場
の主張をいたしました。政府は、日本の裁判所を裁判
判所には裁判権がない、裁判長は訴訟を却下せよ」と
国は「高度の行政行為によって行うのであるから、裁
違憲の訴訟をしています。訴訟以来約四年かかって、
いてわずか七十人ですが私たちは、国を相手どって、
が、わが日本原の奈義町であります。その奈義町にお
ご承知のように、明治憲法復元決議を行なった の
(日本原農民)鷲田 正 平
労働組合の再生の道
農民との共同闘争こそ
氏もこの闘いの先頭に立ち、当時よ
略が行われていく時代であり、鷲田
本帝国主義の本格的な朝鮮·中国侵
動·革命運動の本格的高揚と共に日
第一次世界大戦後の世界的な労働運
組合の結成に参加しました。時代は
張り、労働者·農民の立場から歯に
大阪市電に就職、翌年には市電労働
工員等を経験ののち、一九二二年に
業後、12才で単身大阪に出て店員、
岡山県·日本原に生まれ、小学校卒
悼するものです。
鷲田正平氏は、一八九九年(明32)
悲しみと心からの敬意をこめて、追
けられた氏の姿を想いうかべ、深い
生命の火のもえつきる日まで闘い続
争、動労千葉支援に心血をそそぎ、
三里塚をはじめとする全国の住民闘
高齢をおして、日本原はもちろん、
去る八月三十一日逝去されました。
は、春以来の病気療養中のところ、
の闘士にして指導者である鷲田正平氏
日本労働運動·社会変革運動の不屈
な指導者、戦前·戦中·戦後にわたる
闘いを続けている日本原闘争の偉大
自衛隊基地の返還を求めて永年の
統制処分を弾劾して開かれた、「五七八年1月10日集会より)
がありますか。(動労「本部」による動労千葉への
ったことを支援し一致協力せずして、日本の労働運動
千葉の人たちが、初めて真の労働組合として立ちあが
弾するがごときは、もってのほかでございます。動労
が、違反であるがごとく、組合内部においてこれを糾
合の人たちが立ちあがって農民と共同闘争をすること
らない。真に労働運動の精神をもって、千葉の労働組
長しました。今回の動労中央の態度は御用組合に他な
うにできました労働組合は、多くが御用組合として成
ー労働組合」というべきものです。雨後の竹の子のよ
戦後の労働組合は、私にいわせれば、「マッカーサ
メーデーもありませんでした。
た。そして私が出獄したときには、日本に労働組合も
本の労働組合全部が解散を命じられたことがありまし
の中央委員のころ昭和十二年に私たちは投獄され、日
飛鳥田一雄氏など社会党関係者、三
もに闘ったからであります。私も往年、官業労働組合
合らしくなったと喜んだのは、三里塚の同志諸君とと
した。最近の労働組合のなかで、初めて動労が労働組
日本原話:
米占領軍から日本に返還される時点
います。
又、一九五三年、日本原演習場が
ぬ行動力はいまだに語り草となって
衣きせぬ明快な論調と昼夜を分かた
り二期八年にわたって県会に論陣を
議員として立候補、戦後の混乱期よ
行委員、更には戦後初の公選に県会
本農民組合の再建を指導し、中央執
八十四年の闘いの生涯を閉じられま
再建の先頭に立ち、日本社会党と日
再び公然と日本労働運動·農民運動
れた。一九四五年八月、敗戦と共に·
屈の労働者魂をもやして闘い続けら
日を身をもって氏は体験、たえず不
動を指導しぬいてこられた。
とも闘うようなギリギリの闘いの日
しかし断固として原則を貫く農民運
追われ、獄につながれ、生命の危険
もあいついだ中で、少数となっても
社会運動の中心人物は次々と職場を
で、条件派として脱落していく農民
共に弾圧が厳しくなり、労働運動·
場へとひきつがれる長期の闘いの中
一九三七年、中国侵略·日中戦争と
を与えました。その後、自衛隊演習
道をもあわせて行ってこられた。
還闘争の先べんを切り、大きな影響
せられ、「障害」者としての闘いの
成功させるなど、日本全国の基地返
弾圧をうける中、右腕に大ケガをさ
関係六カ村、六〇〇〇名の大集会を
名ありと言われ、たびたびの官憲の
り労働争議のあるところ鷲田正平の
追悼 日慶鷲田正平氏の死を悼む
ました。
全員でしめやかに霊柩車まで見送り
いぬく」決意表明とあいさつのあと
「鷲田氏の教えと意志をうけ継ぎ闘
とば、社会党県本部·田中書記長の
代表して次男正志氏の会葬御礼のこ
の弔電が寄せられました。主催者を
ど、時間内に紹介しきれない程多数
関西新空港反対期成同盟、北富士な
葉、東京実行委員会·浅田光輝氏、
里塚芝山連合空港反対同盟、動労千
幸司氏が行いました。その他、社会党
三里塚芝山連合空港反対同盟· 鈴木
委員長、友人代表、「障害」者代表、
弔辞は、参議院議員·社会党県本部
葉からも水野副委員長が参列しました。
界各層の闘う代表が参加し、動労千
にふさわしく、二〇〇名をこえる各
その先頭で闘いぬいた鷲田氏の葬儀
た。
八十四年の生涯を人民闘争に献げ、
して神道に基づき盛大に催されまし
から鷲田家と日本社会党の合同葬と
葬儀は、九月一日、十一時三十分
全国の違う仲聞に見送られて
した。
いに八月三十一日、その波欄万丈の
その不屈の闘魂をかたむけつつもつ
り入院の闘病を続けておられた氏は、
昨年秋、病気で倒れ、今年四月よ
再使用絶対反対の闘いをまき起こし、
では、永年の闘いの総力をかけて、
全組合員·家族の強固な団結で組織破壊攻撃を粉砕せよ!
百多 動芳千葉

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83.9.3
No. 1434
(鉄電)二九三五~六·(公衆)〇四七二(2)七二〇七
千葉市要町二–八(動力車会館)
国鉄千葉動力車労働組合
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