動労千葉は、国鉄分割・民営化攻撃に対して、2波のストライキを構えて立ち上がった。それから30年以上たった今も「国鉄分割・民営化は決して過去の問題ではない。今現在の問題だ」と訴えて闘いを継続している。
“去るも地獄、残るも地獄”
「国鉄改革」とは何よりも戦後最大の首切り攻撃であった。国鉄分割・民営化の動きが始まった81年の職員数は40万1400人。それから6年後のJR各社に採用された社員数は20万5400人。わずか6年の間に、実に20万人の国鉄労働者が職場を追われた。
ダイ改のたびの大合理化で「余剰人員」を生み出し、「組合など入っていたら生き残れないぞ」と脱退強要が吹き荒れた。全国1千箇所以上に「人活センター」と称する隔離収容所が作られ、何万人という組合役員・活動家が職場から切り離されて配転された。そして「希望退職」という名の退職強要で、JRが発足した時、50歳以上の者は一人も居ない状態であった。国鉄労働者にとっては、ひとりの例外もなく“去るも地獄、残るも地獄”がつきつけられた。
こうした状況の中で、動労千葉は闘いを決断した。2人にひとり、3人にひとりがクビと言われた状況の中で、組合員同士が蹴落とし合うような状況だけは絶対につくってはいけないと考えたからだ。「たとえ鬼といわれようと、蛇といわれようと、われわれは勝利のみをもとめて、闘い続けます」(中野洋著『俺たちは鉄路に生きる』)。
職場では、誰もが不安な気持ちを抱えながら、怒りに満ち、組合員はクビをかけて闘う以外の道はないと腹を決めていた。
「サイは投げられ た。あとにはひけないです。国鉄労働者10万人が放り出されるのに、羊のようにおとなしくクビを切られることはありえないと思う。ボクはそこにかける。名前も顔も分らない。組合も違うけれど労働者というのは絶対に闘う道を選ぶことは間違いないと思っているから・・・」(千葉運転区支部Iさん)
戦後最大の労組破壊攻撃
この時に、突如として分割・民営化―余剰人員整理賛成に舵を切ったのが動労本部=現在のJR総連だった。当局の手先になる者が生まれたことによって、職場における攻撃は一気に陰惨なものになり、200人もの国鉄労働者が自殺に追い込まれていった。
国鉄分割・民営化は戦後最大の労組破壊攻撃だ。だがそれはJR総連革マルが手先になることによって貫徹されたのだ。総評労働運動の最も強力な牽引車だった国労24万人が4万人にまで切り崩された。20万人以上の組合員が脱退するか退職に追い込まれたのだ。後に中曽根は、「国労を潰して総評・社会党を潰す」「お座敷をきれいにして立派な憲法を床の間に安置することが目的だった」と語ったが、その言葉どおりに、日本の労働運動は止めどない後退を強いられ、2千万人もの労働者が非正規職に突き落とされる現実が生み出されたのだ。
国鉄1047名闘争
動労千葉は、40名の解雇者を出しながらも団結を守り抜いてJRにのり込んだ。そしてJR体制下での激しい組織破壊攻撃にも一歩も引くことなくストライキで闘い、戦後最大の労働争議である国鉄1047名解雇撤回闘争を生み出したのである。国鉄分割・民営化との攻防は1047名闘争として継続されている。「解雇撤回・JR採用」―JRに不当労働行為の責任をとらせることは国鉄分割・民営化に決着をつける新たな闘いである。
乗務員勤務制度改悪を強行したJR東日本は、来年4月には「車掌・運転士試験廃止」「乗務員への異動は任用の基準で」「最長でも10年を超えないように異動又は担務変更」という「新たなジョブローテーションの実施」を提案してきた。
今、運転職場では、今まで経験したことない衝撃が走っている。労働者を将棋の駒のごとく軽んじて、会社の匙かげんひとつでどうにでもなる存在に落としこめようというのだ。こんなことは絶対に通用しない。あきらめたら負けだ。今こそ怒りの声を上げよう。
30年におよぶ分割・民営化反対闘争、20年におよぶ外注化阻止闘争を闘いぬいて攻撃を押しとどめてきた大きな地平を、組織拡大に結実させよう。