東労組からの脱退者が1万人をこえている。高崎などでは地本ぐるみで東労組から脱退する動きが始まっている。
会社は2月26日に開かれた「格差ベア」をめぐる団体交渉の場で、「『労使共同宣言』の失効」を東労組に通告した。
東労組は「労使共同宣言」によって生まれ、「労使共同宣言」によって今日まで労使関係を維持してきた労働組合だ。だから「破棄通告」は、東労組の存在自体を認めないと会社から通告されたに等しい意味をもつ。その場にいた役員たちは突然の「破棄通告」に顔色を失って震えあがったはずだ。
「労使共同宣言」とは?
「労使共同宣言」が締結されたのは国鉄民営化の前年の1986年であった(その後内容を若干変えながら更新されている)。民営化に向けた職員の選別・解雇を前にして職場は嵐の渦中にあった。当初、共同宣言に名前を連ねたのは、国鉄総裁と、この宣言によって「民営化賛成・首切り協力」に転ずることになる三つの労働組合(動労、鉄労、全施労)であった。
三労組は国鉄内の少数派組合に過ぎなかったが、共同宣言によって国鉄当局の力でたちまち多数派になっていく。当局は、管理者層に「組合」を作らせて全部合流させ、さらには当時最大組合であった国労に労使一体で激しい切り崩し攻撃をしかけ、脱退者を「労使共同宣言組合」に合流させたのである。
何が宣言されたのか?
何が宣言されたのか。第1に、「勧奨退職を積極的に推進し、目標達成に向け取り組む」こと、第2に、「『民営・分割』を基本とするほかはないという認識にたって一致協力する」こと、第3に、それぞれの組合を解散して「組織統合する」こと、第4に、民営化後も「争議権の行使を自粛する」こと等である。
国鉄当局はもちろんこれを大歓迎し、最大限の抱擁をもって応えた。それは、社会全体を驚かせる労働組合の変節であった。「勧奨退職を積極的に推進」するとは、労働組合自身が首切りに協力することを意味したし、当時の状況では、労働組合が民営化に公然と賛成すること自体が驚きであった。しかも、自ら組合を解散し「ストはやらない」という立場の下に「統合」することまで約束したのだ。
職場支配の道具になった東労組
こうして生まれたのがJR総連(東労組)であった。つまり、労働組合として絶対に譲ってはならない一線をこえてひざを屈し、労働者を売り渡すことと引き替えに、国鉄当局の手によって最大労組になったのである。
東労組は民営化された後も、JRが進める外注化等に協力すること、動労千葉や国労組合員を差別し攻撃する急先鋒を担うことを条件に、会社の手の内で生かされてきた。会社はその限りで組合の一部幹部にはいくらでもアメを与え、職場を支配する権限を与えた。だから、東労組元委員長・松崎などがハワイや沖縄に高級別荘を買い漁る等のとんでもない腐敗が生み出された。
屈伏の果てに生み出されたもの
ところで、国鉄分割・民営化とは何だったのか。国鉄民営化の動きが始まった1981年、国鉄職員は40万1千4百人いた。1987年、民営化によってJR各会社が発足した時、その社員数は全社合わせて20万5千6百人であった。わずか6年の間に20万人もの国鉄職員が職場を追われたのだ。
しかも、それに現在の東労組が与したことによって、攻撃は2百人もの国鉄職員が自殺に追い込まれるほど職場を引き裂いていくものになった。20万人の国鉄労働者の首切りと2百人の自殺! それは、労働組合が会社の手先になったとき、労働者に何がもたらされるのかを示す余りにも厳しい現実であった。そればかりか、非正規職が激増し、「首切り自由」が社会全体でまかり通ることになったのもここからであった。
(下に続く)
『動労千葉 組織部報』発行を決定
「東労組解体」情勢に対して、動労千葉は組織部報の発行を決定しました。この問題は働くものの未来を左右する重大な問題です。労働組合の問題を、ともに真剣に考えよう。闘う労働組合をつくろう。すべてのJR・関連会社で働く労働者は、今こそ動労千葉に結集しよう!