の同志たちと連絡をとり、精力的に革命
流刑や亡命を余儀なくされながらも国内
レーニンは、ツァーの弾圧でシベリア
た。
の内の革命派、後にロシア共産党)だっ
ルシエビキ」(当時、ロシア社会民主党
しぬいたのは、レーニンが指導する「ボ
勝利にむけて労働者·人民を武装し指導
不屈に闘いぬき、来るべき第二の革命の
一
臨調· 行革粉砕!
三
三 里 塚 ジ エ
ット 闘争勝利
こんで燃えあがる。
等による労働者·人民への襲撃に対し、
凶暴な専制の弾圧や民間右翼「黒百人組」
にまきかえされてしまったが、その後の
一次革命は、残念ながらその後の反革命
いったん勝利した一九〇五年のこの第
働者、農民、そして闘いは軍隊をもまき
チョムキンの反乱をはじめ、ロシアの労
革 革命の炎が燃えあがった。有名な戦艦ポ
その事件をきっかけに、ロシア全土に
れる。(「血の日曜日」事件)
人民に銃弾をうちこみ、大量の血が流さ
=ツァーの銃だった。軍隊は容しゃなく
けたものは、パンと平和ではなく、専制
民の切実な要求を請願したデモを待ちう
時は日露戦争の真只中、ロシア皇帝に人
食糧と生活と平和を求めてデモを行った。
労働者とその妻·子供たちは、人並みの
一九〇五年一月、ペトログラードで、
ごく生き生きとしたものだった。
氏から伝えられたロシア革命は、ものす
について学んだ。社会運動家·浜田俊郎
今回は、「ロシア革命と労働者階級」
ロシア 革命に感動
生き生きとした
を掲載する。
された「レポート」
受講生から提出
された。
級」と題して開催
ア革命と労働者階
件派·脱落派との厳しい対決、このこと
ルの攻防、三里塚での空港反対同盟と条
国鉄での動労千葉と動労「本部」革マ
の勝利はやっぱりありえないと思った。
場に立たない限り、本当の労働者や農民
を講師に、「ロシ
動家 · 浜田俊郎氏
1月17日、社会運
校·第8回講座は、
動労千葉労働学
参加して、感想文ト教学生)
ホ回労働学校に
百和 動芳千葉
を準備していった。
:
てデモを行う。
土に革命の炎がまきあがる。三月末、ロ
一斉にポルシェビキ弾圧を開始し、また
この事件をきっかけに、再びロシア全
いつめられた連立政府や軍部反動などが
して、婦人たちは「パンと平和」を求め
一九一七年、二月の国際婦人デーを記念
も疲れ苦しみ、厭戦気運が蔓延していた
一次世界大戦も終りに近づき人民も兵士
妥協を排し、武力革命で労·農·兵の民
人民の犠牲のうえにおし進められた第
「人民の武装」にかけたレーニン
「妥協」を排し、あくまでも
に、今日のあらゆる問題もそのような立
く。 ロシア革命が全くそうであったよう
がらしのぎをけずり、国内戦争をやりぬ
し、国内においてガンガン激突しあいな
意を固めた。
(おわり)
にたたなくてはならないとあらためて決
り、日本帝国主義=中曽根打倒の最先頭
う事実と教訓を今日に徹底的に生かし切
りと証明された「労農同盟の勝利」とい
労千葉の労働者は、ロシア革命でくっき
鉄決戦をギリギリと闘いぬくわれわれ動
音が近づいてきている今日、三里塚–国
そして、第三次帝国主義世界戦争の足
–
れていたのである。
党·勢力がこの「妥協の路」に引きこま
では10月24日)未明、一斉に武器をとり武
働者·人民·兵士は11月6日(ロシア暦
に成長していった。
ギリとせめぎ合い、人民も真二つに分岐
がわいてきた。
革命期––激動期には、敵と味方がギリ
の道を腐らせ、敗北させることに通じる
受けると同時に、ものすごい自信と確信
この講座を受講して、私は強い衝撃を
ものすごく自信と確信がわいてきた
り、亡命先のスイスから身の危険をおか
つあると判断したレーニンは、四月にな
ロシア革命が決定的な情勢に近づきつ
土地の解放、生活の保障、等を中心に、
間では「二重権力状況」といわれるまで
ちは続々とソビエトに結集し、政府との
権力樹立」を宣言し、2日遅れてモスク
妥協に満足しない労働者·農民·兵士た
エト大会」を経て8日には「労農政府の
戦争の継続」だった。一方、そのような
ラードを制圧、翌日の「全国労·兵ソビ
「連立政府」のうち出した政策は、「
装蜂起を決行、一日にして首都ペトログ
てしまう。ボルシェビキ以外のすべての
政府」なる妥協的形態におしとどめられ
中途でおしとどめ、かすめとり、「連立
だが、その革命をブルジョアジー共は、
革命(第三次革命)へと着実に準備を進
命 == 第二次革命、ロシア暦では2月)
と指導を貫き、最後の勝利の革命=10
カは爆発的に増大していった。(2月革
ト(革命評議会)」をつくり、その数と
倒し、新しい社会のために「労農ソビエ
ポルシェビキは不屈·非妥協に戦術を駆
シアの労働者·人民はついにツァーを打
軍部の反革命反乱などが起こる。しかし、
のだという事が実感できた。
めてい った。
り、妥協したりすることは、人民解放へ
ここをあいまいにごまかしたり、避けた
はまさしく革命に至る必然的なものだ。
設へと前進していったのである。
多くの困難をのりこえソビエト国家の建
全土が解放され、ただちに戦争の終結、
ワでも武装蜂起が勝利、こうしてロシア
満を持したボルシェビキの指令一下、労
情勢のにつまりと準備の完了をもって、
た力によってのみ革命は勝利する」方針
使してあくまでも「労·農·兵の武装し
全組合員·家族の強固な団結で組織破壊攻撃を粉砕せよ!
していった。
の一方におけるポルシェビキの前進に追
泥沼にたち至っている戦争、破綻、そ
主的政権をうちたてよ」と訴え、組織化
拒否して全ての権力をソビエトに!」 「
通じて、労働者·人民に、「連立政府を
ンはボルシエビキの再武装·指導強化を
帰ってくる。指導の先頭にたったレーニ
してペトログラード(ロシアの首都)へ
(鉄電)二九三五~六·(公衆)〇四七二(2)七二〇七
:
84. 11. 24
No.
1800
千葉市要町二–八(動力車会館)
国鉄千葉動力車労働組合
5
流刑や亡命を余儀なくされながらも国内
レーニンは、ツァーの弾圧でシベリア
た。
の内の革命派、後にロシア共産党)だっ
ルシエビキ」(当時、ロシア社会民主党
しぬいたのは、レーニンが指導する「ボ
勝利にむけて労働者·人民を武装し指導
不屈に闘いぬき、来るべき第二の革命の
一
臨調· 行革粉砕!
三
三 里 塚 ジ エ
ット 闘争勝利
こんで燃えあがる。
等による労働者·人民への襲撃に対し、
凶暴な専制の弾圧や民間右翼「黒百人組」
にまきかえされてしまったが、その後の
一次革命は、残念ながらその後の反革命
いったん勝利した一九〇五年のこの第
働者、農民、そして闘いは軍隊をもまき
チョムキンの反乱をはじめ、ロシアの労
革 革命の炎が燃えあがった。有名な戦艦ポ
その事件をきっかけに、ロシア全土に
れる。(「血の日曜日」事件)
人民に銃弾をうちこみ、大量の血が流さ
=ツァーの銃だった。軍隊は容しゃなく
けたものは、パンと平和ではなく、専制
民の切実な要求を請願したデモを待ちう
時は日露戦争の真只中、ロシア皇帝に人
食糧と生活と平和を求めてデモを行った。
労働者とその妻·子供たちは、人並みの
一九〇五年一月、ペトログラードで、
ごく生き生きとしたものだった。
氏から伝えられたロシア革命は、ものす
について学んだ。社会運動家·浜田俊郎
今回は、「ロシア革命と労働者階級」
ロシア 革命に感動
生き生きとした
を掲載する。
された「レポート」
受講生から提出
された。
級」と題して開催
ア革命と労働者階
件派·脱落派との厳しい対決、このこと
ルの攻防、三里塚での空港反対同盟と条
国鉄での動労千葉と動労「本部」革マ
の勝利はやっぱりありえないと思った。
場に立たない限り、本当の労働者や農民
を講師に、「ロシ
動家 · 浜田俊郎氏
1月17日、社会運
校·第8回講座は、
動労千葉労働学
参加して、感想文ト教学生)
ホ回労働学校に
百和 動芳千葉
を準備していった。
:
てデモを行う。
土に革命の炎がまきあがる。三月末、ロ
一斉にポルシェビキ弾圧を開始し、また
この事件をきっかけに、再びロシア全
いつめられた連立政府や軍部反動などが
して、婦人たちは「パンと平和」を求め
一九一七年、二月の国際婦人デーを記念
も疲れ苦しみ、厭戦気運が蔓延していた
一次世界大戦も終りに近づき人民も兵士
妥協を排し、武力革命で労·農·兵の民
人民の犠牲のうえにおし進められた第
「人民の武装」にかけたレーニン
「妥協」を排し、あくまでも
に、今日のあらゆる問題もそのような立
く。 ロシア革命が全くそうであったよう
がらしのぎをけずり、国内戦争をやりぬ
し、国内においてガンガン激突しあいな
意を固めた。
(おわり)
にたたなくてはならないとあらためて決
り、日本帝国主義=中曽根打倒の最先頭
う事実と教訓を今日に徹底的に生かし切
りと証明された「労農同盟の勝利」とい
労千葉の労働者は、ロシア革命でくっき
鉄決戦をギリギリと闘いぬくわれわれ動
音が近づいてきている今日、三里塚–国
そして、第三次帝国主義世界戦争の足
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れていたのである。
党·勢力がこの「妥協の路」に引きこま
では10月24日)未明、一斉に武器をとり武
働者·人民·兵士は11月6日(ロシア暦
に成長していった。
ギリとせめぎ合い、人民も真二つに分岐
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革命期––激動期には、敵と味方がギリ
の道を腐らせ、敗北させることに通じる
受けると同時に、ものすごい自信と確信
この講座を受講して、私は強い衝撃を
ものすごく自信と確信がわいてきた
り、亡命先のスイスから身の危険をおか
つあると判断したレーニンは、四月にな
ロシア革命が決定的な情勢に近づきつ
土地の解放、生活の保障、等を中心に、
間では「二重権力状況」といわれるまで
ちは続々とソビエトに結集し、政府との
権力樹立」を宣言し、2日遅れてモスク
妥協に満足しない労働者·農民·兵士た
エト大会」を経て8日には「労農政府の
戦争の継続」だった。一方、そのような
ラードを制圧、翌日の「全国労·兵ソビ
「連立政府」のうち出した政策は、「
装蜂起を決行、一日にして首都ペトログ
てしまう。ボルシェビキ以外のすべての
政府」なる妥協的形態におしとどめられ
中途でおしとどめ、かすめとり、「連立
だが、その革命をブルジョアジー共は、
革命(第三次革命)へと着実に準備を進
命 == 第二次革命、ロシア暦では2月)
と指導を貫き、最後の勝利の革命=10
カは爆発的に増大していった。(2月革
ト(革命評議会)」をつくり、その数と
倒し、新しい社会のために「労農ソビエ
ポルシェビキは不屈·非妥協に戦術を駆
シアの労働者·人民はついにツァーを打
軍部の反革命反乱などが起こる。しかし、
のだという事が実感できた。
めてい った。
り、妥協したりすることは、人民解放へ
ここをあいまいにごまかしたり、避けた
はまさしく革命に至る必然的なものだ。
設へと前進していったのである。
多くの困難をのりこえソビエト国家の建
全土が解放され、ただちに戦争の終結、
ワでも武装蜂起が勝利、こうしてロシア
満を持したボルシェビキの指令一下、労
情勢のにつまりと準備の完了をもって、
た力によってのみ革命は勝利する」方針
使してあくまでも「労·農·兵の武装し
全組合員·家族の強固な団結で組織破壊攻撃を粉砕せよ!
していった。
の一方におけるポルシェビキの前進に追
泥沼にたち至っている戦争、破綻、そ
主的政権をうちたてよ」と訴え、組織化
拒否して全ての権力をソビエトに!」 「
通じて、労働者·人民に、「連立政府を
ンはボルシエビキの再武装·指導強化を
帰ってくる。指導の先頭にたったレーニ
してペトログラード(ロシアの首都)へ
(鉄電)二九三五~六·(公衆)〇四七二(2)七二〇七
:
84. 11. 24
No.
1800
千葉市要町二–八(動力車会館)
国鉄千葉動力車労働組合
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