(③から続く)
バスもタクシーも撤退した果てに
こんな現実の中で、大々的な廃線化・バス転換を進めようというのだ。
もちろん廃止当初はバスを走らせるだろう。でも、それがいつまで維持されるかは何の保証もない。また再び「仕方がない」という同じ論理が繰り返される。そして、責任は“自助努力”しなかった住民に押しつけて地域が丸ごと打ち棄てられていく。
それは仮定の話ではない。現実におきていることだ。民営化後JRは、災害時等の取り扱いについて、都市部以外は「復旧よりバス代行輸送を優先する区間」と定めた。千葉では東京から70㎞以遠がその対象とされた。そう定めることで災害時等に即応できる保線・電力・信号通信・車両検修等のメンテナンス体制を廃止したのである。
「各地のバス会社とはあらかじめ契約しておき、災害時等には直ちに対応してもらうので乗客の利便性はむしろ高まる」というのがその時の説明であった。
だがそれから時を経て今、どうなっているのか。災害時に来てくれるバス会社はほとんどいない。撤退したり、そのような対応余力は無くなってしまっているのだ。乗客は一晩でも動けない列車の中に缶詰にされる。これが現実に起きていることだ。
それどころか、この間各地で社会的問題になっているのは“タクシー会社の撤退”だ。電車もバスも無くなると、買物に行くにも、病院に行くにも、残された地域の交通手段はタクシーだけになる。町は補助金を出して必死に維持するが、それも限界を迎えタクシー会社も撤退してしまう。
攻撃の背後にあるもの
国交省やJRはこうした現実を知らないわけではない。百も承知の上だ。「ローカル線大虐殺」計画がこうした現実をさらに加速させ、悪化させるであろうことも分かった上でやっているのだ。
それは単に鉄道・ローカル線だけを対象にしたものではない。“社会の総崩れ”はまさに社会の全分野で起きている。その中でローカル線―公共交通機関の解体を皮切りに国家のあり方そのものを変えてしまおうとする攻撃だ。
かつての“国鉄改革”は「日本が21世紀に生き残るための国家の構造改革」と称して強行されたが、今回の攻撃も同様の重大な意味をもつ攻撃だと見なければならない。
〝資本と「国家」が生き残るためにはどんな犠牲も仕方がない〟〝日本が国際競争にかち残るためには「選択と集中」をもっと徹底せよ〟〝社会が崩壊しようが生活が破壊されようが、もうそんなことにかまっている余裕はない〟〝国家の構造改革を断行せよ〟…。それが国交省検討会の背後にあるものだ。
すべての労働者の未来をかけて
新自由主義攻撃の中で一体何がおきたのかをもう一度目をこらして見なければならない。
例えば教育。02~20年度の19年間に何と8580校もの公立の小中高校等が廃校されている。毎年450校以上。小中学校の設置基準を改悪して政策的につぶしてきたのだ。地方では通学が困難になる子どもたちが膨大に生まれている。
その一方では、これだけ廃校にしていながら、この4月には教員不足で担任が決められない学校が多くあるというのだ。何かとんでもないことが起きようとしているとしか考えられない。
コロナ禍が明るみに引き出したのは医療の崩壊だった。保健所は半分に減らされ、確保されていた感染症病床も5分の1にされていた。誰も知らないうちに、感染症や大規模災害に全く対応できない社会にされていたのである。
地域が崩れていく大きなきっかけは、役場、鉄道、郵便局、学校、病院等、公的部門の雇用が徹底的に削減され、非正規職化されていったことにあった。地域はたちまち衰退し、少子化を加速させた。貧困・格差、非正規職の激増、30年間賃金が上がらないという異常な事態…
こうしたことが相互に影響し合って社会に蔓延し、すべてが限度と限界をこえようとしている。それが「限界国家」と呼ばれる日本の現実だ。
国交省検討委員会路線は、この事態を一気に加速させるものだ。こんなことが通用するなら、郵便局も、学校も、病院も、何もかもが、全面的に撤退していくことが正当化されることになる。むしろ、ローカル線を切り捨てることによって、すべてをそういう方向に仕向けていこうとしているとしか考えられない。
そこには労働者が働いており、人が住んでいる。今回のローカル線「大虐殺」は“国鉄改革”に継ぐ大攻撃であり、すべての労働者の未来を左右する問題だ。
(⑤に続く)