臨調· 行革粉砕!
三 里塚ジェット 闘争勝利!
マル生的差別·分断は許さな
=運転適性検査で当局を追及
# 54
アニメープン
『スに結集しょう
41.
716
千葉県中央メーデー
–
一一
三里塚-国鉄決戦の勝利へ拡大しよう!
★中江-北原選挙の勝利を、五月
以上の他の支部は
●集合#千葉運転区、九時三〇分
●五月一日、十時 、· 千葉公園
50
各地区 メーデーに参加。
總同盟關東木産では七時から深川社大篇支
青年部 各支部別に集合を持った。
幕張、千葉転、蘇我)。
参加支部(新小岩、津田沼、
部で茶話会を開催。
赤坂班、全員公休、七十名高尾へハイキ
覺氟部 小石川班全員公休を決議。その中
our
って適性を引き出せなくなるので明らかにできな
検査の性格上、受検者が判定基準を知ることによ
ほしい。また、判定基準を明らかにすることは、
も屈指の研究機関を持っているのであり信頼して
判定に関与させることについては、国鉄は日本で
1 不安感解消のために、組合推薦の医師等を
内包していることは明白であり、今後も厳しく事
当なマル生的労働者差別に転化する要素を大きく
局より大要次のような回答が行われた。
そして、四月十六日の団交においては冒頭、当
を打ち切った。
安感。
について具体的に解答することを要求して交渉
素については絶対に認めないことを通告し、団交
ることと、マル生的発想に基づく労働者差別の要
「四月末日」にこだわらず、議論を尽すべきであ
4 判定基準の明確化。
(3)
「他職適」となった者の扱い。
2 検査周期(3ヵ月)に対する問題
1 当局の運適実施の意図に対する不信感、不
三月二二日の団交で当局解答を追及した。そして、
八号」(三月十一日)をもって解明要求を行い、
二月二日の当局提案に対し、動労千葉は「申第
を前提に四月十六日の団交を開催したものである。
の団交における未解答部分について議論すること
交渉を詰める」という確認を拒否し、三月二二日
と屈服を宣言している。
このような情勢の中で、動労千葉は「四月中に
分子は、全国戦長会議の中で「四月中に落とす」
る」ことを労使確認し、動労「本部」革マル反動
労はこの団交の中で「四月末を目途に交渉を詰め
「四月一日実施」が粉砕された。しかし、国、動
してきたが、動労千葉をはじめとする闘いの中で
本件問題についての決着を図りたいとして焦点化
で、年度末手当および検修職制改正問題とともに
国鉄当局は、3 ·31闘争を背景とした団交の中
なおも「四月中の実施」を狙う当局
メーデーの禁止に抗議したたたかいを報じた「労働雑誌」(1936年6月号)
廣屬 茶話會、五十名。
三田燃車·
微。
一 茶話命、三十
大學自動車
2
ピクニ
茶話命、出席者五十名。
一齊早退に當局狼狽。
千饿バス ピクニック、懇談會、二十四名
、二十五名袋加。
午後から茶話會、三十五名参加。
東京市電の兄弟は次の様に比日を送った。
東
終的に、動労千葉より、
ない。
を打ち切った。
1930年代に
入ると、不況の波と
共に、戦争体制への
急速なのめりこみが行
われた。1931年(満州事
変)を契機に、いわゆる「15年戦
争といわれる中国侵略戦争に突
入。 労働者·社会運動への弾圧が強
化される一方で、産業報国会的「ゆこう運
京
報速國全
如何に闘はれたか?
禁止メーデーは
(※)
1936年には「2.26
事件」.ナチス·ドイツと日
本との間に、「日独防共協定」』
1937年、本格的日中戦争開始。
しかし、メーデー禁止·集会禁止の弾
動」の前身ともいうべき「日本主義」労働運動も
育成され、彼らは 5月1日のメーデーに対抗して、
1934年には、4月29日に「愛国勤労祭」を祝うまで
に至っていた。1936年(5.11年)、遂にメーデーが禁止さ
れた。(復活は、戦後1946年=⇒17回メーデー)。(※)
態の推移をみつめ、闘い抜いてゆかなければなら
本問題は「事故防止」を大義名分としつつ、不、
のではないが、ことがらの重大性を充分に認識し、
回答を要求し、次回以降の団体交渉は拒否するも
等について、具体的内容をもって誠意ある文書
の扱い。
一
3
判定の問題。 2
「他職適」となった者
検査周期「三年」の根拠。
運転事故との関連性などについて議論した後、最
期、検査内容、判定基準、高令者対策との関連、
マル生的労働者差別は許さない!
く当局追及が行われた。私鉄各社の状況、検査周
いない」「不誠実である」ということなど、激し
渉委員から「前回に比べて前進した内容となって
この回答について、乗務員分科を中心とする交
者問題については別途考えたい。
!
·
事情も勘案し、その都度対処したい。なお、高令
3
「他職適」となった者については、本人の
ことを通して解消してゆきたい。
圧に抗して、不屈に聞いを貫く労働組合
もあり、厳しい削りを続けた。
不信感の解消については、説明不足を補う
王祖日買家族の強固な団結で組織破壊攻撃を粉砕せよ!
を狙う当局に対し、動労千葉は四月十六日の団体交渉で厳しく追及した。
われは、原則的闘いのつみ上げをもってこれを粉砕してきた。そして、なおも「四月中の実施」
国鉄当局が「四月一日実施」を狙ってかけてきていた運転適性検査導入の攻撃に対し、われ
(鉄電)二九三五~六·(公衆)〇四七二(2)七二〇七
千葉市要町二–八(動力車会館)
小動芳千葉
80
3
83. 4. 29
4
No.
1328
国鉄千葉動力車労働組合
:
三 里塚ジェット 闘争勝利!
マル生的差別·分断は許さな
=運転適性検査で当局を追及
# 54
アニメープン
『スに結集しょう
41.
716
千葉県中央メーデー
–
一一
三里塚-国鉄決戦の勝利へ拡大しよう!
★中江-北原選挙の勝利を、五月
以上の他の支部は
●集合#千葉運転区、九時三〇分
●五月一日、十時 、· 千葉公園
50
各地区 メーデーに参加。
總同盟關東木産では七時から深川社大篇支
青年部 各支部別に集合を持った。
幕張、千葉転、蘇我)。
参加支部(新小岩、津田沼、
部で茶話会を開催。
赤坂班、全員公休、七十名高尾へハイキ
覺氟部 小石川班全員公休を決議。その中
our
って適性を引き出せなくなるので明らかにできな
検査の性格上、受検者が判定基準を知ることによ
ほしい。また、判定基準を明らかにすることは、
も屈指の研究機関を持っているのであり信頼して
判定に関与させることについては、国鉄は日本で
1 不安感解消のために、組合推薦の医師等を
内包していることは明白であり、今後も厳しく事
当なマル生的労働者差別に転化する要素を大きく
局より大要次のような回答が行われた。
そして、四月十六日の団交においては冒頭、当
を打ち切った。
安感。
について具体的に解答することを要求して交渉
素については絶対に認めないことを通告し、団交
ることと、マル生的発想に基づく労働者差別の要
「四月末日」にこだわらず、議論を尽すべきであ
4 判定基準の明確化。
(3)
「他職適」となった者の扱い。
2 検査周期(3ヵ月)に対する問題
1 当局の運適実施の意図に対する不信感、不
三月二二日の団交で当局解答を追及した。そして、
八号」(三月十一日)をもって解明要求を行い、
二月二日の当局提案に対し、動労千葉は「申第
を前提に四月十六日の団交を開催したものである。
の団交における未解答部分について議論すること
交渉を詰める」という確認を拒否し、三月二二日
と屈服を宣言している。
このような情勢の中で、動労千葉は「四月中に
分子は、全国戦長会議の中で「四月中に落とす」
る」ことを労使確認し、動労「本部」革マル反動
労はこの団交の中で「四月末を目途に交渉を詰め
「四月一日実施」が粉砕された。しかし、国、動
してきたが、動労千葉をはじめとする闘いの中で
本件問題についての決着を図りたいとして焦点化
で、年度末手当および検修職制改正問題とともに
国鉄当局は、3 ·31闘争を背景とした団交の中
なおも「四月中の実施」を狙う当局
メーデーの禁止に抗議したたたかいを報じた「労働雑誌」(1936年6月号)
廣屬 茶話會、五十名。
三田燃車·
微。
一 茶話命、三十
大學自動車
2
ピクニ
茶話命、出席者五十名。
一齊早退に當局狼狽。
千饿バス ピクニック、懇談會、二十四名
、二十五名袋加。
午後から茶話會、三十五名参加。
東京市電の兄弟は次の様に比日を送った。
東
終的に、動労千葉より、
ない。
を打ち切った。
1930年代に
入ると、不況の波と
共に、戦争体制への
急速なのめりこみが行
われた。1931年(満州事
変)を契機に、いわゆる「15年戦
争といわれる中国侵略戦争に突
入。 労働者·社会運動への弾圧が強
化される一方で、産業報国会的「ゆこう運
京
報速國全
如何に闘はれたか?
禁止メーデーは
(※)
1936年には「2.26
事件」.ナチス·ドイツと日
本との間に、「日独防共協定」』
1937年、本格的日中戦争開始。
しかし、メーデー禁止·集会禁止の弾
動」の前身ともいうべき「日本主義」労働運動も
育成され、彼らは 5月1日のメーデーに対抗して、
1934年には、4月29日に「愛国勤労祭」を祝うまで
に至っていた。1936年(5.11年)、遂にメーデーが禁止さ
れた。(復活は、戦後1946年=⇒17回メーデー)。(※)
態の推移をみつめ、闘い抜いてゆかなければなら
本問題は「事故防止」を大義名分としつつ、不、
のではないが、ことがらの重大性を充分に認識し、
回答を要求し、次回以降の団体交渉は拒否するも
等について、具体的内容をもって誠意ある文書
の扱い。
一
3
判定の問題。 2
「他職適」となった者
検査周期「三年」の根拠。
運転事故との関連性などについて議論した後、最
期、検査内容、判定基準、高令者対策との関連、
マル生的労働者差別は許さない!
く当局追及が行われた。私鉄各社の状況、検査周
いない」「不誠実である」ということなど、激し
渉委員から「前回に比べて前進した内容となって
この回答について、乗務員分科を中心とする交
者問題については別途考えたい。
!
·
事情も勘案し、その都度対処したい。なお、高令
3
「他職適」となった者については、本人の
ことを通して解消してゆきたい。
圧に抗して、不屈に聞いを貫く労働組合
もあり、厳しい削りを続けた。
不信感の解消については、説明不足を補う
王祖日買家族の強固な団結で組織破壊攻撃を粉砕せよ!
を狙う当局に対し、動労千葉は四月十六日の団体交渉で厳しく追及した。
われは、原則的闘いのつみ上げをもってこれを粉砕してきた。そして、なおも「四月中の実施」
国鉄当局が「四月一日実施」を狙ってかけてきていた運転適性検査導入の攻撃に対し、われ
(鉄電)二九三五~六·(公衆)〇四七二(2)七二〇七
千葉市要町二–八(動力車会館)
小動芳千葉
80
3
83. 4. 29
4
No.
1328
国鉄千葉動力車労働組合
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