労農連帯を一層強め、三里塚·ジェット闘争を貫徹しょう!
三里塚闘争の原点をたずねて
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I
HIEr
1
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0
。
.
10.21
総決起の
ために 3
東峰部落 島村さんの家族にインタビュー 上
ちゃんもこっちに来て何とか二人で工夫すれば、
(つづく)
() 成田名産 · 落花生
ネ
家の出なんスヨ。
大した仕送りもできないーそれならいっそ、とう
私はそのころまだ東京に居たんだが、やっぱし、
落花生を担いで成田から東京まで通ってたんスヨ。
ら十余三から朝五時頃起きて、二貫目か三貫目の
歩かせてね、当時はまだバスも通ってなかったか
女房がネ二才の子供をおぶって、四才の女の子を
女房が成田の方に知り合いを頼って出てきていた。
り歩いて、なんとか食っていけるヨというんで、
く上ではしょうないわサー東京まで運んでって売
から一応ヤミ売りになるんだけどネ、ま、生きて
の名産の落花生をヨー当時はこれも統制されてた
たまたまここの十余三の人から勧められて成田
二三里塚へ、商いの傍わら開墾の毎日
行くのがやっとでさ、一日一日が必死だったです
くっちゃとあせっても、なんせ自分一人が食って
ネ。早く生活の基盤ととのえて家族をよび寄せな
も何にもありゃしないわネ·焼け野が原だかっ
で東京に帰ってきたんだけど、ま、元の職場も家
とりあえず一〇月ごろ家族は新潟に残したまま
(2) 焼け野が原の東京へ、再び
内地で解除になった訳です。
団に入団したです。八月の終戦のときは、だから
そうこうしているうちに復員者対象の県有地払
昭和二〇年の三月に赤紙の召集をうけて舞鶴の軍
女房と小供をネ新潟に疎開させたんです。で私は
しくなって東京空襲なんかという話になったんで、
三八位の時かねえ、あの大東亜戦争も相当きび
りあった女房と所帯をもったス·女房も青森の農
に出て…というので二六の年に上京し東京で知
してネ、あまり財産もなかったから、ひとつ東京
ので、翌年正月から私も十余三の方に腰をおちつ
私の生まれは実は新潟の雪国の農家の二男坊で
(1) 農家の二男坊が東京へ、そして戦争
一生いたち
ふ事だったワナ。
それは難儀な仕
はらして、それはい
手の皮を真赤に !!
鍬で堀り起して焼いて、まるで土方工事のようで、
ちゃって、根っこだけ残してある。それをトンビ
ね。それも立派な立ち木はみんな県がもって行っ
かった。
た。ここいら辺にはこんな大きな松の木があって
タスキに長しの状況だった。それでも五年近くか
減って、一人平均一町二反歩「まあ、帯に短かし 全
て自立してやって行けない。最終的には二八人に 組
しか払い下げないというので、これじゃ農民とし 合
私ら三六人の入植希望者に対して県は三五町歩島
(3) トンピ鍬一丁で…まるで「土方仕事」サネ
た頃です。
あって、この辺一帯に開墾の鍬が入りはじめてい
の宮内庁相手に御料地を解放せよの闘争なんかも
の小作地解放運動や、死んだ小川明治さんなんか店
をやったです。そのころは、全国的にも地主から
で、
() 県有地解放運動
ナオミーマー
団結街道の
山本
島村良助
それこそまるで山と竹やぶなんだから大変だっ
め ん な 主 放 し の 有
か ん か 運 た 仲 地
か ら 動 り 間 払 ョ と か 雨 大
かれこれ五年間位にわたって県有地解放運動
をつくってね、村や県にかけ合ったり陳情したり
い下げの運動がもち上って、私らも遠山村の仲間
けるようにしたんですワ。
ネ。本当に、自分の手で米を作りたかったですヨ
ほんの少しでもいいから自分の土地が欲しい、と
露をしのいだというぁんばいでした。どんなにか
師様のお堂を貸してもらって一家四人が何とか雨
もちろん親せき·縁故もなかったから、村の大
に起してつれ歩くのもかわいそうだから、というよ
ヶ月間やりましたからネ女房は「子供たちを五時
それに寒くなって!ちょうど一一月、一二月と二
島村さん(は
全組合員·家族の強固な団結で組織破壊攻撃を粉碎せよ!
食事をしている所だった。どうぞ、どうぞと快よく取材に応じてくださった。
がらくつろいでおられた。台所では息子さんの 昭治 さん夫婦が東京から援農に来ていた労働者と
で、
ちょうど居間では、島村良助さんと奥さんが、この三月に生まれたお孫さんをあやしな
一〇月のある日、東峰部落で闘いぬいておられる島村さんのお宅を訪ねた。夕食前のひととき
の原点、労農連帯という事の原点とは一体何なんだろうー今一度そ れを再確認してみたくて、
のストライキ実現をめざして、今、職場での組織化がかちとられようとしている。三里塚闘争
10·21国際反戦デーにむけ「二期工事阻止·国鉄三五万人合理化粉砕·ジェット増送阻止」
「この土地はョ、私の分身なんだ」
I
56
日
小動芳千葉
79.10.10
No. 244
(鉄電)二二五八~九·(公衆)〇四七二(2)七二〇七
千葉市 要町二–八(動力車会館)
国鉄千葉動力車労働組合
三里塚闘争の原点をたずねて
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ために 3
東峰部落 島村さんの家族にインタビュー 上
ちゃんもこっちに来て何とか二人で工夫すれば、
(つづく)
() 成田名産 · 落花生
ネ
家の出なんスヨ。
大した仕送りもできないーそれならいっそ、とう
私はそのころまだ東京に居たんだが、やっぱし、
落花生を担いで成田から東京まで通ってたんスヨ。
ら十余三から朝五時頃起きて、二貫目か三貫目の
歩かせてね、当時はまだバスも通ってなかったか
女房がネ二才の子供をおぶって、四才の女の子を
女房が成田の方に知り合いを頼って出てきていた。
り歩いて、なんとか食っていけるヨというんで、
く上ではしょうないわサー東京まで運んでって売
から一応ヤミ売りになるんだけどネ、ま、生きて
の名産の落花生をヨー当時はこれも統制されてた
たまたまここの十余三の人から勧められて成田
二三里塚へ、商いの傍わら開墾の毎日
行くのがやっとでさ、一日一日が必死だったです
くっちゃとあせっても、なんせ自分一人が食って
ネ。早く生活の基盤ととのえて家族をよび寄せな
も何にもありゃしないわネ·焼け野が原だかっ
で東京に帰ってきたんだけど、ま、元の職場も家
とりあえず一〇月ごろ家族は新潟に残したまま
(2) 焼け野が原の東京へ、再び
内地で解除になった訳です。
団に入団したです。八月の終戦のときは、だから
そうこうしているうちに復員者対象の県有地払
昭和二〇年の三月に赤紙の召集をうけて舞鶴の軍
女房と小供をネ新潟に疎開させたんです。で私は
しくなって東京空襲なんかという話になったんで、
三八位の時かねえ、あの大東亜戦争も相当きび
りあった女房と所帯をもったス·女房も青森の農
に出て…というので二六の年に上京し東京で知
してネ、あまり財産もなかったから、ひとつ東京
ので、翌年正月から私も十余三の方に腰をおちつ
私の生まれは実は新潟の雪国の農家の二男坊で
(1) 農家の二男坊が東京へ、そして戦争
一生いたち
ふ事だったワナ。
それは難儀な仕
はらして、それはい
手の皮を真赤に !!
鍬で堀り起して焼いて、まるで土方工事のようで、
ちゃって、根っこだけ残してある。それをトンビ
ね。それも立派な立ち木はみんな県がもって行っ
かった。
た。ここいら辺にはこんな大きな松の木があって
タスキに長しの状況だった。それでも五年近くか
減って、一人平均一町二反歩「まあ、帯に短かし 全
て自立してやって行けない。最終的には二八人に 組
しか払い下げないというので、これじゃ農民とし 合
私ら三六人の入植希望者に対して県は三五町歩島
(3) トンピ鍬一丁で…まるで「土方仕事」サネ
た頃です。
あって、この辺一帯に開墾の鍬が入りはじめてい
の宮内庁相手に御料地を解放せよの闘争なんかも
の小作地解放運動や、死んだ小川明治さんなんか店
をやったです。そのころは、全国的にも地主から
で、
() 県有地解放運動
ナオミーマー
団結街道の
山本
島村良助
それこそまるで山と竹やぶなんだから大変だっ
め ん な 主 放 し の 有
か ん か 運 た 仲 地
か ら 動 り 間 払 ョ と か 雨 大
かれこれ五年間位にわたって県有地解放運動
をつくってね、村や県にかけ合ったり陳情したり
い下げの運動がもち上って、私らも遠山村の仲間
けるようにしたんですワ。
ネ。本当に、自分の手で米を作りたかったですヨ
ほんの少しでもいいから自分の土地が欲しい、と
露をしのいだというぁんばいでした。どんなにか
師様のお堂を貸してもらって一家四人が何とか雨
もちろん親せき·縁故もなかったから、村の大
に起してつれ歩くのもかわいそうだから、というよ
ヶ月間やりましたからネ女房は「子供たちを五時
それに寒くなって!ちょうど一一月、一二月と二
島村さん(は
全組合員·家族の強固な団結で組織破壊攻撃を粉碎せよ!
食事をしている所だった。どうぞ、どうぞと快よく取材に応じてくださった。
がらくつろいでおられた。台所では息子さんの 昭治 さん夫婦が東京から援農に来ていた労働者と
で、
ちょうど居間では、島村良助さんと奥さんが、この三月に生まれたお孫さんをあやしな
一〇月のある日、東峰部落で闘いぬいておられる島村さんのお宅を訪ねた。夕食前のひととき
の原点、労農連帯という事の原点とは一体何なんだろうー今一度そ れを再確認してみたくて、
のストライキ実現をめざして、今、職場での組織化がかちとられようとしている。三里塚闘争
10·21国際反戦デーにむけ「二期工事阻止·国鉄三五万人合理化粉砕·ジェット増送阻止」
「この土地はョ、私の分身なんだ」
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日
小動芳千葉
79.10.10
No. 244
(鉄電)二二五八~九·(公衆)〇四七二(2)七二〇七
千葉市 要町二–八(動力車会館)
国鉄千葉動力車労働組合