シリーズ② 社会党はどこに行く?

3839

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日刊
寻動劳千葉
IC
Winn
YOUDis
国鉄千葉動力車労働組合
〒260 千葉市中央区要町2番8号(動力車会館)
((鉄電)
電話{
(公)
千葉 2935 · 2936番
043 (222) 7207番
93.8.6 No. 3839
社会党はどこに行く?
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Re:
である。そればかりではない。
大幅に議席を減らすのは明らか
実施されれば、社会党がさらに

次期の総選挙が「並立制」で
·

りでも並立制には反対票を投ず
臨時党大会を要求する」「ひと
執行部は即刻辞任すべきだ」「
だ。

. .
ことを考えて見なければならな
へ行こうとしているのか、この
てしまったのか?社会党はどこ
うな転落への曲がり角を曲がっ
自らの手で自らの首を絞めるよ
しかし、社会党は、一体なぜ
「党の理念を投げ捨てるな」「
為だ」「閣外にとどまるべきだ」
反対の声が相次いだ。「自殺行
「並立制」容認方針に対しては、
さすがに、社会党内でもこの
部内閣当時に廃案となったもの
制度である。そもそも自民党海
の立場を表明していた小選挙区
独裁の道」として「絶対反対」。
ては社会党自身が「自民党一党
でもなく、「並立制」は、かつ
まったことを意味する。言うま
最後の急坂を自ら踏みだしてし
会党にとって、解体·自滅への
針として決定した。これは、社
ば、それは、社会党としての消
にまで膝を屈し、これを党の方
社会党も、ついに「並立制」
である。
の道でしかなかったということ
会党の行き着いた場所は、自滅
こと、対決することを忘れた社
策を継承する」と公言し、闘う
に言い換え、「自民党の基本政
代」を容認し、護憲を「創憲」
原発を容認し、「日の丸·君が
保を容認し、自衛隊を容認し、
しうる根拠は何ひとつない。安
姿勢からすれば、これにも抵抗…
派兵問題」だ。現在の社会党の
消費税率アップ問題」「自衛隊
ない。直ちにもちあがるのは「
滅まで無限に屈服を続けるしか
理由として全てに屈するとすれ
連立内閣にとどまることだけを
4 ..
解体·自減の道踏みだす
「小選挙区併立制」容認で
.
!.
!!
組みするか、連立政権に組みす
本新党とさきがけは、自民党に
連立政権発足にあたって、日
見え隠れしている。
った国家主義者小沢一郎の影が
は、常に自民党内最タカ派であ
している※ごの新政権の背後に
自民連立政権」が発足しよなど
日本新党細川を首班とした「非
った。
党派がこれを党議決定するに到
操にも社会党から自民党まで全
一方つきつけられた側は、無節
れを「党議決定せよ」と迫った。
本政策」を各党につきつけ、こ
区並立制」をはじめとした「基
たあげく、ごう慢にも「小選挙
るかをめぐって動揺を繰り返し
本社會當結成萬萬
シリーズ 2
日本は
経平和の實現
社 會 主義のボW
:
社会党結成大会
( 1945 . 11. 2)
民主主版社:
人間と一緒に社会主義政党がつ
戦争遂行に協力し、軍部の片棒
こには戦争中ねじりはちまきで
小堀甚二君が立ち上がって『こ
憤激して退場しようとしたとき
った。一団が天皇万歳の唱和に
沙汰にただあきれるばかりであ
歳を唱えるなど、私はあまりの
後には加賀豊彦君が天皇陛下万
遥拝、国体護持を唱えるし、最
沼稲次郎君は、ヌケヌケと皇居
大会は、「開会の辞をやった浅
に結成された。しかしその結成
社会党は、敗戦直後の十一月
をかついだ戦犯がいる。そんな·
.
ネストにまでのぼりつめる(こ
うちに、官民六百万労働者のゼ
は、敗戦後わずか一年半ほどの
の炎のように燃え上がり、闘い
金に対する怒りは、まさに燎原
吹き荒れる首切り攻撃や飢餓賃
た。戦後の超インフレのもとで
労働者人民の闘いの高揚であっ
戦後革命期」といわれるような
して進んだ労働組合の再建と「
その背景にあったのは、並行
一党となるのである。
ずか一年半後には衆参両院で第
態であった。それでも結成のわ
くれるか』と叫んだ」という状
と「六年体制」の成立
社会党の結成-分裂-統一
反合·運転保安確立! 反戦·反核を担う労働運動を!

A
日本社會党統一大会万大!
SDPJ
5003
長部

51
略戦争が勃発するが、この「朝
年には、アメリカによる朝鮮侵
ジの嵐が吹き荒れる。また五〇
による大量首切りとレッドパー
公布され、翌四九年には定員法
はく脱する「政令二〇一号」が
には官公労労働者からスド権を
とする」政策へと転換、四八年
HQは、「日本を反共の防波堤
を促進する方針をとってきたび
しかし、当初日本の「民主化」

なった。

一。
会党片山内閣が発足することに
議院では一四三議席を得て、社
一挙に第一党となる。とくに衆
もとでの第一回選挙で社会党は、
この直後に行われた新憲法の
弾圧で中止された)。
入の前日、GHQの銃剣による
の四七年二·一ゼネストは、突
左右両社会党の統一(1955.10.13)
始まる。また五五年は、戦前の
田––岩井ラインが確立、春闘が
保守両党も合同し、総評では太
の統一が回復された。この年、
「左派」の主導のもとに社会党
左派」が圧倒するようになり、
五三年には逆転、五五年には「
右派」は、選挙のたびに減少し、
国会議員の多数を占めていた「
旋回」。社会党も、分裂当初、
などをめぐって一年にして「左
しかし、総評は「平和四原則」
「右派」に分裂する。
し、その翌年社会党も「左派」
労働運動の分裂は社会党を直撃
として結成されることになる。
を潰すために、総評が御用組合
の工作によって戦闘的労働運動
るために事を急いで」、GHQ
鮮戦争の時間表に歩調を合わせ
本的人権、国家と国民のあり方、
戦後の「平和と民主主義」や基
という一党派の問題ではない。
社会党解体攻撃とは何も社会党
るという方向に攻撃は進んだ。
つ基盤を崩し、社会党を解体す
解体によって社会党のよって立
通して総評を解体する、総評の
た。国鉄労働運動を潰すことを
社会党ブロックの解体にあっ
総決算」攻撃の重要な柱は総評
言うまでもなく「戦後政治の
じめたのである
働者の党であるこを自らやめは
りはじめた。社会党自身が、労
て以降、その様相が除々に変わ
戦後政治の総決算」が開始され
閣と第二臨調の手によって、「
ところが、十年前に中曽根内
.’
:
·
散は、社会党のよってたら基盤
としなかった。とくに総評の解
潰し」の攻撃にも何ひと闘おう
にも屈し、仕組まれた「社会党
成にも追随し、「国際貢献論」
に賛成し、総評の解散=連合結
みであった。国鉄分割·民営化
すべもなど膝を屈しつづけるの
面から見すえようとせず、なす
治の総決算」攻撃の本質を真正
ところが社会党は、「戦後政
ゃろだったのである。
そ、まさにここが勝負のしどこ
うことに他ならない。だからこ
社会から一掃してしまおうとい
級的なものの考え方そのものを
得ない対立関係にあるという階
保守勢力と革新勢力”は和解し
ひいては、“資本と労働者”:
·
自ら放棄する
であることを
労働者の党”
屈服の帰結
決算攻撃への
戦後政治の総
との一度もない党派だ。良く言
の情勢と真正面がら対決したこ
えば自らの力と責任でその時々
で常に揺れ続けてきた。悪く言
労働運動の高揚と停滞のはざま
るとおり、社会党という党派は、
以上のように見てきてもわか
五五年体制」の成立である。
産性本部」を結成している。「
あり、独占資本の側も「日本生
生産水準を初めて越えた年でも

も労働者の政党だったのである。
つまり、社会党は良くも悪しく
して社会党に投票し続けてきた。
戦平和と民主主義」の希望を託
て、自衛隊の海外派兵にまで到
様々な不満を抱きながらも「反
て労働者は、戦後一貫として、
な声を代表し続けてきた。そし
義的にではあれ、労働者の切実
揚すれば「左」に揺れ、改良主
運動が停滞すれば右に揺れ、高
えば、ある意味で正直に、労働
4.

!
を握っているのだ。
·
働運動の帰すうこそがそのカギ
ければならない。そして国鉄労
て、闘う労働運動を復権させな
の道を転落する連合をつき破っ
われ自身である。産業報国会へ
しての労働者階級、つまりわれ
ていることは、歴史の担い手と
しかし、本当の意味で問われ
わざるを得ない。
ともまた当然のことであると言
消滅の道しか残されていないこ
支配階級の攻撃の前に、解体と
闘うことを忘れた社会党には、
った戦後政治の大転換のなかで、
うのは当然のことである。そし
会党から労働者が離反してしま
の党であることを自らやめて社
拍車をかけている。労働者階級
へのすりよりと右傾化·変質に
のことがますます社会党の体制
を完全にほり崩してしまい、そ
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