動労千葉結成30周年にあたって
布施 宇一(動労千葉顧問)
結成30周年の記念講演でちょっと荷が重いのですが、いわゆる大所高所論的なことは、最近、中野常任顧問がまとめた『俺たちは鉄路に生きる2』『同3』と新版『甦る労働組合』に分かりやすく出されていますし、最近の情勢は田中委員長以下の現役のみなさんの方が、きちんと議論し、勉強していると思いますので、私からは、自分なりに職場で実践してきたことを中心に話していきたい。
千葉気動車区――私の原点
千葉気動車区最後のストライキのことをまず話したい。
私は1961年に19歳で国鉄に就職し新小岩機関区に配属され、機関助士になったばかりの1963年に千葉気動車区へ転勤、66年に気動車運転士になりました。 ちょうどその頃マル生攻撃が始まり、その激動のなかで、71年、何の経験もないまま支部執行委員になり、72年・船橋事故、73年・上尾暴動という状況下で支部書記長になったと思ったら、75年には千葉気動車区廃止という渦の中にたたき込まれていました。
この5年間ぐらいの間に、今日に至る労働運動に対する私の基本的考え方が固まった。そういう意味で千葉気動車区は私の原点です。
マル生で資本の労働運動攻撃の本質と労働運動のあり方を嫌というほど考えさせられました。当時鉄道公安官が職場に常駐するような状況があるのに、地方本部の三役がほとんど職場へ来ないことに、当局に対する以上の怒りを持っていたことを覚えています。
そして船橋事故と基地廃止。 労働者の生存と生活を根底から奪い取ることに対する怒り。 この二つの怒りが、私の労働運動の出発点であり原点であったと、今にして思います。
事故に対する怒り 気動車区最後のストライキは、踏切事故で大型トラックと衝突し、組合員が大腿骨骨折の大ケガをしたことに対する抗議闘争として闘われました。 当該運転士は現OB会長の中村さんで、彼は今でも後遺症の痛みに悩まされています。
この事故は船橋事故のように大々的に報道されることはありませんでしたが、気動車区の職場的には乗務員を中心に船橋事故に対する以上の強い怒りがありました。
当時、74年頃はチンチンチンチンの警報機がついていない踏切がいっぱいあり、馬車がやっと通れるような感じの踏切に大型自動車が入ってくる。 そこを木造車体の気動車で運転する。当局に改善要求を出しても「予算がない」などの理由で放置され、「誰かが(事故で)死なないと直さないよ」と半ばヤケ気味に語られるような状況がありました。それらへの激しい怒りと、「事故は仕方ない」の雰囲気が組織的にも個別労働者的にも混在する中で、ATS闘争や踏切安全闘争を地道に積み上げてきた結果として、当時の中央本部などの「事故問題は労働運動になじまない」などの制動を打ち破ってストライキにこぎ着けたわけです。地本が関川・中野体制になっていたことも、安全問題をストライキで闘う決定的な要素としてありました。
スト当日は雨で、気動車区から千葉鉄道管理局までのデモ行進のときは相当強く降っていました。その中を、57歳から18歳までの400名の組合員が、文句も言わずにデモをやった。
私は支部書記長として、「絶対ストで闘うべきだ」という立場で組織化をしたわけですが、このデモ隊列を見て「よくここまで来たものだ」と感慨深かったことを覚えています。
私が国鉄へ就職した60年頃は2百万余だった千葉県の人口が00 年には6百万を超えるという過密化への過程の状況があって、要員配置も安全対策も、輸送需要に追いつかない中で、労働者は命の危険にさらされていた。それが船橋事故であり、このストの対象になった事故であったわけです。
今では断定的に言えますが、当時はそうは言えない。運転保安問題は組合でやることじゃないみたいな雰囲気が強くあって、危険踏切の安全確認闘争だとかATS闘争だとかの指令を出してもやらない人がいっぱいいて、若手がこの踏切は時速何キロという看板を持って、激励行動と称する「監視」をやったりした。ATS闘争も最初は警報がなったら必ず一旦停止するという形でやったけれど、停車駅でホームの真ん中で止まると、乗降客の混乱などで負傷事故が起こる恐れがあるなど、乗客との摩擦が強すぎるので所定の停止位置まで低速で持っていくという形に変えました。そういうことを職場の中で何回も何回も議論して、相当激しい意見の対立もあったりしても、日常的職場抵抗闘争として積み上げてきた。その結果としてこの闘争になったんだと、嬉しかったわけです。
基地廃止反対の闘い 基地統廃合も全く同じです。国鉄の歴史なんて事故と基地統廃合の連続です。千葉鉄道管理局が管轄する千葉県内と千葉・東京を結ぶ鉄道は、高度経済成長が始まった当初は千葉から東京方面は電車、千葉からの下り各線はディーゼル(気動車)化するという計画だったんです。電車を走らせるには架線を引いたり経費がかかるけれど、気動車化なら動力車・車両を代えるだけでSLが走っていた線路をそのまま使えるという考え方だったわけです。
しかし急激な人口増加のため管内を全線電化するしかないと変わった。千葉県内の旅客列車を一手に担っていた車両と乗務員の基地が、設立から20年で廃止されることになった。
支部執行委員の経験が2年しかない30歳の私が、マル生の渦中で支部書記長になり、なった途端に基地廃止に直面しました。支部長・山口さん35歳、副支部長・鶴岡さん34歳。30代前半の三役で57歳から18歳までの500名の基地廃止に対応することになったわけです。
廃止される当該区ですから他労組や職制も含め全員が配置転換の対象で、電車への転換教育が必要になる。「関係ない人」は一人もいないわけです。当然、組合員の気持ちは、まずは「廃止反対」となる。しかし、総武線の複々線化の工事がすでに始まっており、基地の面積が大幅に減らされ、高架化されることと併せて基地存続が物理的には無理だということは、客観的には納得せざるを得ない。
高齢者を中心に基地問題は当局がやることだから仕方がないというあきらめもある中で、労働者の転勤や職務内容も含めた労働条件の大幅な変更であり、きちんと要求を出して交渉し、ストも含む闘いをやるべきだという主張も当然ある。
では組合員の本当の気持ちはどうなんだ。それを知るため個別オルグから始めようと執行委員会が手分けをしてやりました。
結果的に分かったことは、組合員の大勢は、電化は社会全体の流れで止まらない、労働条件が折り合いが付けられるかどうかが問題だということであり、そして、最大の関心事は、各人がどこへ配置転換されるかということでした。
当時の、今でもそうじゃないかと思うけれど、国鉄労働者は田舎の出身者が多かった。 百姓や漁師の次男坊や三男坊、長男でもいわゆる「半農半鉄」を目指す者、そういう人達が多かったんです。出身地で言うと、千葉の場合は、館山、勝浦、銚子とか各線の末端の方から新小岩、津田沼、千葉方面へ通勤している人が相当多く、従って、運転職場の場合、各自の出身地に近い館山、勝浦、銚子方面の区への転勤希望者の割合が非常に高いということが日常的にあって、そのことが気動車区廃止反対の闘いの中でも大きく浮上してきました。職場での労働運動の実践 千葉管内の運転職場を歴史的に概観すると、蒸気機関車の時代には新小岩、千葉、佐倉、成田、木更津、館山、勝浦、銚子に基地がありました。これは蒸気機関に絶対必要な水と燃料である石炭の補給に必要な基地配置で、この体制に総武線が電化されるときに津田沼電車区が加わり、千葉の運転職場は構成されていました。
55年体制下の「動力の近代化」計画で千葉気動車区が設置されると、千葉から下り方面の旅客関係の車両と乗務員の業務は気動車区に集中させ、外周区には乗務員の宿泊管理の当直や滞留車両の管理に関わる検査修繕業務など必要最小限の要員を残すだけでした。
その後、70年代に入り、成田線、内房線、外房線と電化される過程での反合・運転保安確立の闘いの一環として「居住地に近い職場の拡大」を掲げ、気動車区の業務を減らし、外周区の乗務員配置を増やしていく取り組みをやって一定の成果をあげていましたが、廃止時点でも外周区への転勤を希望する者が、まだ多く残っていることがはっきりしてきたのです。
そこで、支部執行委員会では「配転問題を各個別組合員が納得する形できちっと解決すること」を最重点要求とし、「居住地に近い職場」を軸に全員を希望地に配属させる闘いとして取り組むことを確認しました。しかし、問題はそれで解決するほど甘くありません。総論はこの確認でいいわけですが、具体的に誰がどこへ転属するのかになると簡単じゃない。大半の人は希望する配属先を言って「そこへ行ければいいよ」となる。けれど最後まで希望地を言わない人が何人か出てくる。何回も何回も足を運び話をしてもはっきりしない。大方針を決めてついて来ないヤツは切り捨てるというなら簡単です。しかしそれをやったらおしまいです。
労働者にはいろいろな事情がある。「障害者」の家族を抱えているとか、高齢の寝たきり老親を抱えているとか、子供のこととか内容は千差万別ですが、当該労働者が千葉気動車区に勤務することによって成り立っている日々の生活がある。幕張に転勤しても木更津へ行ってもその生活のバランスが崩れてしまう。どうしたらいいか結論は出ていないが他人に相談はしたくない事情がある。というようなことで首を立てに振れない人が必ずいる。それが労働現場というものです。
そのいわば一番弱い立場の人の心にどれだけ迫れるか。職場で労働運動を実践するということは、具体的にはそういうことです。
さらけ出された労働運動の実態
二つ目に、少し違った視点からこの問題を観てみたい。
国鉄分割・民営化というとてつもない攻撃に対して、ストライキで立ち向かったのは1100名の動労千葉だけであった。総評が「5000万人署名」を取り組んだ頃まではみんな建前論でいろいろ言っていたけれど、JRに移行する頃は惨憺たる状況になっていた。
中曽根が国鉄民営化を通して総評も社会党もつぶすという狙いを明確に持っていたことに対して、社共・総評といわれた人たちは余りにも大アマだった。労働組合の指導部として、ナショナルセンターとして、革新政党として腐りきっていたということです。
私は85年第1波ストの組織化の過程で、国労中央の中枢役員からはっきりと聞きました。 「国労は動労千葉のストライキ方針を支持しない。国労は現在12万人の組合員がいる。3人にひとり首を切られても8万人残る。国労はこの8万人に依拠し、社会党を中心とする政治闘争で闘う」というのです。
私は唖然とし、背筋が寒くなる感じになりました。この彼の言う方針が職場に下りてきたらどうなるのか。先ほどの基地廃止問題にたとえてみて下さい。400名いる組合員のうち300人は希望通り配転させてやる。しかし残りの100人は解雇する。退職金は払うから納得しろと、「闘う」という言葉をちりばめていろいろと書いてあっても、職場での具体的現実としては、こういう方針なんです。
上部機関の役員は「政治的」に判断するかもしれないけれど、職場・生産点は絶対に納得できない。「この方針が200人の自殺者を出した」と言い切ってもいい。 中曽根がどんなひどい首切り方針を打ち出しても、国労が「座して死を待つよりも起って闘う」という方針を出せば、こんなに多くの労働者を死なせなくてもすんだ。動労千葉の闘いの核心 動労千葉が追求してきた闘いの核心は、国鉄時代の「反マル生」「船橋事故」「三里塚・ジェット燃料輸送阻止」「分離・独立」「分割・民営化」から、JRになってからの「12・5スト」「前倒しスト」「1047名闘争」と、変わらずに受け継がれています。
それは情勢認識についてしつこいほど議論し全体化すること、労働者の可能性に確信を持って職場・生産点から決起すること、そして何よりもいちばん立場の弱いものを決して切り捨てないこと。
この三つです。
国鉄分割民営化とJRになってからの20年間の闘いのなかに、日本の労働運動の本質的問題が全て内包されています。分割・民営化に対して動労千葉は全員でストライキに決起して闘った。動労革マルは国労攻撃と労働者切捨ての尖兵として生き残る道を選び、20年後の今日、「組合のカネで役員個人の別荘を買った」とマスコミにたたかれ、新潟を中心に組織分裂も起こしている。
社共・総評といわれた連中は、どうだったのか。まず「3人にひとり」の首切りを前提とした「社会党を中心とした政治闘争」を唱えた連中は総評解散・社会党消滅の動きの中で、どこへ行ったのか分からない状況になっている。
革同だの協会だの「左派」を自認していた活動家たちが、JR採用の選別が始まると、支部や分会の役員を一斉に辞任した。「役員をやっているとJRに残れない」と判断して活動家を逃がした。一般組合員はどうなるんだ。 ハダカで首切り攻撃にさらされるということです。この革同や協会や新左翼崩れとか、国労内外で「左派」と言われていた者たちが、今、「1047名闘争」を「賞味期限切れ」だとして切り捨てようとしている。
彼らに共通していることは、権力中枢が体制的生き残りをかけて仕掛けてくる攻撃に対して、職場・生産点に依拠して闘うという視点を持たず政治的テクニックで自党派の利害だけを優先させているということです。このような党派や派閥集団とその活動家たちに、職場・生産点の真の階級的信頼が勝ち取れるのでしょうか。
いずれにしても、分割・民営化に対して原則的闘いを貫徹した動労千葉は、40名の解雇をはじめとする大量不当処分攻撃をはね返し、JR移行後2年目には「12・5」の列車を止めるストライキに決起し、「前倒し」へ続く3波のストで「1047名闘争団」の形成とJR総連分裂への起爆剤となり、JR20年の闘いの元の元を創り、今日に至ったわけです。この闘いを可能たらしめたのは、職場・生産点が指導部を信頼して決起したという一点に尽きます。中曽根・小泉と社共・総評 国鉄分割・民営化後20余年の今、中曽根がやったことは何だったのかあらためて考えることがあります。モラルという言葉で表現するのが適当かどうか分からないんだけれど、人間社会の一番基盤にあるそういうものをぶっ壊したということです。
人間は社会を構成しなければ生きていけない動物です。では「よい社会」とは何か。それは一番弱い人が他の構成員と一緒に生きて行ける社会ではないか。人類は農業を獲得して定住し、いろいろな変遷を経て資本主義社会に到達した。資本主義社会は一番進化した社会だけれども、労働者・人民への搾取を前提としないと成り立たない社会だから、革命を起こして社会主義社会を創らなければならないという定義も、「能力に応じて働き、必要に応じて働く」や「ひとりが万人のために、万人が一人のために」という言葉も、弱いものを切り捨ててはいけないという思想性に裏付けられて、初めて社会的正義性を持ちます。
中曽根が「国鉄」でやったことは、国鉄を起点に、営利万能で弱い者を切り捨て、弱肉強食の社会を実現させていくということです。
それを、マスコミを総動員して、「国鉄職員は働きが悪い」の嘘で労働者の抵抗を封じるという手法で強行した。国鉄赤字とは、要するに東海道、山陽、東北、上越と続く新幹線建設の資金を国鉄に貸し付け、銀行とゼネコンを儲けさせたツケを累積させたものに過ぎないものです。しかも27兆円の累積赤字に加えて、どさくさに紛れてさらに10兆円の借金を国鉄に強制し、それを地方にバラ撒き自民党サイドの反対を抑え込み、ゼネコンをさらに儲けさせて強行した。
これに対して、「労働者は団結すれば強い。団結して闘おう」と言って学習会をやり、支部や分会の役員選挙になると家庭訪問までして役員になりたがっていた革同や協会の連中が、いざ決戦のときになったら一斉に役員を辞めていく。これを見ていた国労内外の労働者はどう考えたらいいのか。
社共・総評はまったく当てにならない。動労革マルは当局の尖兵になってしまった。 ここで職場・生産点のひとり一人の労働者に突きつけられていることは、強い者・政府は何をやってもよい、弱い者・労働者は何をやられてもしょうがないという現実です。
国鉄で中曽根が開始し、小泉が全面化させた「効率化」「営利優先」の弱者切り捨て攻撃が、社共・総評や動労革マルなどの逃亡、転向、裏切りによって加速され、非正規労働者の爆発的増加や「いじめ」などにつながり、今日の暗い労働現場が形成されてきたのです。われわれは力いっぱい闘ったけれど力が足りなかった。 職場・生産点からの闘いを基礎に盛り返していかなければなりません。
力強い職場からの決起
現在の私の愛読書は『俺たちは鉄路に生きる3』です。
特に、現役の組合員が職場で闘ったことを語り合う座談会は繰り返し読むし、何度読んでも飽きない。基地廃止反対闘争の具体的展開と役員であることの苦悩。 検修職場での構内事故に対する闘いなどなど。 私は職場へ行って組合員と話をすると元気の出る人間だった。定年後7年目の今は職場へ行けないけど、この本を読んでいると職場で話し込んでいた時と同じ気分になっている自分に気づいて、思わずウルウルしたりします。
特に、一番新しい基地廃止攻撃との闘いである館山支部の座談会は、35年も前に、私が千葉気動車区廃止反対で闘った時と全く同じだ。市役所へ行くとか個別の戦術は異なっても、個別組合員の配転先のことが最大の問題であることなど、昔も今も、事柄の本質は変わらないんだなと思います。
実は、今日の話を千葉気動車区から始めたのもこの本に触発されたからなんだ。
先ほど、国鉄・JRの歴史は事故と基地廃止の連続なんだと言ったけれど、1975年の気動車区廃止から館山までの間に、成田、蘇我、佐倉、勝浦が廃止されている。廃止まで行かなくても、ほとんどの職場が、昔とは大きく変わっている。
館山の座談会で「一本書き」で転勤希望を100パーセント勝ちとった。これからは新しい職場で動労千葉の闘いを担って行くんだというくだりを読んで、俺も気動車区支部の機関紙最終号(別冊)に歴代支部長の座談会を載せ、編集後記に「新しい職場で戦闘的労働運動を追求しよう」と書いたっけな、などと思い出すと、ホントに泣けてくるよな。
それから、館山の座談会に出席している堀江支部長などの生まれた年が1960年前後なんだよ。そこでまた考えちゃう。俺が就職した頃生まれ、俺が気動車区廃止反対を闘っている頃小学生だったヤツが、今は支部長で基地廃止反対闘争を闘っているのかと思うと、不思議な気分になる。
そういう個人的感傷はおくとしても、30年間一貫して職場を起点に闘い抜くことをやめなかった動労千葉だから、分割・民営化をはじめとする多くの苦難をのりこえることができたし、外に向かって呼びかけることもできるし、この席にも米韓から30年を祝いに来てくれるような連帯の広がりも獲得することができたということです。
労働運動の戦闘的再生に向けて
JR移行後の階級情勢が厳しさの連続であったことは事実ですが、しかし、この間、20年間も、物販闘争などで「1047名闘争団」を支えてくれた労働者が推定100万人以上いることも厳然たる事実です。
闘いがないときは「左派」を気取っていた人たちが、「1047名闘争は賞味期限切れだ」と言って、この100万人の想いをも断ち切ろうとしています。 この人たちは国鉄分割・民営化に対して職場・生産点からの決起で対抗するという発想を持ったことがありません。
そもそも、この攻撃は、5年近くにわたって「(国鉄である)3月31日までに退職すればこれだけの退職金と年金を保証するが〔JRになる〕4月1日以降は〔JRに採用されるかどうかも含め責任は持てない」ということを家庭訪問して家族をかき口説くことまでして、特に50歳以上の人をターゲットに退職を強要するという形で強行されたものです。
したがって職場で具体的に対応する方針を出さない限り、労働者は、マルハダカでこの攻撃にさらされ続けるわけで、わけの分からない「政治闘争」しか言わない指導部を持った国労の組合員を中心に200人もの自殺者が出てしまったわけです。
この「左派」の人たちは動労千葉がストライキで闘ったことすら無視しようとしていますが、動労千葉が職場に依拠した闘いの方針を堅持し実践し続ければ、この100万人をわれわれが獲得することは可能だし、派遣切りなどで苦しんでいる多くの労働者との連帯・共闘も充分に展望できるし、日本労働運動の戦闘的再生へ向けた芽も大きくあると思います。職場からの決起による成長 ここまで動労千葉が職場・生産点で闘いを実践してきたことを中心に話をさせてもらいました。これからも自分たちの労働現場での闘いを大事にしながら、そこから世界を見る構えで闘いを進めてもらいたい。
その上で、今、動労千葉に求められている最大の課題は組織拡大です。 どんな闘いも組織拡大に結びつけ、そこに収斂させていく構えが必要です。 田中委員長体制になって7年。最大の成果は平成採を獲得し「平成採を二桁にして青年部を作る」ことを展望できるところまで闘いを押し上げたことです。この勢いを止めることなく闘いを前進させることが、今、何より求められています。
発足当初は、当然ながら、相当大変だった田中体制を成長させたのは、幕張から開始された地上勤の有機溶剤問題をはじめとする職場闘争と、乗務員分科を中心とする線路問題などの長期にわたる実践でした。この闘いが幕張の構内事故乗務員に対する首切り攻撃阻止と館山・木更津の基地廃止反対の闘いを通して、田中体制総体のレベルを一挙に押し上げた。そしてこの総体としての充実が平成採の獲得に結びついたということです。『3』を読むと、そのことがよく分かります。
これからも職場での原則的闘いを貫徹することを通して組織拡大を勝ちとり、組織拡大を職場闘争に反映させていくという戦略・戦術をもって前進してもらいたい。 がんばれ! 平成採 最後に、平成採用の諸君にひとつだけ言っておきたい。
「動労千葉へようこそ」とだけ言うつもりはありません。このような時期に、もろもろの制動を振り切って動労千葉へ結集したわけですから、自分の人生に関わる一定の覚悟をもっている諸君だと思って言うのですが、君たちが先頭に立って組織拡大をやってもらいたい。できるだけ早く、できるだけ大勢の組合員を獲得して青年部を復活させ、動労千葉の闘いの先頭に立ってもらいたい。そして、田中体制が安穏に陥ってダメだと思ったら打倒する。それくらいの気概をもってがんばってもらいたい。
本日冒頭に話したように、私は、20代の後半から30代のはじめにかけた千葉気動車区での5年間で、その後の人生を決めるような決断をしました。私だけでなく同じ年代の多くの仲間たちも決断をした。その延長上に、前の世代をのりこえてやってきた歴史が形成されたということです。
50年近く過ぎた今、その決断を後悔していないと言うより、あの時、別の決断をしていたら後悔していたに違いない、という想いが強くあります。
それで、あの頃の私と同じ年代の平成採の諸君に、せっかく決断して動労千葉へ来たんだから、後で後悔しないように力いっぱい生きてほしいという気持ちから、老婆心ながら言わせてもらいました。
君たちの時代になった時に、JRの職場で多数派といえる実体を持ち、日本の労働運動の戦闘的再生の先頭に立ち、海外連帯・資本主義体制打倒の闘いを担いうるような力をつけていってもらいたい。そのことを最後に言って終わりにさせてもらいます。
職場での闘いが何より大事だと信じてやってきた私の気持ちを感じていただければ嬉しい。どうもありがとうございました。
(3月8日、DC会館での動労千葉結成30周年記念レセプションにおける記念講演に加筆修正)




