87年4月、JRを不採用になった7628名の労働者が現代の強制収容所・清算事業団雇用対策支所に送り込まれた(大半が北海道と九州)。その一部は定員 割れれの本州3社などに広域採用されたが、再就職斡旋の名のもとに劣悪な環境下で、来る日も来る日も全く仕事のない状態のなかに放っておけば、そのうち嫌になって全員辞めてゆくだろうというのが敵のもくろみだった。右翼労戦統一の流れは89年11月の全的統一=総評解散・連合結成にむけて最後のカーブを曲っており、全逓、全電通はもちろん、自治労も日教組も「国労のようになるな」を合い言葉にしてこの渦にのみ込まれていった。
だが、この逆流に抗して清算事業団に踏みとどまる労働者の数は、1年後の88年4月段階でも4773名だった。あせる清算事業団当局は、このとき再度の本州JR三社等への広域採用の方針を打ちだす。国労本部はこれに飛びついた。とくに社青同協分派の一部は「敗北という事態を直視しなければならない」「敵を甘く見てはならない」「あと2年、このままゆけば(再就職促進法の期限切れによる)最後的解雇が待っている」(反合研ニュース)と敗北主義をむきだしにして組合員を広城採用にかりたてた。日本共産党・革同グループはより露骨であった。
だが清算事業団労働者はこれに激しく意義をとなえて抵抗し、さらに2年後の89年4月段階でも2748名が踏みとどまっていた。88年11月の大阪地労委、89年1月の北海道地労委を皮切りに、つぎつぎと全国各地の地労委で救済命令がだされていったことが大きな支えになった。
このなかで国労は、89年6月の臨時大会で、「全面一括解決要求」という路線を打ちだした。だがそれは、結局90年3月のタイムリミットをにらんで、広域採用による採用差別事件の終結と他の紛争案件(配属差別などの不当労働行為や202億円損賠訴訟など)の取り引きを狙うものだった。国労本部は、修善寺大会以降も協会派と革同の指導下にあり、千葉大会で「大胆な妥協」に賛成した彼らの本質が再びあらわになってきた。この背後では、田辺らの社会党JR特対が暗躍した。国鉄闘争をとりまく全勢力の力が90年3月末までに、清算事業団の労働者をゼロにすることに集中した。
90年3月を前に、国鉄闘争は大きな岐路にたっていた。JR発足後も三年間、解雇撤回-JR採用を求めてたたかいぬいてきた仲間たちが、清算事業団からも解雇されるという状況に直面して、さらにたたかいを継続することができるのか否か、もしここで挫けてしまえば、それまでの苦闘は全て水泡に帰すことになる、そういう岐路であった。求められていたのはJR本体からの断固としたたたかいへの決起だった。それこそが、人生をかけた決断を迫られていた清算事業団の仲間たちに勇気を与え、心をひとつにする唯一の選択肢だった。