1978年3月開港阻止!鉄路を武器に闘った動労千葉100日闘争
はじめに
三里塚闘争60年の節目に寄せて
1966年7月、佐藤内閣が新東京国際空港の建設地を千葉県成田市三里塚に閣議決定してから、今年でちょうど60年の節目を迎えた。三里塚闘争は、戦後日本において最も激しく長期に闘われてきた永久不滅の意義を持つ歴史的闘争だ。他方、成田空港の機能強化(新滑走路の建設および既存滑走路の延伸)に伴う土地取得をめぐり、成田国際空港会社(NAA)は7月10日、土地収用法に基づく「強制収用」の手続き(事業認定の申請)を進めることを正式に表明した。あらためて三里塚闘争とその意義の捉え返しは、今日の戦争情勢との対決においても決定的に重要だ。
この闘いの歴史において、労働組合として「鉄路」を武器に農民と連帯し国家権力の強権に真正面から立ち向かったのが動労千葉だった。1970年代後半に展開された動労千葉の「ジェット燃料貨車輸送阻止闘争」は、労働組合の持つ本質的な使命と力を考える際、時代を超えた重要な教訓を示す。今号と次号の2回の掲載でその地平を考えたい。
78年3月開港阻止!鉄路を武器に闘った動労千葉100日闘争
燃料輸送めぐり試された真の労農連帯
1 開港問題と暫定貨車輸送計画
当時、政府は国際空港の建設を三里塚の地で強硬に進めていた。これに対し、地元農民によって「三里塚芝山連合空港反対同盟」が結成され、激しい反対運動が展開された。ベトナム反戦闘争や安保闘争とも結合し「軍事空港反対」のスローガンが運動の象徴となった。
71年9月には機動隊を投入して強制的に土地を収用する「第二次強制代執行」が行われ、闘争は流血の事態に。このような状況下で、開港に向けた最大の難関として浮上したのが、航空機に不可欠な「ジェット燃料」をどのようにして現地まで運ぶかという問題だった。
当初、空港公団は千葉港からパイプラインを敷設して燃料を送り込む計画を立てた。しかし、パイプラインが通過する沿線住民や自治体から「爆発の危険がある」「安全性が担保されていない」と猛烈な反対を受け、計画は完全に暗礁に乗り上げる。
そこで政府と国鉄当局が打ち出したのが、「パイプラインが完成するまでの暫定措置として、ジェット燃料をタンク貨車に詰め、既存の鉄路(総武本線や成田線など)を使って毎日大量に運ぶ」という暫定貨車輸送計画だったのだ。
2 京葉臨海埋め立てから成田へ
背景には千葉県の開発の歴史が深く影を落とす。1950年代以降、千葉県企業庁が主導する京葉臨海コンビナート建設と大規模な埋立開発が強権的に進められ、多くの漁民が漁業権放棄させられて工場の下請労働者へと追いやられた。成田空港計画は、こうした臨海開発に続く新たな国家プロジェクトであり、国土開発の美名のもとに住民の生活や土地を暴力的に奪う手法が再び繰り返されたのだ。
3 新宿駅事故とベトナム戦争
またジェット燃料の鉄道輸送には社会を震撼させた重大な記憶が刻まれていた。67年8月、新宿駅構内で在日米軍立川基地へ向かうジェット燃料貨物列車が衝突・炎上する大事故が発生したのである。
この燃料輸送はベトナム戦争を支える軍事輸送そのものであり、日本一の乗降客数を誇る新宿駅という、労働者や学生の日常生活のすぐ隣にベトナム戦争が存在している現実に、人びとは大きな衝撃を受けた。これ以降、鉄道による燃料輸送阻止は、日本の反戦運動・労働運動において重要な意味を持つようになったのである。
4 突きつけられた「踏み絵」
この計画の浮上は、電車の運転士や検修労働者が所属していた動労千葉地本(まだ本部からの分離・独立前だった)にとって組織の存亡と労働組合としての存在意義を問う重大な問題として突きつけられた。
地元の労働組合として動労千葉は当初から三里塚農民と連帯し空港反対を闘ってきた。国鉄当局から「ジェット燃料の貨車を運転せよ」という業務命令が下ることは組合員一人ひとりに重大な選択を迫るものだった。
「これまで通り国家の横暴に対抗して闘う農民の側に立ち続けるのか。それとも、日々の生活のために命令に従い、農民を裏切って、空港を完成させるための燃料輸送列車のハンドルを握るのか」
もはや単なる労働条件(賃金や労働時間)をめぐる争いでないことは明らかだった。自分たちの労働と闘いが社会的にどのような意味を持つのか。権力に加担するのか、それとも抵抗を貫くのか。

裏切る動労本部との決定的対立。
三里塚闘争の継続とジェット燃料輸送をめぐり、動労千葉地本と、動労本部には重大な対立が生まれていた。
当時の労働運動、特に国鉄をめぐっては、75年のスト権ストの敗北を契機に地殻変動が起きていた。これ以降の春闘は労働者側の敗北が続き、労働運動全が急速に右傾化・後退を始めていた。国労は、当局への対決姿勢を弱め、「正すべきは正す」という現実妥協路線へと舵を切りつつあった。
動労本部・革マルは、当局や権力の弾圧を恐れ、手のひらを返すように「(人員削減や労働強化を受け入れる)合理化推進」の論理を主張し始め、三里塚闘争への敵対を深めた。
しかし、動労千葉地本は、「職場の労働者の団結と、現場の生の実力に依拠して、真正面から国鉄当局・国家権力と対峙するという姿勢を崩さなかった。動労千葉にとってこの闘争は、農民を支援する立場にとどまらず、自らも当事者・主体として闘いに立ち上がるという質的転換の決断であった。
闘争を支えた「四つの視点」の確立。
1 闘争を支えた「四つの視点」の論理
76年12月、動労中央委員会において、千葉地本が提出した「三里塚開港粉砕、ジェット燃料貨車輸送阻止」の決議が、建前上は満場一致で採択される。これを受けて千葉地本は、77年1月の地本定期委員会で具体的な取り組みを正式に決定、「四つの視点」を提起する。
第一に、「三里塚空港反対・労農連帯の視点」。
労働者と農民は社会を変える対等な仲間であるという連帯を掲げた。
第二に、「『危険なものは運ばない』運転保安確立の視点」。
乗務員自身の命と沿線住民の安全を危機に晒すため、労働の現場からこれを拒絶する。
第三に、「労働強化は許さない、反合理化闘争の視点」。
危険物輸送に伴う現場の精神的・肉体的負担の増大(労働強化)を、安全対策も不十分なまま現場に押し付けるなという職場防衛の論理だ。
第四に、「組織破壊を許さないという視点」。
組合員への処分や本部の介入による組織の切り崩しに対して、団結して組織を守り抜くという強固な意志示した。
「正義のために闘おう」だけではなく、「俺たちの労働と農民の命を守る闘いは地続きだ」という論理を組み立てたことで現場の組合員は迷いなく立ち上がったのだ。
2 福田政権の開港決定と百日間闘争への突入
77年3月、時の福田赳夫内閣は、翌年(78年)3月30日を三里塚空港の開港日とすることを閣議決定した。これを受け国鉄当局は具体的なジェット燃料貨車輸送計画を現場に提案した。 事態が緊迫する中、動労千葉は77年8月12日に千葉市民体育館で6000人を集める大決起集会を開催。そして12月冒頭、ついに開港予定日に向けた「ジェット燃料輸送阻止100日間闘争」の火蓋を切ったのだ。
開港阻止へ鉄路を武器に実力闘争
この100日間に及ぶ戦いは、緻密に計算された戦術と、現場の圧倒的な実力行使によって展開された。
■第一波闘争:77年12月3日~5日(強力順法闘争)

闘争の最初のヤマ場は、12月3~5日に展開された「強力順法闘争」。
順法闘争とは、ストライキとは異なり、「鉄道の安全規則や各種の規程を厳格に守って運転する」という戦術。例えば、「視界が少しでも悪ければ徐行する」「駅の停車時間を1秒の乱れもなく安全確認に費やす」といった行為を徹底する。
規則を忠実に守っているため、形式上は業務命違反しないが、過密なダイヤで運行されている日本の鉄道でこれを一斉に行うと列車は瞬く間に大遅延を起こす。鉄道労働者ならではの高度な現場戦術だ。
「総武線はわが手にあり」の合言葉のもと、ハンドルを握る組合員が一体となって順法闘争を展開した結果、総武線沿線の各駅は列車を待つ人びとであふれかえる状態が現出した。これに対し運輸大臣や自民党が「順法闘争に刑事罰を科すべきだ」と激昂し、主要マスコミは「乗客を人質に取った、労働組合にあるまじき暴挙」と一斉にバッシングの大合唱を行った。
しかし、動労千葉の組合員たちは屈しなかった。「三里塚の農民との連帯」という揺るぎない大義に加え、さらにホームや駅頭には、浅田光輝氏や北原鉱治氏らが率いる「動労ジェット闘争支援共闘会議」の労働者や学生たちが連日駆けつけ、文字通り身体を張って彼らを支えたのだ。
■第二波闘争:78年1月10日~2月7日(12時間ストライキ)
年が明けた1978年1月10日、動労千葉は間髪入れずに第二波の強力順法闘争に突入。国鉄当局が燃料輸送に伴う設備工事の着工を強行しようとした2月7日、動労千葉はついにストライキを決行する。輸送の要衝(拠点)であった佐倉支部、成田支部の両拠点を中心に12時間ストライキを打ち抜いた。これにより、当局の工事スケジュールは大きな打撃を受けた。
■第三波闘争:78年2月14日~3月1日(備蓄輸送の完全阻止)
開港予定日が翌月に迫る中、焦りを募らせた国鉄当局は、強硬手段に出る。動労千葉の運転士が運転を拒否することを見越し、現場の労働者ではなく、管理職である助役の中から機関士の免許を持つ者を全国からかき集め、彼らに運転を行わせるための「線見訓練(実際の路線を事前に走って確認する訓練)」を2月14日から開始したのだ。
動労千葉はこれを「スト破り」と位置づけ、訓練を阻止するために連日の激しい決起(第三波闘争)を展開した。
そして、当局が燃料の「備蓄輸送」を開始すると指定した3月1日、佐倉・成田の両支部は再び強力なストライキを決行。国鉄が威信をかけて走らせようとした「備蓄一番列車」の運行を、完全に阻止したのだ。 (後半は次号)

