布施 宇一 動労千葉顧問 職場で教えられたこと

 嬉しかったこともいっぱいあったけど、 怒りに耐えないことも相当あった。まっすぐ帰っても眠れないと、一人で 一杯飲んで帰ったことも数知れずあった。
だけど 、やれるんだよね。 私は職場で仲間と話をすると元気が出る人間だからやってくることができたと思っています。 クビになっても「 俺は運転士だ。 運転席からは絶対離れない」という気持ちが 自分の立脚基盤と思っていました 。職場の仲間からいろんな元気をもらいました。嬉しかった事の大きさが 、苦しい時の私を助けてくれたということを言っておきたいと思います。

私が就職した頃 、 15歳くらい年上の人はみんな戦争経験者で 戦地で「 鉄砲の弾の下をくぐり抜けてきて 生き抜いてきた 」そういう人もいっぱいいた。戦地体験 、シベリア体験 、レッドパージなどを体験してきた人達とマル生や三里塚の話をする時は、注意してかからないとガツンとやられたね。
「 お前ら新制高校を出てるからな… 」「 戦争に行ったこともないのに…」 という意味のことをよく言われたね。船橋事故の時は、「お前らの言っていることは正しいけれど、お前らの言うことを聞いてやったって、首になれば自分もちだと」いうこともよく言われた。

私は、地本の執行委員になって最初に成田支部担当になりました。佐倉支部とともにジェット闘争を担った支部です。 闘争が大詰めを迎えるころ、ある人に電話で呼び出されて成田に来ました。訓練室へ入ると、私より十歳くらい上から定年間際の人まで5~6人の先輩たちが待っていました。
言われたことの大筋は、「国家が本気でやろうとしていることにどこまで逆らうのか」「ここまで勤めてきてクビになったら俺の退職金や年金はどうなるのだ」「組合の役員はいろいろ言うけど、結果を考えているか」ということです。「報復攻撃が現場に来た時、お前らはどう責任を取るのか 」「関川委員長は、もう首がないんだからやるしかないんだろうけど…」とか。 当時、村上さんという人が 支部長で助役や区長が変なことをやると「日本刀持って追いかける」という伝説があった人でしたので 、「支部長はあいう人だから『やれ』と言われればまっしぐらに行っちゃうだろうけど、俺たちをどうすればいいんだ」とか、すぐに回答ができないこともいっぱい出てくる。

「(ジェット燃料輸送で)機関士と運転士で定員が約1000人のところえ、100人分の仕事が増えるんです。そのための要員はゼロです。それでなくても業増、業増で人が足りないのに、こんなことを組合が何もしないで認めたら 後はどうなりますか。船橋事故闘争もみんなで闘って勝った。動労千葉が闘わなければ運転士が首で終わりだったでしょう。誰かが裏切れば当局は見せしめのために、きっと闘った者のクビを切るということになるかもしれないけど、全員が団結してやればクビになんか切れない。だから頑張ってやりましょう」ということを繰り返して言うしかない。
役員の側には柔軟性は必要だけど、こういう時には原則を崩してしまったらどうにもならない。双方が譲らないまま2時間や3時間はあっという間に過ぎてしまう。

「旗を担いでいるやつは気をつけなければならない」という言葉も出てきた。旗とは旗というのは イデオロギーのことです。 個人名が色々出てくる。「あの野郎は今は国労の分会長をやっているけど憲兵だったんだぞ。シベリアに持っていかれてクルットひっくり返って、今は左翼ずらして当局にチヤホヤされている。そういう風に旗を担いでいる奴は右も左も油断できない。お前はどこの旗を担いているんだ」というわけです。
まあこの手の話は「俺は鉄道に勤めてからずっと動労千葉ですよ」と言っていればいいけど、「拒否から阻止へ」という戦術転換の過程で、「ジェット燃料を運び始めて、過激派に列車を襲われたらどうするんだ」と聞かれたら、通りいっぺんの話にはならない。曖昧なことも絶対言えない。
「動労千葉が反対同盟と連帯して闘っている限りそんなことはありえない。もしそんなことをやるやつがいたら、それは三里塚闘争に対する敵対だ。絶対に許せない」と言いました。その頃、「布施は『過激派に襲われないためジェット闘争をやると」言っているという話が流れたこともある。(笑)私もそこまで単純じゃなかったつもりだけど、でも、「襲われたらどうすんだ」と聞かれた時は、具体的に答えるしかない。「もし襲われたら逃げてください。『俺は動労千葉組合だ。俺はちゃんと闘争やってるのに何でやるんだ』と、そこまで言わなくてもいいけど、『動労千葉組合員だ』ということははっきりと言って下さい」と言いました。
「襲ってくるやつにそんなことを言ってもしょうがないんじゃないか」という反応もありましたが 侃々諤々話してうちに「やっぱり言った方がいい。でもその場では逃げるのが第一だ」という話になった。

[ 職場へ行くと元気がもらえる ]

私は、こういうやり方やり取りの中で、今日までやってくることのできる力を私の中に作ってもらったと思っています。
要するに労働運動の実態とは、職場生産点の組合員がどれだけやる気になるかということに規定される。 きちっとした方針を出すことも大変であるけれど、原則を曲げないで職場の「やろうじゃないか」という気運を作っていくことは、その何十倍も骨の折れることなんだよね。そこで汗を流さなければ役員活動家は本物本物になれないと思います。

私は37歳で不当解雇されましたが、解雇されて一番つらかったことは、日常的に職場と切れてしまい、同じ運転士じゃないかというところが無くなってしまうことだった。どんどん職場へ行って、酒飲み会でもいいんだけど、一生懸命話しを聞かないと、職場で皆がどんな気持ちで働き、組合の話を聞いているのかということのアヤみたいなものが希薄になってくるんだよ。
「お前はクビになって組合が何も闘争をやらなくなったら、飯の食い上げになると思って、ここへ来るんだっぺや」という人も一人や二人じゃない。もちろん人によってニュアンスは違うけれど、しかしどんな言い方にしろ、それを言ってくれる人の方が、本当に頼りになる人なんだということも、逃げないでやっていればをわかってくる。
「ふざけるな。今と同じだけ働けば他のところなら3倍も賃金をくれると言い返したりしたがしながら、職場の仲間と話していれば元気が出る人間だから、私はここまでやってこれたとつくづく思います。
私は、組合が決定した職場集会や個別オルブなどのまに行くよりも、何でもないときに「ひょっこり」という感じで顔を出して、手持ち時間や休憩時間に話をすることの方が好きでした。本部へ呼び出された会議などで絶対喋らない人でも、詰所で一対一とか二、三人のときなら、生き生きと喋ってくれます。肝心なことは自分が分からないことを曖昧にしないことです。分からないことは「わからない」と言って、後で電話でもいいからきちんと返事することです。「調べたけどわからなかった」という返事でもいいのです。
そういう職場の話を聞きたくて、私は本社交渉などの東京へ行った帰りに新小岩の乗務員詰所や外勤詰所、幕張の外勤詰所や仕業詰所、それから総武線と京葉線の売店やそば屋などに寄らせてもらいました。
千葉駅や津田沼駅の乗務員詰所へのも頻繁に顔を出しました。 特に千葉駅の乗務員詰所は外周区(外房線や内房線、総武本線)の組合員と会いたい時に重宝しました。

全支部の交番表を取り寄せ、会いたいやつの到着する時間を見計らって行ったことも多々あります。本区だと「勤務中の組合活動だ」などと言ってまとわりついてくる職制もいないし、リラックスして話が出来るのです。
人材活用センターがある時は「月に1回は必ず顔を出そう」と思っていました。佐倉の人材活用センターはほぼ達成できたと思っていますが、鴨川の人材活用センターには一年に一回くらいしか行けなかった。鴨川に限らず外周区方面は上り方面のようには行けなかった。無人駅にはできるだけ行ったつもりだけど、1回も行けなかったところがいっぱいあります。 今でもそのことは心残りですね。

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