「労働者は団結すれば絶対に勝てる」 動労千葉 国鉄分割民営化闘争の記録と教訓 

はじめに
 07年4月をもって20年を迎えた国鉄分割民営化とは一体何だったのか。日本帝国主義国家権力が文字通り総力をあげて日本労働運動の中軸となっている国鉄労働運動を根底から叩きつぶそうとした戦後最大の大反動、労組解体攻撃であった。
 当時の首相・中曽根は、「国労をつぶし、総評・社会党を壊滅に追い込むことを明確に意識して国鉄分割・民営化をやった」「行政改革によってお座敷をきれいにして、立派な憲法を床の間に安置する」とその階級的狙いをあけすけに語っていた。 そして2年後の1989年に総評は解散し、当時の竹下首相が「抱擁したい」と歓喜した連合の結成が実現した。そして社会党は、翌年の90年に自民党と連立政権を樹立することによって「労働者の党」であること自ら否定するまで転落し、そして96年1月に解散した。

 確かに国鉄分割・民営化は、中曽根の言うとおりにすすんだかにみえた。それは総評が、国労が全面屈服する中でのことであった。しかし、国労指導部の無方針と裏切りのなかで二~三年で組合員が二〇万から数万人に減少したが、「国鉄労働組合」という組織はかろうじてのこった。また国鉄分割・民営化反対闘争の継続である一〇四七名解雇撤回闘争が、混迷の中にあるとはいえ、現在も闘い抜かれている。その意味では中曽根の国鉄労働運動解体攻撃はいまだ完成していない。
 そして何よりも重要なのは、小なりと言えども動労千葉1100名が、「10万人首切り反対!分割民営化反対!」を掲げて全組合員が首をかけ2波のストライキで反撃の闘いに起ち上がり、そのことによって団結を守りぬき、そしてJR体制下で一歩も後退することなく、分割民営化から20年たった今も、毎年ストライキを打ちぬき勝利していることだ。
 動労千葉は、この20年間の闘いの中で、「路線と原則のもとに団結し、敵の矛盾を徹底的について闘えば十分に闘える」「労働者はそういう力と可能性を持っているんだ」ということ労働者階級に示していることだ。
 そして現在、3人のうち1人が首を切られ、200人もの自殺者をだした国鉄分割・民営化攻撃、まさのこれと同じ攻撃が労働者全体に吹き荒れている。社会保険庁の労働者は、国鉄分割・民営化の時の「国鉄赤字の原因は、国鉄労働者が働かないからだ」という「ヤミ・カラ」キャンペーンよりもっとあくどいメチャクチャな攻撃にさらされている。日教組、自治労の組合員、民間の労働者もそうだ。  
 そして、青年労働者の二人に一人は非正規職、いつなんどきネットカフェ難民に転落するかもしれないという、未来も希望もないような現実を強制されている。また正規職になってもすさまじい長時間労働などが強制され、肉体と精神をむしばむれ多くの労働者が死を強制されている。
 今、国鉄分割・民営化型の攻撃が全労働者に襲いかかっり、20年前の国鉄の労働者が直面したのと同じ状況にたたき込まれていると言って過言ではない。 我々が教訓としなければならないのは、この攻撃の中で既成労働運動・政党・党派が全部破産・崩壊したということ。いま同じことが、より大規模に社会全体を貫く分岐として起きていること。だから、動労千葉が首をかけて闘い、団結を守り抜いたことが、あらためて大きな意味を持ってきているのである。
 動労千葉の闘いは、韓国民主労総やアメリカILWUなどの戦闘的労働組合から大きな注目を浴び、「民営化・規制緩和と闘う国際的連帯」を作り出している。また、 動労千葉の闘いに触れた青年労働者が、「労働運動で革命をやろう」をスローガンに、体制内労働運動を根底から打ち破る新たな闘いのうねりを作り出している。
 本企画は、1982~7年の国鉄分割民営化攻撃に対して、いかに動労千葉は闘い勝利したのか。何故に全組合員がクビをかけ2波ストライキに起ち上がることができたのか。その闘いの経過を今一度検証するなかから、動労千葉労働運動、階級的労働運動とは何かを深める一助にしたい。

第1章 国鉄分割民営化攻撃の全体像
★第2次臨時行政調査会
 国鉄分割・民営化はどのようにして始まったのか。その背景と経過を以下簡単にまとめてみた。


加藤寛

 動労千葉が81年3月に三里塚ジェット燃料阻止闘争をたたかいぬいた直後の81年3月16日、第2次臨時行政調査会(会長は土光光男。経団連前会長) が発足した。さらに同年9月には国鉄、電電、専売の三公社の改革をテーマとする第4部会(座長は加藤寛・現千葉商科大学長)が設置され、11月には「戦後政治の総決算」を標榜する中曽根政権が登場した。
 日本経済は74~5年頃に高度経済成長が完全に行き詰まり、日本帝国主義はその打開策として膨大な公的資金投入(新幹線建設など)と輸出ラッシュで乗り切った。その結果1980年代冒頭から、国鉄累積赤字問題と国家財政の破局危機が深刻な問題として全面化した。さらに、1979年イラン革命と第二次石油ショック、同年ソ連軍のアフガニスタン侵攻という事態の中で、「安保防衛政策の危機」に直面し、これを打開するために始まったのが行政改革であり「21世紀に日本が生き残るための国家大改造計画」(82年自民党運動方針)だった。「行革とは精神革命であり、国家改造計画だ。滅私奉公の精神、『私』は捨てて『公』のために尽くす人間への意識変革、これを軸に据えないコスト削減だけではダメ」「行政改革によってお座敷をきれいにして、立派な憲法を床の間に安置する」(中曽根)―これを臨調行革の目標とした。

 この具体的実践として、国鉄分割・民営化攻撃であり、最大の障害となっている国鉄労働運動、とくに主力部隊である国労を解体し、総評労働運動を解体しようとしたのである。それは、同盟や民間大手御用労組などが進めていた右翼労線統一(今の連合結成につながる)の動きと一体となったものだ。

★敵の攻撃は周到な準備のもとに開始された。
 1981年暮からすさまじい反国鉄キャンペーンがはじまった。 「国鉄労使悪慣行の実態」「『突発休』多く支障」(81年12月12日付読売)「赤字国鉄がヤミ手当、ブルートレイン検査係に手当支給、年に千数百万円カラ出張で山分け、過去十年間」(82年1月23日付朝日)とスコミは連日連夜、「ヤミ手当だ」「空出張だ」「働き度がわるい」「なまけている」「ストばっかりやっている」、「これらのことが原因で赤字が増えた」などと、膨大な国鉄累積債務(赤字)を全て国鉄労働者が作り出したかのように描き出すした「国鉄労働者=国賊」論が大展開された 。
 さらに「国鉄運賃なぜ5年連続アップ?すべて官・民の生産性の差から」「国鉄踏切番、大あくび、37本3人がかり、私鉄なら2人で700本」とデマ記事が流され、分割・民営化やむなしとする世論形成がおこなわれた。
 「カラスが鳴かない日はあっても、国鉄のことが新聞に載らない日はない」―まさに財界や政府、そしてマスコミの総力をあげた攻撃だった。その結果、国鉄分割・民営化賛成が世論の七〇%にまでなった。

★国鉄赤字の原因
 国鉄の赤字とは何か。そもそも累積債務が問題になるのは1971年からだ。日本経済は、ドルショックやオイルショックなどを契機に高度経済成長が終わり、すさまじい経済危機に直面する。その打開を訴えて登場したのが田中角栄内閣だ。田中は「日本列島改造」と公共部門に対する膨大な設備投資を進め、内需拡大をつくりだした。その最大の担い手にされるのが国鉄であり、上越、東北、山陽新幹線の建設だった。その結果、七一年当時、国鉄の長期債務は一兆円程度だったのが、84年には23兆円になる。さらに2年後の分割民営化時には37兆円、たった2年間で14兆円も増えた。国鉄と関係なく作った青函トンネルとか、本州と四国を結ぶ本四架橋などの建設費を全部上のせしたのだ。「巨大な国鉄赤字は労働者がまじめに働かないからだ」というのは全くの許すまじきデマなのである。
こうした反国鉄キャンペーンを背景に、第2臨調は、82年7月の基本答申で、「職場規律確立」、私鉄並みの生産性向上、あらゆる手当の削減、新規採用の停止などの「緊急11項目」を発表し、87年4月の国鉄分割・民営化=JR発足までの5年間にわたって、政府と国鉄当局が一体となって実施した。それは、国鉄労働者が数十年間かけて勝ち取ってきたあらゆる権利を剥奪し、40万人の国鉄労働者を20万人に削る、つまり2人に1人というすさまじい要員削減・首切り攻撃としておこなわれたのだ。

 ★動労カクマルを手先
 動労革マルは、すでに82年1月には「職場と仕事を守るために、働き度を2~3割高める」という悪名高い「働こう運動」を打ちだしていた。表向きには「分割民営化反対」を掲げていたが、たちまち馬脚をあらわす。82年のブルトレ問題でのぬけがけ的妥結を皮切りに、以降、入浴問題、現場協議制問題等でつぎつぎに当局と妥結。東北・上越新幹線開業に伴う83年2・11ダイ改では、国労が六年ぶりに順法闘争をたたかっている最中、鉄労とともに当局提案を全面的に受け入れた。こうして動労を使って国鉄労働運動をつぶすというこの攻撃の出発点が形づくられた。  
  動労革マルはその最初から、極めて自覚的に権力・当局との密通関係を結び、国鉄労働運動破壊の尖兵となることによって自己の延命をはかるという道を選択したのである。

★攻撃の全面化と「首切り三本柱」
 83年6月、国鉄再建監理委員会(委員長は亀井正夫)が発足、直ちに緊急提案をだすが、これは「国鉄再建」の権限が運輸省・国鉄当局から内閣に移ったことを意味した。国鉄当局はこれにせきたてられるように合理化攻撃を強化する。とくに84・2ダイ改では、動乗勤改悪に手をつけ、地方ローカル線はどんどん切り捨てられ、貨物ヤード基地の廃止を進めた。これは、単なる要員削滅にとどまらず、積極的に「余剰人員」をつくりだす攻撃であり、分割・民営化強行に向けた最も重要な施策になっていくのである。
 こうした攻撃の集約として84年7月に打ちだされたのが、いわゆる「首切り三本柱」(余剰人員対策3項目)であった。それは、①勧奨退職、②一時帰休、③出向、によって85年度までに3万人の余剰人員を吸収するというもので、しかもこの三本柱への協力を、各組合との雇用安定協約再締結の前提条件としたのである。
 この理不尽な攻撃に、国労も当初は強く反発し、いわゆる「三ない運動」(辞めない、休まない、出向しない)を提起する。当時国労は、激しい集中放火を受けながらも、なお二十万八千人の組合員を擁する圧倒的な第一組合だった(84年9月時点)。
  鹿児島地本で、懲戒免職8名を出す職場占拠闘争がたたかわれるなど激しい抵抗も起きていた。厳しい攻撃のなかで多くの労働者がたたかう方針と指導を求めていたのだ。だが国労指導部は組合員のこの思いを裏切った。

★国労本部の動揺
 84年9月には動労本部が鉄労などとともに三本柱を妥結、率先協力するなかで、当局は国労との交渉を打ち切り、11月には雇用安定協約の破棄を通告する。この脅しに屈し、国労本部は、攻防の焦点となった翌年85・3ダイ改でのストの中止を決定した。
  だが肝心なことは、雇用安定協約の破棄という攻撃は、不安や動揺を煽りたてて団結にひびを入れ、労働組合の屈服を引きだす手段として持ちだされたものであって、労働組合や労働者が毅然としていれば、何ひとつ実際の効果があるわけではなかった。このとき労働組合の指導部がとるべき構えは、攻撃の本質をきちんと暴露し、その卑劣な手口にたち向かうたたかいの方針を提起することであった。
  しかしここでも動労千葉と国労は全く違う道をとったのである。

★再建管理委員会が最終答申
 85年7月、国鉄再建監理委員会は最終答申を提出し、監理委員長の亀井は「組合対策には分割民営化しかない」(読売)、「国労と動労を解体しなければダメだ。戦後の労働運動の終焉を、国鉄分割によって目指す」(文藝春秋)とその目的をハッキリさせて、「87年分割・民営化」の最終的結論を打ちだした。 前月には国鉄総裁の更迭をもって、国鉄官僚内に根強く残っていた「民営化はしかたないが、分割には反対する」という異論も暴力的に粛正一掃されていた。


★「国鉄の民主的再生論」
 分割・民営化攻撃との攻防はいよいよ重大な段階に突入した。だがこの決定的なときに、国労本部は「国鉄の民主的再生論」をかかげて、組合員のあふれる怒りと戦闘力を敵に向かって組織することをしなかった。総評は85年7月の大会で「三池以上の決意でたたかう」などと提起しながら、具体的方針は5000万署名運動だけであった。
  また国労は五月の臨時大会で「三ない運動」の中止と三本柱の受け入れを決定したが、国鉄当局は、「まだ各地方に三ない運動の中止が徹底されていない」「実効があかつていない」と称して雇用安定協約の締結を拒んだ。

★青年部の駅助勤闘争 
 一方、動労千葉は職場規律攻撃をはじめとした当局の攻撃に対して激しい職場闘争を展開していた。その一つが駅助勤闘争である。
 駅助勤とは、国鉄当局が「余剰人員活用策」と称して乗務員・検修員を駅の「通勤対策業務」に一定期間配置するものであった。当局の狙いは、「過員活用」を口実に国鉄労働者を屈服させ、労働組合の団結を破壊することにあった。動労千葉の場合、85年5月ごろから、若い人から順番に交代で浅草橋から千葉までの総武線の各駅で、特別改札(朝のラッシュ時の“尻押し”)旅行センター補助業務などの仕事に就くことになった。
 動労千葉の青年部員にとっては、自分たちの運転職場から初めて離れて、当局・職制と自力でぶつかる全く新しい経験であった。しかも、意図的に動労千葉組合員を各駅にバラバラに配置し、孤立無援状態で屈服を迫まった。「ネクタイ、名札着用、組合ワッペン不着用」を強要する職場規律攻撃である。動労千葉の組合員は、国労千葉の仲間と共闘し、全員で名札着用を拒否し激しく当局と激突した。
 ところが、大量処分に恐怖した国労指導部は、「名札着用は本人の自由な判断に任せる」という方針に転換。これは、当局の攻撃の前に組合員を“無防備”で放り出すことだ。
 最後まで名札着用を拒否する国労組合員もいた。しかし当局の圧力の前に一人また一人と名札を着け始めた。攻撃の矛先は動労千葉青年部員に集中した。毎日毎朝の点呼時での恫喝、警告書、処分のおどし、職制の導入……。動労千葉青年部は一人の例外もなく頑として着用を拒否した。当局は「動労千葉の組合員は不良品だ」という暴言を吐き、動労千葉にのみ不当処分を強行した。
 毎日毎日の神経のすり減るような当局・職制との一対一の攻防をたたかいき、職場に戻ってきた動労千葉青年部は、「腹をくくってたたかおう。ひとあばれしよう」を合言葉とするようになった。

第2章
 国鉄分割・民営化反対闘争の決断
 動労千葉は当初から、この国鉄分割民営化攻撃がただならぬものであることを直観的に理解し、そのことを真正面から組合員に提起していた。。
 82年から85年にかけて全国の職場に襲いかかった攻撃は、ただ千葉(とくに運転職場)と他との違いがあるとすれば、動労千葉が存在していたことである。裏返していえば、分割・民営化攻撃の突撃隊となった動労カクマルは、千葉では極少数派として点在していたにすぎず、動労千葉や国労を正面から攻めたてるような力も気迫もなかったことである。
動労千葉は、第二次臨調や国鉄再建監理委、中曽根政権の動向、動労本部の転落ぶりを直視しつつ、嵐のような攻撃に対していかなる有効な反撃を組織し得るのかを真剣に考え、ねばり強くたたかいを展開していった。「85・3ダイ改」に反対する全国唯一の非協力・安全確認行動にたちあがった。 しかし攻撃は、このようなたたかいをも完全にのみ込み押し流す大きさと激しさで進んでいった。
 動労千葉は、85年9月当時1100名の組合員を擁し、千葉管内(7400人)では、運転・検修部門でみれば945人で、運転士の70%を組織していた。千葉県内を走る内房線、外房線、総武本線、成田線などの重要路線はもとより首都圏を貫く総武線の緩行、快速を握っていた

★職場に暗雲が
 国鉄再建監理委員会が最終答申をだした85年7月時点では、国鉄職員はすでに二七万六千人にまで削減されていたが、最終答申では、「適正要員規模」からすれば新事業体移行までにさらに九万三千人を余剰人員化するというのである。新たに3人に1人の首を切る攻撃だ。
 しかもたたかいの方針を求める現場からの怒りの声の高まりとは裏腹に、国労本部の動揺と後退で、職場には暗雲がたちこめ、ていた。
当時の状況を理解するために、国労組合員の叫びを紹介する

「このままの状況で国鉄の分割・民営化が押し切られてしまうのだろうか。これからの生活はどうなるのだろうか。そんな不安が全ての国鉄労働者の心中をよぎり、自己保身の思いが大半を占めていた。『闘えば処分がくる。凶暴になっている当局は何をするか分からない。選別の時に振り落されるのだ。できるだけ当局にマイナスに評価されないようにすることだ』という思考が、抵抗する力を労働者から奪い、長い間に多くの犠牲をはらって闘い確立してきた労働慣行・条件を当局の一方的な、たった一言で明渡さなければならない状況にまで追いつめられていた。心ある人々は何とかしなければと思いながらもズルズルと引ずられてきた。『こんなことがまかり通ってたまるか』という心の片隅にある思いに火をつけなければならないと思ってきたが、組合幹部の加速度的な当局に対する屈服的姿勢を見せつけられてきた。
 動労は『五五歳以上の退職』を組合の名で強制し、『出向・派遣』を組合みずから積極的に指示し取り組んでいた。これはもはや労働組合ではない。
 そういう動労・当局の策動に引ずられて国労のたたかいは大変な困難に直面している。『三項目』の妥結、『三ない運動(出向 ・休職・退職に応じない)』の中止と、現場の労働者の気持ちと全く反対の方向へと向っている。『本当に闘う気はあるのか』『やっぱりダメか』という思いが組合員の中に発生しつつあった…「去るも地獄.残るも地獄」となりつつある。それにもかかわらず国労中央は、『二一世紀の国鉄』『国鉄再建』『民営的手法の大胆な導入』『雇用の確保』と当局の言い分と見間違うような内容を主張している。およそ職場の労働者の感情、不安
を逆なでするものでしかない。」 (86年2月発行『破防法研究』国労新潟地本組合員より)

 ★ 何が求められていのか
 何よりも第1に、この状況を放置すれば、長いたたかいのなかで培われてきた組合員の階級的団結が破壊されることは確実であった。職場に疑心暗鬼が生まれ、仲間同士がいがみあい、足をひっぱりあうような状況になることは目にみえていた。これは家族ぐるみのつきあいも含めた人間関係が全部ズタズタにされるということだ。
 第2に、この攻撃の渦中でも、組合員は明日は我が身がどうなるともしれない不安を抱えながら連日連夜何千何万という乗客を乗せながら列車を動かしているわけで、運転職場を組織する労働組合としては、もし明確な方針が提起されなければ、精神的な不安・葛藤から事故の多発という事態を招きかねない。そういう切実な問題意識が、つねに動労千葉の執行部の念頭にあったのである。 
 第3に、より根本的な問題は、分割・民営化攻撃が、かつて例をみないほど大がかりな労働運動解体攻撃であったこと、そしてもしも戦後労働運動の中心部隊である国鉄労働運動がこれと一戦も交えずに敗北した場合には、今後日本の労働運動がどれほどの困難を強いられることになるのかは自ずと明らかだったことである。
しかも、国鉄労働者の闘いへの決意は決して打ち砕かれてはいなかった。重大な攻撃の意図を打ち砕く反撃へのチャンスは決して閉じられていたわけではなかった。
  なによりも求められていたのは、確固としたたたかいの路線であり、方針であり、たとえ火の粉をあびても、組合員に勇気を与え激励してそれを貫く労働組合の指導部の構えであった。

★ストライキ方針を決定
動労千葉が85年11月のストライキ方針を決定したのは、同年9月9日~10日に行われた第10回定期大会においてであった。大会スローガンは、①国鉄分割・民営化阻止②10万人首切り合理化攻撃粉砕―ひとりの首切りも許すな! ③運転保安確立―国鉄を第二の日航にするな!④未曾有の国鉄労働運動解体攻撃粉砕!―であった。
 大会冒頭、あいさつに立った中野洋・当時委員長(45)は、
 「 国鉄の赤字は『国鉄労働者は働きが悪いから』なのか!『ストライキばかりやっているからか!』。こんなデマを大宣伝され、『国民世論』に仕立て上げられ、悪者にされたたまま首を切られるて、だまっていられるのか」「三人に一人の首切りに対して闘わなかったら、組合の団結は必ず破壊される。残りたい組合員が仲間を裏切って当局にすり寄りはじめたら、組合員同士が疑心暗鬼になり、職場の連帯感も破壊されてしまう。闘うことでしか団結は守れないんだ」「われわれはもはやこれ以上引くことのできないドタン場に立っている。いまや国鉄労働者は自らの全人格、全人生が暴力的に破壊されようとしている」「ここで本気になって腹を固めて起ち上がる以外にない。国鉄内部から強烈な怒りのNO!をたたきつける以外にない」とストライキ方針を力強く訴えた。
 大会は凄い緊張と、そして感動的なものになった。大会で明らかになったことは、「今までは我慢してきかが、もうこれ以上我慢できない」という怒りが充満していることだった。ストライキを打ち抜けば必ず大量処分による報復が予想される。しかし、ここで逡巡していれば労働者としての誇りも尊厳もズタズタにされたうえでクビを切られるだけだ」と次々とスト方針を支持する発言が続き、満場一致で決定された。「動労千葉が矢面にたって起ちあがれば、必ず国労も後につづくであろう」―こうした思いは全ての組合員に共通していた。
 もちろんここには、動労千葉の労働者が、船橋事故闘争、動労本部からの分離・独立、三里塚ジェット闘争などでつちかってきた戦闘的伝統、不屈の労働者魂が脈々と波うっていたのである。
 しかし、動労千葉は、決してあらかじめ活動的な労働者を集めてつくられた組合ではない。全国のどこの国鉄職場にでもいるごくあたりまえの国鉄労働者を組織した組合である。だから、全国の国鉄労働者と同じように、この過程にはさまざまな悩みがあり、ためらいがあった。自分だけは「3人に1人」になりたくないという組合員も当然いた。「うちの父ちゃんだけはストから外してくれ」と訴えてくる家族もいた。しかし動労千葉の下した決断は、何度となく討論し悩み、そして不安や疑問を洗いざらい出し合いながら到達した結論であった。
 9月定期大会にもとづき、動労千葉の各支部は次々と支部大会を開催し、全支部でスト方針は確認された。また「支部長解雇は間違いない」というなかで、全支部の支部長は留任した。
 また動労千葉は、支部が所在する各地域で集会開催し、組合員の家族にも真正面から訴えた。職場では連日の個別オルグで腹をわった話し合いが重ねられ、さらに家庭でも多くの組合員宅で家族会議がもたれた。
  ★『死中に活を求める』
 11月17日、動労千葉は、東京・日比谷野音で三四〇〇名を結集して全国鉄労働者総決起集会を開催した。中野委員長は基調報告の最後で、「第一波ストは11月29日。総武線緩行線快速線を中心に24時間ストに突入する」と初めてスト決行日を発表した。こうして、動労千葉はみずからの決意をきっぱりと宣言し、退路を断った闘いに突入した。

  「 動労千葉は当時一一〇〇人、国鉄労働者全体の中では本当に小さな勢力です。国家権力を相手に戦争して勝てるのか、それどころか残れるのか、本当に悩みました。しかも闘った結果、加わるであろう激しい弾圧を受けて、組織的にも財政的にも維持できるのか、組合員がもつのか、あらゆることを考えました。労働組合側にとって、いい条件は何もない。…悩みに悩んだと言っても、八二年に分割・民営化攻撃が始まってから約三年間、同じことがぐるぐる頭の中で回っている状態だったと言っても過言ではありません。悩んで悩んで、結局、『迷ったら原則に帰れ』という言葉どおり、『ここで組合員を信頼し、闘うことをとおして団結を固めていく以外に動労千葉の進む道はない』という結論に達したのが八五年前半ぐらいです。『やる以上はとことんまでやろう』と腹を決めたわけです。本当に『死中に活を求める』決意でした。」(「俺たちは鉄路に生きる2」中野洋書)

★ストライキ戦術を決定
 11月21日、動労千葉は支部代表者会議が開催し、スト戦術の意志統一がはかられた。
 戦術のポイントは、①11月29日始発時より総武線緩行、総武快速線を対象とした二四時間スト、②当局・権力のスト破壊が行われたら、スト時間の繰り上げ、スト対象の拡大を行う、③国労に、当局のスト破り行為の要求には応じないよう求める、というところにあった。とくに重要なのは国労との関係であった。
 今回スト対象となった総武線快速と緩行は、すべて動労千葉組合員が運転しているわけではない。快速の方はすべて千葉運転区の乗務員が動かしているが、その内訳は動労千葉が約五割で、残りは国労。緩行の方は動労千葉が三割で、残りは国労千葉が三割、さらに中野電車区の国労が三割、動労が一割となっている。したがって、動労千葉が単独ストを行なった場合、快速が五割、緩行が三割ストップすることになる。しかし、当時総武線では1日86万人の乗客、ラッシュアワーには2分39秒間隔、快速は4分間隔という超過密ダイヤでさばいている。8、9割以上の運行が確保されない限り、駅のホームに大量の乗客があふれ、安全に輸送することは至難の業になりので全面運休にしていた。
 ところが、今回は、国労、動労の組合員をスト破りに動員することであくまでも運行を強行する体制で臨んできた。「ストをやっても電車は動く」「ストは無力」という重圧を加え、動労千葉ストの影響をゼロにしょうとしたのである。

★国労がスト破り方針
 ストライキ決定以降、 動労千葉は国労に「スト協力」を何度か申し入れていた。 国労本部は、「国労としては5000万署名を実現し、86年7月の総選挙後に一大闘争を構える」というのが公式な対応であったが、陰にまわっては「動労千葉のストは五千万署名に敵対するもの」と主張しはじめ、「ストに際しては業務命令に従う」という国労結成以来初めてという「スト破り方針」を決定したのである。しかも、11月28日(スト前日)に予定されていた動労千葉青年部と国労千葉青年部の共闘集会は中止の指示をおろし、動労千葉との共闘破棄を通告してきた。
 要するに、国労本部は、スト破りで国鉄当局に協力することで、すこしでも心証を良くしてもらい、一一月三〇日に期限が切れる雇用安定協定の再締結を懇願したのである。しかし、国労絶滅を至上命題としていた国鉄当局は、当然にも雇用安定協定の再締結を拒否した。
 国労のスト破り方針は、たとえ動労千葉の組合員が24時間ストに入っても、その穴が、業務命令に従う国労、動労の組合員によってうめられ、総武線は通常通り動くということを意味した。これは「全員解雇」の恫喝よりもさらに重く動労千葉の労働者の上にのしかかった。
 国労、動労を使ったスト破り計画は、29日のスト破りダイヤを作成し、これに国労組合員で「過員」として「業務開発センター」に押し込んでいた要員をひきあげたり、ふだんは運転乗務しない指導員や予備乗務員をひっぱり出して業務命令を出しといった内容で着々と進められていた。

★密集した反動の嵐
 スト決行日が迫るにつれて、動労千葉を重包囲し絞殺せんとする密集した反動の嵐は常軌を逸した。スト戦術を最終決定した11月21日の夜、国鉄当局は、組合員全員の家庭に、「ご家族の生活基盤の確立において、極めて不幸な事態を招くことは明らか」などと傲慢不遜な言葉を連ねて「ストに参加すれば全員解雇」という前代未聞のスト禁止令を送りつけた。
 また、国家権力はこのストライキに対し、全国から実に一万人の機動隊を動員した。津田沼電車区の周囲は機動隊の装甲車で埋めつくされたのである。

第3章第一波ストライキ突入

★火ぶたは切って落とされた
このスト破壊策動に対して、動労千葉は、直ちにスト突入を二八日正午からに繰り上げることを決定した。国鉄当局は、不意を打たれ、二九日の「スト破りダイヤ」はふっとびパニック状態になった。
 「正午スト突入」という戦術は、ダイヤの混乱という点では、午前0時からストに突入する場合に比べはるかに効果の大きい戦術だ。12時正午以降の交番の電車に乗務しない、12時以前から乗務している組合員は途中で電車を降りてしまう。たとえばの総武線快速を運転する組合員は、正午に錦糸町駅でスト突入となり、その電車はそこで立往生することになるのだ。
 こうして動労千葉の二四時間ストは敵権力・当局の重包囲の中でスタートを切った。それと同時に、国労、動労組合員を動員した国鉄当局のスト破り策動もまた全力で開始された。ぎりぎりの息づまる攻防の中で時間が過ぎていった。総武線にどれだけの影響が出るかは国労の動きにかかっていた。もし国労が当局の指示に従って全面的なスト破りに走るなら、総武線はほとんど影響を受けない。そうなれば動労千葉のストライキは、ただ組合員に無力感と絶望感だけを残すことになるだろう。正午のスト突入以降、動労千葉組合員の誰もがかたずをのんで国労の動きを注視していた。

★スト破りを組織した協会派と共産党 

その中で、一人、また一人と当局の圧力に屈して国労組合員がスト破りを行っているという報せが入ってきた。動労千葉組合員の中に、いらだちが広がっていった。ある国労組合員は、スト破り乗務を拒否しようとしたが、協会派役員に恫喝され泣く泣く乗ってしまった。
 また、千葉運転区では、5名の分会役員が、「国労方針では責任を持てない」として辞任した。分会執行部が崩壊したことを良いことに協会派や共産党・革同の活動家が公然とスト破りを組織し、自らも率先してスト破りをおこなった。

★ついに国労組合員の決起がはじまった 


一方では、必死で奮闘する国労現場組合員もいて、運休はどんどん増えていった。 こうして、動労千葉のストライキが、国労をもまき込みながら白熱した攻防をくりひろげている最中、画期的な事態が発生した。この日午後の乗務を予定していた国労津田沼分会の二名の組合員が「スト破りは絶対いやだ」と言って国労を脱退、動労千葉への加盟を申し込んできたのだ。動労千葉は、国労の個々の労働者を個別的にひきぬいて獲得しようなどという組織方針はとっていなかった。むしろ国労組合員が、国労のなかで起ちあがることを望んでいた。だがこの場合はそうもいっていられなかった。国労の方針に反して国労組合員がストに入れば、自動的に本人が解雇になる。動労千葉は二人の加盟を認めた。二人はただちに乗務を拒否してストライキに入った。
 この二人の決起は、決して国労の中の一握りの例外的の決起ではなかった。
こうしてスト第一日目ストは、空前の弾圧体制を打ち破って貫徹され、次のような影響をもたらした。運休153本、列車遅れ1290分

★スト破り方針を転換させる
 国労津田沼分会の組合事務所では、28日から29日未明まで、「俺たちにスト破りをやれというのか!」と、国労本部の指導をめぐって怒鳴り合いの激論を交わす状況がつづいた。国労本部中執の説得は、怒りの声に包まれかき消された。

 そして深夜、国労津田沼分会の執行委員会が開催され、「毎日顔をつき合わせている仲間を裏切ることはできない」「国労の誇りにかけても今日のようなことは繰り返すべきでない」「オレは処分されても業務命令を拒否する」という意見が続出し、ついに国労本部をつき動かし、「業務命令には従わない」という方針転換を確約させたのである。
 たった一つの分会のたたかいが国労の方針を変更させた。『業務命令拒否』とは、国労自身が当局とたたかうということであり、事実上国労そのもののストに等しい。 当局は、予想もしなかった事態に顔面蒼白となった。ストライキ第二日目、29日の総武線の朝のラッシュが大混乱に陥いることは不可避だった。

★浅草橋戦闘と国電ゲリラ
 29日深夜、革命軍による首都圏、関西をはじめ全国で国鉄ゲリラ戦が炸裂し、また早朝には、全学連を先頭にした部隊によ浅草橋駅を破壊・炎上させたを大戦闘がおこなわれた。 
 ゲリラ事件としては空前の規模だ。それは、中曽根内閣の国鉄分割・民営化の強行に対する、そしてスト破壊に手段をえらばぬ国家権力に対する怒りの鉄槌として実行されたのである。
 午前11時50分、動労千葉はスト集結指令を出した。二日間にわたった二四時間ストライキはこうして、さまざまなドラマを生みながらひとまず終了した。

★第一波ストの衝撃
 第一波ストの衝撃はすさまじかった。ストライキの獲得目標である《国鉄分割民営化の恐るべき陰謀を赤裸々に暴き、社会問題化にする》ことが達成された。
 既成事実化していた国鉄分割民営化について、ついに国論を二分する論議が始まったのだ。その最大の焦点になったのは「10万人首切り」だ。けたたましくストライキを非難していたマスコミの論調も日がたつごとに変わり、「なぜストライキが起きたのか」「分割民営化はどこに問題があるのか」「本当にこのまま大量の首を切るのか」「土地売却問題はどうなるのか」等々の記事が一斉に報道された。なかには「労働組合ともっと話すべきだ」「余剰人員などと呼ぶこと自体が問題」というストを擁護する主張まであらわれはじめた。

中曽根政権は大あわてで対応しはじめた。12月、政府は「余剰人員対策」を閣議決定。 マスコミは連日、「東京都が何千人、名鉄が何百人引き受け」と報道した。政府、国鉄当局は、この問題を解決しない限り国鉄労働者が闘いに起ち上がってしまうと恐れたのだ。
 死中に活を求める―労働者がクビをかけてストライキに決起することの政治的威力は絶大であったのである。

★動労千葉の本気さに敵は狼狽
 スト直後、国鉄当局は「ゲリラを惹起せしめたのは動労千葉スト」「直ちに厳正な処分を下す」と発表し、さらに毎日新聞は、「ストライキ参加者100人全員解雇」と報じた。これに対して、動労千葉は、「敵が第一線を越えた大量処分の対しては、動労千葉も一線を画した大反撃に打って出ると表明した。
 これに敵は狼狽した。年末返上、元旦、1月の成田山初詣臨時列車のストを恐れたのである。 動労千葉の本気に、「年内処分」は粉砕され、処分が出されたのは2ヶ月後、の1月28日だった。
 第一波ストで、それまでは一方的な攻撃にさらされながら歯を食いしばって耐えつづけるだけだった国鉄労働者と敵との関係に劇的な変化をもたらした。
 もちろん動労千葉は、一波のストぐらいで分割・民営化攻撃をつき崩せるなどとは考えていなかった。総体の力関係を変えていく以外に勝負はつかない。しかし国家権力をして「動労千葉をナメてかかったら大変なことになる」ということを認知させたのである。そして労働者が団結さえしていれば、たとえ国家をあげた攻撃に対しても、真正面から挑み互角の勝負ができることを示したのだ。

第4章第2波ストライキ

★史上空前の大量解雇処分

八六年一月二八日、国鉄当局は、第一波ストに対し、解雇二〇名を含む一一九名という史上空前の大量処分を発表した。
 国鉄労働者のスト権は公労法で禁止されていた。しかし政府と国鉄当局が推し進めている国鉄分割民営化は、たった一年間で十万人が「余剰人員」にされ、自ら職場から去らざるをえない状態にしていたのであり、首切りそのものだ。にも関わらず分割・民営化自体は「団交事項ではない」「労働条件の変更ではない」と独断専行でどんどん推し進めることの方が違法行為ではないのか。
  第一波ストヘの報復はもう一つあった。千葉管内の総武緩行・快速線および我孫子線の運転業務7千キロの、東京三局(西、北、南局)への業務移管である。仕事そのものを奪って職場に膨大な過員を生みだし、配転や首切りの対象とすることによって動労千葉の組織の根幹を揺るがそうという攻撃だ。そして当局は、この業務移管のための線見訓練を2月5日から実施する計画を打ちだしてきたのである。

★39日間の業務移管阻止闘争

 動労千葉は、こうした大反動に対し、大量不当処分の翌日、一月二九日を期して、全身火の玉となって第二波闘争に突入した。「不当処分撤回、業務移管粉砕、3月ダイ改での人員合理化阻止」を掲げ、乗務員の五波にわたる順法闘争、地上勤務者の2波にわたる長期順法闘争、連日にわたって延べ三千名の組合員を動員した線見訓練阻止闘争など、どのような攻撃にもびくともしないエネルギーが発揮された。3月ダイ改まで、実に三九日間にわたる果敢な闘争として貫徹された。
★またしても裏切りが
 また、国労津田沼分会をはじめ現場の国労組合員は、「動労千葉との共闘拒否」の国労方針にもかかわらず、職場では動労千葉と共に抗議闘争、順法闘争を激しくたたかった。また国労本部や千葉地本にストライキを要求した。しかし国労本部も地本も握りつぶした。
千葉管内の業務を奪い、東京3局の業務に移管するためには中野電車区や田町電車区、松戸電車区の運転士の線見訓練が必要だ。そして線見訓練をやるのは動労と国労組合員だ。国労東京は、国労千葉が業務移管に反対を表明したので当然にも反対した。同じ組合員が仕事の奪い合いで対立することは労働組合として絶対にあってはならないことだ。
 しかし、中野、松戸、田町電車区の国労分会の執行部を占めていたのは、共産党・革同と協会派で、第一波ストのスト破りと同じように「業務命令には従う」と組合員に線見訓練を強制させたのである。すさまじい人員削減で乗務員の運用がギリギリの状況で、線見訓練をやるには勤務明けなどの超過勤務でやるしか方法はない。労働者が拒否して闘えば線見訓練などできないのだ。
 組合員からの激しい怒りがわき起こった。下からの突き上げで、松戸、中野、田町電車区の各分会は、「業務移管反対! 線見訓練阻止」の「指名スト」を本部に要求したのである。しかしこれも国労中央に握りつぶされた。国労指導部の裏切りがあってはじめて線見訓練は可能となったのである。
 特に許せないのは、共産党・革同だ。「動労千葉の暴力的妨害活動で危険」を理由に「線見訓練中止」を当局に申し入れ、そういう形を取って、動労千葉の線見訓練阻止闘争への権力の弾圧を事実上要請したことである。


 ★第2波スト突入
 二月一五日、動労千葉は、津田沼、千葉転、成田の三支部及び千葉地区を拠点とした第二派の二四時間ストライキに起ちあがった。このとき、日本中の心ある労働者は、これだけの不当処分を受けて、動労千葉がこれからいかなる道を進むのかと注目していた。国鉄当局や権力も、「動労千葉ももはやこれまで」という思惑を込めて徹底した弾圧を構えた。しかし動労千葉の構えは当初から、87年4月まで、たとえどんなことがあろうとも喰らいついてたたかいぬくことを通して、絶対に団結を守りぬくというものであった。第二波ストは、いわばその不動の決意表明であった。

 ★巧妙なスト破り策動
 国鉄当局や政府の第2波スト対策の最大の柱は、「絶対に国労組合員に波及させない」ということ、すなわちスト破り拒否、動労千葉加盟をいかに封じ込めるかであった。このことをめぐって国鉄当局と国労中央と千葉地本の利害は一致した。
 動労千葉運転士の行路(二〇往復)は、中野電車区の国労と動労の組合員が乗務し、 国労千葉の運転士は、決められている本来の行路に乗務するが、「B変仕業」(行路の変更)で対応する。つまり公然たるスト破りは国労東京にやらせる。しかし「B変仕業」も結局はスト破りでしかない。
 この悪辣なスト破り策動に対して、今度は千葉運転区の国労組合員三名がスト破りを拒否して動労千葉に加入した。

★銚子、館山、勝浦支部の闘い
 

館山

銚子、勝浦、館山の三支部は、当日大学と高校の入試日と重なったため「受験列車」を提案した。つまり千葉までは電車を動かし、それ以降はストライキに突入する戦術だ。ところが当局は、乗務の際の点呼で「組合のスト指令に従いません、全行程を乗務します」という署名捺印の「確認書」を要求してきた。当然にも組合員が拒否すると、「就労の意志なし。処分する」と通告。事実上のロックアウト攻撃だ。「受験列車」は一本も走らなかった。政府当局は、「入試より動労千葉つぶし」を優先したのである。
 第二波ストは、第一波ストを上回る千葉全線区のたたかいに拡大し、運休本数は六二〇本となった。当時の官房長官・後藤田は、「こんなことでは、何のために処分をくだしたのか」と国鉄当局に対して激しく激怒し、杉浦国鉄総裁は「一月二八日に処分してから一八日しかたっていないのに違法ストをおこなうとは言語道断」と悔しさを露わにした。

★解雇8名、272名の処分
 3月14日、当局は、第2波ストに対して解雇8名をふくむ272名の大量不当処分を通告し、さらに先の第一波ストに対する3,600万円に及ぶスト損害賠償請求訴訟を提訴した。マスコミは、「財政的困難は決定的」と鬼の首でもとったように喜んだ。

★いまだ職場支配権は組合に
 大量の解雇、出勤停止処分がだされても動労千葉の職場の状況は、「この次はどう闘うか」と意気揚々としており、職場支配権は組合側が完全に握っていた。
 一方国労本部は、八六年二月の全国戦術会議で、「ワッペン闘争」を提案するが、多数の地本から、処分を恐れての反対意見が出て握りつぶされた。一方、国労津田沼電車区分会は、動労千葉と同じように堂々とワッペンをつけていた。さらにはワッペンより大きい、スローガンが大きく書かれた赤いリボンの着用闘争を闘っていたが、当局は一切口出しはできなかった。動労千葉と共に闘うことによって、当局を圧倒していたのである。

第五章 嵐のような攻撃ー86年の攻防
 八六年に入ると、国鉄労働運動への解体攻撃はさらに激烈なものとなった。3月には、第一次広域異動が提案された。ローカル線廃止で「過員」の多く出た北海道、九州から、本州への広域異動を募集するというものだ。当時、「血の入れ換え」と称されたように、本州で国労組合員を職場から追い出すための差し換え要員として、動労カクマルは積極的に応じ、自らの組合員を半ば強制的に広域異動にかりたてた。
 さらに、当局は全職員を対象とした職員管理調書の作成を指示する。それは、職員を最上、上、普通、下、最下のランクに振り分けるものである。さらに「企業人教育」という「意識改造」計画が始まった。そして、国労東京地本上野支部を中心とする革マル分子が国労を脱退、四月一三日に「真国労」を旗揚げした。
 この集中攻撃のなかで、国労は進むことも退くこともできない巨艦のように立ちつくした。
 攻撃のピークは7月だった。全国1000カ所余に悪名高い「人材活用センター」が設置された。「ここに入れられたら新会社には行けない」という現代の強制収容所に、翌年三月までの間に二万一千名の労働者が隔離・収容された。大半か国労組合員であった。そして動労はついに総評からの脱退を決定する。
★骨が折れた国労本部
  この過程で国鉄闘争に非常に大きな影響を与えたのは、7月6日の衆参ダブル選挙だった。この選挙に国労本部は最後の望み託していた。五千万署名もそのためにあった(実際それは三千五百万という驚くべき数に達していた)。しかし結果は、自民党圧勝(304議席)だ。
 この選挙の大敗で国労本部は、ほとんど骨が折れてしまった。七月二二日から千葉で開かれた国労全国大会では「大胆な妥協」方針が打ちだされ、「必要な合理化は積極的に推進する」「争議権の行使を自粛」を資本に誓約するという「労使共同宣言」の締結については「中央闘争委員会に一任する」との方針が協会派や共産党・革同も支持する中で決定されたのである。
 この千葉大会以降、国労からの脱退者が毎月一~二万人と急激に増加した。追い討ちをかけるように、当局は8月末に動労や鉄労などの改革労協との間に第2次労使共同宣言を結び、9月冒頭には、75年のスト権ストに対する202億円損賠訴訟を動労に対してのみ取り下げるという露骨な国労切り崩し政策を打ちだした。
★国労修善寺大会

 この時、権力、当局、そして動労革マルは、国労の解体・消滅は時間の問題であり、間違いなく八七年四月までには消えてなくなると思っていたに違いない。
 だがこの洪水のような逆流に抗して、国労の組合員は本部の総屈服方針を断固拒否して起ちあがった。10月国労修善寺臨時大会がそれである。そもそもこの修善寺大会は、千葉大会で中央闘争委員会に一任された労使共同宣言の締結を、機関として確認するために召集された大会であった。しかし、全国から結集した組合員の抑えがたい怒りがここで一挙に爆発し、中闘提案である「大胆な妥協」方針=労使共同宣言の締結は否決され、執行部は総辞職した。
 2波のストにかけた動労千葉の思いは、修善寺における国労組合員の決起というかたちで実現された。そして国労は最後の一線を踏みとどまり生き残った。
 しかし修善寺臨大には限界もあった。ここで選出された新執行部は、スト破りを行い「大胆な妥協」方針を支持した協会派と共産党・革同の連合であり、当然にも闘う路線を確立でなかったのだ。そしてそれは「四党合意」にまで行き着いたのだ。
 いま、国労組合員に求められているのは、「修善寺大会」を「自らの原点」と確認することではない。国鉄分割・民営化反対闘争の総括だ。それなしに、闘う路線も、闘う指導部も確立できないのではないだろうか。もっとハッキリ言うと、「動労千葉の闘いと路線を学び我がものとする」ことができるのかどうかが問われているのだ。
★ 12名JR不採用=清算事業団送り

  修善寺大会を契機として国労から旧主流派が鉄産労として大量脱落した。だが結局4万の組合員(87年4月現在)が残った。
 もうひとつ国鉄当局の大きな誤算があった。全職員を対象に、7分割される新会社のどこに行きたいかの意思確認を行ったが、本州三社については「定員割れ」が生じたのである。あまりにも激しい攻撃のなかで、当局の予想をこえる数の労働者が国鉄を去っていったためである。「これでは動労千葉や国労組合員が全て本州のJRに採用されてしまう」と動転した動労カクマルは、「採用枠を削ってでも国労や 動労千葉の首を切れ」と当局に哀願した。
 87年2月16日の採用通知においては、北海道で4700名、九州で2400名、定員割れの本州・四国でも約80名が不採用となり、全国で131ヵ所に設置された国鉄清算事業団雇用対策支所に送られることになった。大半は国労組合員だったが、動労千葉も12名が清算事業団に送り込まれた。「過去三年間に、停職6ヵ月または2回以上の処分を受けた者」はJR不採用という新たな基準が急きょ加えられたからである。「過去三年前」というのは、要するに動労本部が一切のたたかいを中止したときということだ。これによって動労千葉の解雇者は、分割・民営化攻撃とのたたかいだけで40名となった。

★団結を守りぬき、
そして全国へ
 八六年を頂点とした攻撃は、動労千葉に対しても激しく吹き荒れた。しかし国労と事態が全く違ったのは、二波のストライキをはじめ連日の激しいたたかいを貫徹した千葉の各運転職場では、職場の力関係は動労千葉各支部が圧倒していたことだ。それ故に千葉の運転職場には一人も広域異動を入れることができなかった。
 さらに動労千葉は、職場から全国に打ってでた。動労千葉の闘いは、全国に大きな共感と感動を作り出していた。 映画『俺たちは鉄路に生きる』(宮島義勇監督)の全国各地での上映会運動には1万3,000人が参加した。さらには、物資販売運動を全国的規模で開始し、大量の解雇者を抱えた動労千葉は、全国の労働者の支援で支えら、今に至っているのである。
当時、動労千葉は、たしかに満身創痍であった。しかし、どんなに困難ななかでも、たたかって団結を守りぬき、JR体制にのり込んだ。この分割民営化の過程で動労千葉は、一人の脱退者も、そして自殺者も出さなかった。

第6章 
 動労千葉はなぜ闘うことができたのか

① 労働組合とはなにか
 たった一年で10人のうち3人が職場をおわれ、クビを切られる。職場の団結は破壊され、資本の奴隷としてしか存在を認めない―この国鉄分割民営化攻撃に対して闘うことができない労働組合は、はたして労働組合なのか。
 このことを問われた動労千葉は、「どれだけの組合員が処分されるか、クビになるか予想はつかないが、労働者の最後の武器=ストライキで徹底的に闘う」ことを選択した。たしかに労働運動には、妥協や譲歩は当然ある。しかし絶対に譲れない原則があるのだ。それが動労千葉をしてストライキを決断せしめた理由である。
 分割民営化から2年後、動労千葉の当時の委員長・中野洋氏は、労働組合について次のように語っている。
「労働組合というのは労働条件の維持・改善を図っていくことは当然ですが、それだけではない。あえて言えば、今動労千葉の組合員であることは、何かと差別されます。たとえば昇職試験とか、ボーナスカットとか。労働者は低賃金だから少しでも賃金を多くほしいと思うのは当たり前です。賃金闘争は労働組合の大きな柱でもあります。
 しかし、労働者は搾取され、非人間的扱いを受けているからこそ労働組合に結集して、人間らしく、人間として誇りをもって生きていきたいと願うわけです。仲間を裏切ったり、足をひっぱったり、そういう人間にはなるまいと強く主張してきました。 給料は安くとも、出世しなくてもいいではないか、人生の中で、最後まで仲間を裏切らなかったと、それが一番大事なことだと思います。動労千葉は、一人ひとりの組合員がそれを意識している組合だと思う。」(機関紙『動労千葉』別冊 1989年発行)
 そして国労指導部、協会派や共産党・革同、動労カクマルと動労千葉が全く違うのは、「労働組合観」だ。それは当たり前のことではあるが「労働組合は、幹部のためにあるのではなく組合員のもの」「俺たちの労働組合」というものだ。そして、「労働組合は、労働者が本来もっている力、労働者の階級性に掛け値なしに依拠して闘う」―これが動労千葉の労働組合観だ。
②時代認識をいかにつかむか
 当時、国鉄分割民営化攻撃をどうとらえるのか、どう認識するのかをめぐって労働組合の対応は全く違っていた。
  動労カクマルの認識は、分割・民営化攻撃にかける敵の狙いを、ある意味で「認識」していた。しかしその結論は動労千葉と全く逆だった。「冬の時代に闘うなんて、労働者階級の闘いに敵対する行為だ」と分割・民営化の尖兵になって生き残ろうとした。
 国労指導部は、当初は「分割民営化なんかできっこない」などとタカをくくり、その動向を国鉄護持派の国鉄官僚や自民党・田中派の国会議員にゆだねた。そして国家権力が総力で攻撃を開始するやいなや完全に対応不能になった。
 また国労本部は国鉄分割民営化に対して、「国民のための国鉄改革」論、「国鉄の民主的再建」論を対置し最後の最後まで分割民営化攻撃の本質を見据えようとはしなかった。その結果、「攻撃が激しく厳しい時代、たこつぼに入るしかない」という対応に終始した。とりわけ共産党は、戦後革命期にレッドパージで壊滅的な攻撃を受けたという恐怖感から、動労カクマル顔負けの「働け運動」を「処世術」とし、一切の職場闘争を放棄し、闘いの圧殺者としてその姿をさらけ出した。 
 では、動労千葉の時代認識はいかなるものだったのか。「支配階級の側が盤石な時には、労働者がどんなに闘っても敵はびくともしない。しかし危機の時代には、われわれの闘いようによって敵を揺るがすこともできる。労働者階級の側からみれば、チャンスの時代なんだ」(中野洋著『俺たちは鉄路に生きる2』)と、攻撃の厳しさを真正面から見据えると共に、敵の弱点、矛盾点をつかみ、そして闘いの展望をつかむということである。
 だから動労千葉指導部は、組合員ばかりか組合員の家族にも、攻撃の恐るべき本質、闘いにたちが立った後にくるあらゆる困難をも包み隠さず明らかにし、「我々はもう労働者としてはどんな反動があろうともストライキで起ちあがる以外にない」「千人あまりの組合でも、団結して闘ったら必ず展望は切り開かれる」と訴えたのである。
この時代認識が動労千葉の組合員全体のものになっているからこそ、どんなに厳しい闘いであっても明るく闘っているのである。
③体制内労働運動と階級的労働運動
 総評の中軸であり、戦後労働運動の最も戦闘的な伝統を誇った国労も、結局は10万人首切りと職場を監獄にする攻撃に対して、ストライキによる反撃の一つもできず、組織と団結はガタガタにされた。国労本部は最後まで現場組合員に依拠することはなかった。現場の組合員の怒り、ストライキで闘いたいという組合員の要求を全て無視または圧殺し、ひたすら国鉄当局や政府との「交渉」や「取引」(動労千葉ストに対するスト破り等)あるいは国会での駆け引きなどに全てを委ね、結局最後は破産したのだ。これが、「国家権力の許容する範囲内での労働運動」=体制内労働運動の本質なのである。
 国労には、ほとんどの左翼党派が全部存在していた。それぞれが分会や支部などの機関を握り、互いに闘いを競い合いことによって、国労の戦闘性は保たれていた。国鉄分割・民営化という帝国主義の体制の存亡をかけた攻撃がきたとき、つまり体制の打倒がテーマになったとき、何一つ闘うこともできず屈服したことは、全ての左翼党派が体制内「左翼」でしかなく、ニセ社会主義、ニセマルクス主義党派でしかないことを突きつけられたのである。今ではほとんどの左翼党派が消滅し、残っていたとしても左翼党派としては存在しえていないのだ。
 その意味で、動労千葉が唯一闘いぬくことができた核心は何かといえば、マルクス主義に立脚し、それを具体的に労働運動として実践する階級的労働運動であるということだ。

④反合理化職場実力闘争が土台
 分割・民営化攻撃の過程も、動労千葉の支部は職場支配権を完全に握っていた。職場闘争をやる力を持っていたのだ。「仕事を楽することだけが労働組合運動」ではなく「やることはやる。その代わりに言うことは言う」「労働者は社会を動かしているのだ」という労働者の誇を一番大事にする労働組合運動だ。それは今も貫かれている。
 国労はマル生闘争勝利以降、現場協議制に依拠して闘ってきた。しかし動労千葉はそれに依拠せず、あくまで職場からの実力闘争で闘ってきた。団体交渉のやり方も国労とは違う。団交が決裂しても、「ああそう。じゃあ俺らは俺らでやらせてもらう」と、すぐに順法闘争を対置し闘争に入る。線路が悪くなったら、「これは合理化の結果だ」と運転中にスピードを上げない安全運転闘争に入る。それによって、次のダイヤ改正の時に、安全に運転できる運転時分に変えることを強制したり、線路を直さざるをえない状況を強制したりする。
 つまり動労千葉は、72年の船橋闘争以降、「合理化絶対反対を貫き、運転保安を確保する」という反合・運転保安闘争路線を軸に職場で闘ってきた。だが故に、分割民営化攻撃に対してもストライキで闘うことができたのである。

⑥職場指導部の構えと日常的な活動
 動労千葉の第一波、第二波ストライキの最先頭に立ったのが職場の代表である支部長であった。日常的に組合員と一番密に関係を持っている支部長が、全員首になることを覚悟し、闘いの先頭に立ったことが、現場の組合員をものすごく奮い立たせたことは間違いない。またJR以降も国労のように脱退者がほとんど出なかった大きな要因は、「支部長ら解雇者のおかげでJRになっても俺らは鉄道で働いている」という意識が強力に形成されたからだ。
 そして動労千葉の強さの秘訣は、日常的な支部の活動の積み重ねである。各支部の執行委員が毎月、全組合員から組合費を直接徴収できる強さを持っていることだ。「財源を資本に握られていてはけんかができるわけがない」というのが動労千葉の絶対に譲らない考え方だ。当然、これは今も続いている。
⑤革マルへの怒り労働者の生き方
 動労千葉が闘いぬくことができた底流には、79年の分離・独立以前からの動労革マルへの激しい怒りがあった。「分割・民営化攻撃は許せない」と怒るのと同時に、労働組合の名で分割・民営化攻撃の手先になった革マルの存在はなおさら許せないという怒りだ。「ここで俺たちが後退したら革マルに屈服することになる。それだけは生き方の問題として絶対にできない」という意識が組合員に強烈にあった。この怒りが全組合員がクビをかけて腹を固めて闘いぬいた大きなバネになったことは間違いない。
79年動労革マル襲撃部隊

第7章 3つの教訓

動労千葉の分割民営化反対闘争の教訓を三つにまとめてみた。
★一つは、「民営化攻撃に中間の道はない。2者択一が迫られたら、左を選択すること、原則を貫くこと。」

  民営化と労働者階級の利害は正反対であり非和解である。国鉄分割民営化がそうだったように「よりましな民営化」や中間的な立場は一切ないのだ。
3人に1人の首切りを認めるのか、あくまで反対し闘うのか。中間はなかった。
 そして団結を堅持し組織を守るためには、どんなに困難でも組合員を信頼し、二者択一が迫られたら左を選択すること。あくまで闘いの原則を守ること。闘うことによってしか労働者の展望は切り開かれないのだ。

★2つめに、指導部、活動家が団結して闘いの先頭に立てば必ず組合員はついてくる。」

  闘いが困難であればあるほど、組合の指導部、そして活動家のあり方が厳しく問われた。動労千葉は、指導部全員が一致団結して先頭に立って闘ってきた。だから現場の組合員は、指導部を心から信頼し全体が打って一丸となって闘いに入った。

★3つめに、団結を一切の総括軸にして闘う
 あるがままの労働者が、あらかじめ階級的、戦闘的な存在であるというわけではない。 動労千葉の組合員も、さまざまな闘いを実践する中で、意識が変わり団結が形成されてきた。
 たしかに、ストをやっても何も勝ち取れないことがほとんどだった。しかし、闘って団結することによってのみ、展望は切り開かれる。動労千葉は、ストライキで元気になり、団結を強化した。動労千葉は、団結を一切の総括軸にして闘うのである。
労働組合にとっては、国営であろうと、民営であろうと自分たち労働者階級の利害に立って団結を固めて対峙するということが原則だ。動労千葉は、国鉄の国営を維持することを求めて闘ったのではない。民営化を通した団結破壊との闘いという視点が座っていたからこそ、動労千葉は民営化されても団結を維持して闘っているのだ。

最後に 「新自由主義」と動労千葉

 激動の08年

08年はどういう時代になるのか。年頭から経済はガタガタ。株価の大暴落から年が明け、金も石油も暴騰し、資本主義社会がどうなってるのかと。一言でいって08年は、資本主義体制の破局が爆発的に進行する、金融恐慌は避けられない。その中で「労働者、労働組合がいったい何をなすべきなのか」が問われる年になる。
  最近発表された厚労省の報告では、13年ぶりに労組の組合員数が増えたと。「我慢ならない」という労働者が団結して労働組合を結成し声を上げはじめた。世界的には労働者の大反乱が始まり、時代が変わろうとしている。これが08年の特徴ではないか。

今一度国鉄分割民営を問う
 こうした中で、労働組合はなにをすべきなのか、なにができるのか。
  もう一回「国鉄分割・民営化」を問い直すことではないか。、原点に立ち返って一から出発することが必要だ。 
 なぜなのか。現在の格差社会、貧困、非正規職化の原点は国鉄分割民営化攻撃から始まったからだ。国際的に見れば「新自由主義」攻撃が、日本では国鉄分割・民営化から始まった。レーガン、サッチャー、中曽根が登場したところから始まった「新自由主義」攻撃とは、資本にとって自由、支配するものにとって自由、徹底的に弱肉強食の論理で社会全体にローラーをかける。そこで最大の問題は労働組合の団結を破壊すること、もう一つは社会保障制度を解体に焦点があてらてた。だから動労千葉が、この国鉄分割・民営化攻撃の中で団結を守り、いまも闘いを継続していることの意味は決定的に大きい。
  動労は首切りの先兵に、国労は蛸壺にもぐって最後まで闘いを構えられなかった。動労千葉は、闘うという道を選択し、組合員・家族をあげて議論しストライキを打ち抜きました。「わずか1千名の組合がストをうって情勢が変わるのか」という議論をずいぶんした。だが、この小さな闘いが、現在の動労千葉の闘いの土台のすべてを作ったとのだ。
 動労千葉は、 いまの激動の時代に立ち向かっていくためにも、その原点からもう一回再出発すると宣言している。

 

「新自由主義」攻撃に勝利
 なぜあの時、動労千葉は「新自由主義」攻撃である国鉄分割・民営化に立ち向かい闘うことができたのか。その根拠は、①反合・運転保安闘争を土台にした強固な団結、②三里塚反対同盟と連帯して三里塚ジェット闘争、③動労本部との分離・独立闘争です。労働組合とは何なのか、その原点とは何なのかを問う闘いだった。
  81年の三里塚ジェット闘争の時に、アメリカでは航空管制官労組(PATCO)への激しい攻撃が加えられていた。国鉄分割民営化攻撃の時、イギリスで炭労ストが激しく闘われていた。
 分割・民営化から約15年間は、動労千葉は困難に困難を極めました。なにをやっても要求は前進をしない。配転攻撃、組織破壊攻撃が加えられたががんばり抜いた。そして01年、業務の全面的外注化を中心とする「第2の分割・民営化」攻撃が始まった。われわれは原点に帰って、腹をすえて闘い抜こうと組合員に訴え、毎年のようなストライキ闘争を始めた。シニア制度を粉砕し、強制配転者を職場に戻し、安全問題で大きな成果をあげ、事故をおこした仲間を守り、館山運転区・木更津支区廃止反対闘争に勝利し、この6年間大きな成果を勝ち取った。
 動労千葉は07年の大会で、「国鉄分割・民営化攻撃に勝利した」と総括した。世界で吹き荒れた新自由主義攻撃に唯一勝利したのは動労千葉だったと確認できるのではないか。

体制内労働運動からの脱却を!

 新自由主義攻撃の最大の攻防点が、4大産別だ。とりわけ自治体をめぐって大きな焦点になっている。
 「公務員制度改革」とは、自治労解体と200万人の公務員の首切りだ。その手法は「民営化」である。そしてその突破口に、社会保険庁の解体・分割・民営化攻撃が位置づけられている。
 ところが、自治労にしても、自治労連にしても、民営化絶対反対を掲げるどころか、民営化に対して「新たな公共サービス論」や「公務・公共部門の民主化」を対置し、一切の職場からの闘いを放棄している。
 民営化による労働者の首切り、公務員労働者の首切りが行うとしているのに、「よりよい民営化」を対置して、どうして首切りを阻止できるのか。社会保険庁労組の協会派は、「真摯(しんし)に反省」「残業は仕方ない」、「一時金の返納にも積極的に応じる」と全面屈服している。組合幹部はこれを「職員の雇用を守るため」と合理化さえしている。
 だが、決戦を回避し、当局・安倍にはいつくばることで職員の雇用が守れるのか! 「日本年金機構」への移行にあたり1万7千人の職員のうち12年度までに4千人のクビが切られようとしているのだ。組合員の怒りを組織し、断固とした反撃に出なければ、労働者の首は切られ、団結をボロボロに崩されてしまうだけだ。協会派は、分割民営化の時の国労本部のたどった歴史を、ここでも繰り返そうとしているのである。

 今の国労本部も、そして「総評運動を継承する」と結成された全労協も、「階級的労働運動」を標榜し結成した全労連も、また、協会派や共産党など全ての党派も、国鉄分割・民営化について総括をすることをしない。いやできなかったのだ。国鉄分割民営化で10万人が首切られることにたいして、一戦も交えることなく屈服し、全部破産・崩壊したからだ。その惨めな破産した姿を想い出したくないのかもしれない。
  しかし、こうした勢力が行っていることは、現場の労働者が「動労千葉のように闘おう」と闘いを始めた瞬間、「動労千葉は過激派だ」「労働組合の仮面をかぶった暴力集団」などという破廉恥な反動労千葉キャンペンーンを繰り返えし、資本と一体となって職場からたたかう労働者を排除をしようとしている。しかし、彼らの破産はすでに国鉄分割民営化攻撃で証明されている。彼らには1ミリたりとも正義も、そして展望も未来もない。

新たな闘いの鼓動!

 07年3月18日、「労働運動で革命をやろう」をスローガンに新たな青年労働者の自己解放的闘いが登場し、大きな渦となってている。その核心は、「体制内労働運動からの脱却」であり「自らの職場で、地域で、動労千葉のように闘おう」という動労千葉労働運動である。
 こうした青年労働者の闘いは、闘わない労働組合を闘う労働組合に変えるために、動労千葉に学び、職場での闘いを始めたことから始まった。そして今、それが大きな団結をつくりだしている。また職場に労働組合のない労働者たちは、自らの職場や地域で労働組合の結成を呼びかけている。
 時代は大きく変わろうとしている。全世界、そして日本で労働者の大反乱が始まっている。これは新自由主義攻撃によって延命しようとしている帝国主義に対する労働者人民の根底からの怒りだ。民営化・規制緩和と労組破壊攻撃のへの怒りの爆発である。この怒りを組織できるのは新自由主義攻撃と対決し勝利している動労千葉の労働運動しかない。
 
 
参考文献
●「俺たちは鉄路に生きる」中野洋著 社会評論社 ●「俺たちは鉄路に生きる2」中野洋著 労働者学習センター●「甦れ労働組合」中野洋著 社会評論社 ●「破防法研究53号」86・2月発行 ●「生涯一労働者」佐藤芳夫著 労働者学習センター ●「戦後労働運動の奇跡と国鉄闘争」中野洋著 アール企画 ●『甦れ鉄輪旗』動労総連合結成10年記念誌●機関誌『動労千葉』●「日刊動労千葉」など

 

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