分割民営化の嵐の中で、2波のストライキに実力決起した動労千葉。
1987年4月から約一年にわたり、組合員一人ひとりの生活と労働、闘いと団結を記録する。
国鉄労働者の苦悩、葛藤、怒り、歓喜・・・が浮きぼりにされる。
動労千葉の労働者はどう闘ったのか、どのように団結を維持し勝利してきたのか・・
民営化と規制緩和の吹き荒れる中、必死でがんばりぬいているすべての労働者の必見の記録ビデオ
渡部幸雄・監督作品
配属差別、強制配転、基地統廃合、
組織破壊攻撃との闘い
相次ぐ強制配転、不当労働行為の乱発
国鉄分割・民営化攻撃は熾烈をきわめたが、結局敵の思惑は外れ、JR発足までに動労千葉や国労を解体することはできなかった。だが、国鉄労働運動解体攻撃はそれで終わったわけではなかった。
組織破壊攻撃の最大の手段としてふきあれたのが、強制配転―配属差別攻撃である。当局は、3月10日に人活センターを廃止するとともに、JR発足時の配属発令を行ったが、それはより拡大された新たな人活センターに、動労千葉や国労の組合員・活動家を送り
込む攻撃であった。
とくに動労革マルが尖兵となった運転職場での実態はまさにひどいものであった。例えば東京南局では、国労所属の電車運転士229名全員が職場を追放され、ハンドルを握る国労組合員はゼロになった。事態は南局ぽかりでなく、東京全域でばぼ同様であった。
配転先は、うどん屋、駅売店、ミルクスタンド、オレンジカード売りやセールス、ラッシュ時の尻押しなどを行う「要員機動センター」、野ざらしされた老朽貨車の解体作業、無人駅の草取り作業などであった。東京では関もなく「大清水」を扱うペンディング職場が、その受け皿として各地につくられた。運転職場の穴は、広域採用で北海道や東北地方等から送られてきた動労組合員によってうめられた。
つづいて強制出向攻撃が襲いかかってきた。鉄道弘済公等の関連会社への強制出向は、「関連事業の育成」「人材養成」のうたい文句とは裏腹の、新たな余剰人員対策であり、新たな選別的首切り攻撃以外のなにものでもなかった。ここでも、東京の運転職場から強制出向を命ぜられたのは国労組合員だけだったが、この背後には明らかに資本と鉄道労連革マルの結託した意思 があった。
嵐のような強制配転
千葉でも、86年3月10日から88年4月までの約二年間は、運転職場から駅売店等への不当配転が激しくふきあれた。いずれも、動労千葉の組合員に対する集中的な攻撃であった。
例えば86年3月10日の通知で強制配転され、運転職場から外された者は48名であったが、うち35名が動労千葉、翌年4月は12名中全員、5月は36名中22名、7月は43名中28名。88年4月は40名中32名(以上一部再配転も合む)という事態であった。とくに各支部の執行部はほとんどが配転された。しかしそれでも動労千葉は、団結を守って管内の運転士の過半数を制し、各支部の新たな執行体制を確立して、解雇者や配転者を守ってたたかう体制を維持した。やはりその土台となったのは、二波のストライキを打ちぬいた自信と確信であった。
また、動労千葉にとって非常に大きな位置を占めた攻撃は、運転士登用差別であった。分割・民営化攻撃が開始される状況のなかで、80年度以降のドライバーコース採用者(予科生)が、運転士の資格を取得していながら、発令されないという状態がつづいていたが、当局はこれを利用して、国労や動労千葉を脱退した者だけを順次土職登用すると
いう攻撃をしかけたのである。
組合活動の禁圧、差別、処分
さらに職場では、87年4月1日を期して、組合活動を一切禁圧する攻撃がかけられた。支部・分会の掲示板は一切撤去され、組合事務所明け渡し訴訟が起こされ、奴隷的な労働協約を結ばなければ一切を認めないという攻撃のなかで、日刊動労千葉を手渡したり、組合費を徴収したりすることにまで賃金力ツトや処分が加えられた。徹底した昇進差別、ボーナスカット、面談等を利用した露骨な脱退強要、「暴言」「不規則発言」等を理由とした処分の乱発など、ありとあらゆる不当労働行為の累積の上に成立したのがJRだったのである。
このような攻撃に対してわれわれは、士織登用差別事件、組合員脱退強要事件、掲示板等便宜供与差別事件等々をめぐって労働委員会に対する救済申し立てを行い、いくつもの重要な勝利命令をかちとってきた(93年6月の士職登用差別での地労委全面勝利命令等)。国労も無数の救済申し立てを行ったが、全国各地で連戦連勝をかちとった。
反撃の開始 長期波状ストライキ方針
動労千葉は、88年四月の第14回臨時大会で長期波状ストをもってたたかう方針を決定し、理不尽きわまる不当労働行為に対する職場からの反撃を開始した。
たたかいの焦点は強制配転問題であった。
5・18千葉駅、5・20亀戸駅、5・27千葉みなと駅、6・16銚子駅、6・22館山駅と連続的に打ちぬかれたたたかいは、JR発足後初めてのストライキであった。
だが例えば、5・20亀戸駅ミルクスタンドでのストは、たった一人の組合員のわずか一時間のストにすぎなかったが、動労千葉の動員者100名に対して、機動隊、私服、職制約600名がホーム、コンコースをうずめるという常軌を逸した弾圧体制のなかでのたたかいとなった。
当局・権力は、あってはならないはずのJR体制下でストライキと動労千葉の存在に憎悪を むきだしにしたのである。われわれにとっては、逆に自らが貫いてきたたたかいの大きさをあらためて実感することができた闘争であった。
また、長期波状ストヘの決起の過程は、満身創痍となった傷を癒し、役員・活動家のばとんど全てが解雇され、配転された現場でさまざまな苦労を重ねながら、新たな組織体制をつくりあげていく過程でもあった。
運転職場にたたかいを拡大
動労千葉、翌89年にはたたかいを運転織場本体へと広げていった。この年は、4・1幕張拠点スト、4・17新小岩・佐倉拠点ストをはじめ、五波にわたるストライキを貫徹、12月5日には前述の乗務員ストに決起し、JR発足後初めて列車をストスフさせた。
以降も90年3月の84時間ストをひとつの頂点としてたたかいを継続し、JR体制下での確固とした力関係を形成していった。
92年11月、千葉支社は強制配転者の収容先であった直営店舗の廃止を提案してきた。「収益が上がらない」というのがその理由であった。当然にもわれわれは節織復帰を要求してストライキを配置してたたかいぬいたが、当局はあくまで節織復帰を拒み、。塩漬けに状態を固守した。それはJRと革マルの結託体制が、たとえひとりといえども、配転者の復帰が“蟻の一穴”になることをいかに恐れているかを示すものであった。