国鉄分割・民営化に反対して、その果敢な闘争ぶりで勇名をはせている勤労千葉の、85年11月から86年3月までの二波にわたるストライキの記録映画。
監督・撮影は、「切腹」「人間の条件 第1・2部」「人間の条件 第3・4部」「人間の条件 完結篇」など日本を代表する名カメラマンとしてだけではなく、
70年の安保闘争を記録した長編「怒りをうたえ」の監督としても知られる宮島義勇。
11月17日には全国鉄労働者総決起集会を呼びかけ、3400名の労働者で埋めつくされた日比谷野外音楽堂で、「第一波ストは11月29日。総武緩行線・快速線を中心に24時間ストに突人する」と宣言した。
反動も熾烈を極めた。11月21日、千葉鉄当局は、組合員全員の家庭に、「ご家族の生活基盤の確立において、極めて不幸な事態を招くことは明らか」などと傲慢不遜な言葉を連ねて「ストに参加すれば全員解雇」という前代未聞のスト禁止令を送りつけた。また国家権力は、このストライキに対し、全国から実に一万人の機動隊を動員した。津田沼電車区の周囲などは、機動隊の装甲車で埋めつくされ、まさに景色が変わってしまう状態となったのである。
一方国労本部は、「国労としては5000万署名を実現し、86年7月の総選挙後に一大闘争を構える」というのが公式の対応であったが、しかし陰にまわっては「動労千葉のストは5000万署名に敵対するもの」と主張し、あろうことか「ストに際しては業務命令に従う」という方針を決定する。スト破りの決定は国労結成以来初めての裏切り方針であった。これは、スト拠点となる津田沼電車区、千葉運転区の国労組合員にとっては、地に叩きつけられるような意味をもつものであった。「俺たちにスト破りをやれというのか!」。職場では、国労の仲間たちが顔面蒼白になって、執行部の指導に対して怒鳴り合いの激論を交わす状況がつづいた。
動労千葉は、当局・権力の闘争破壊策動を予測し、「スト破りや官憲の介入があった場合は、スト突入時間を繰り上げ、スト対象を拡大する」との方針を決めていたが、27日の段階で、スト突入を28日正午からに繰り上げることを決定した。
突入! 確かな手応え
11月28日、動労千葉は正午を関して整然とストに突入した。当局は国労のスト破り方針をもテコとして、他労組への業務命令を乱発しスト破りの強要を開始した。職場に緊張が走り、息詰まる攻防がつづいた。
だがでなんとしてもストの影響を削ぎ、無力感を醸成しようとしたこの策動も、国労の労働者の決起によって打ち破られた。28日午後、国労津電分会の2名の仲間が「スト破りだけは絶対嫌だ」といって国労を脱退し、動労千葉に加盟したのである。
28日昼から29日未明にかけて、国労分会の議論は沸騰した。国労本部からのり込んできた中執の説得は、怒りの声に包まれかき消された。千葉転では5名の分会役員が、貴任がとれないとして辞任し、津田沼の分会事務所では未明まで怒号が飛びかう状態がつづいた。そして二九日未明、ついに現場の激しい怒りの声は国労本部をつき動かし、「業務命令には従わない」という方針転換を確約させたのである。この第一波ストの大きな目的のひとつは、国労の決起を実現することであったが、動労千葉はその確かな手応えを感じとることができた。
第一波ストは、それまでは一方的な攻撃にさらされながら歯を食いしばって耐えつづけるだけだった敵と国鉄労働者の関係に劇的な変化をもたらした。もちろん動労千葉は、一波のストぐらいで分割・民営化攻撃をつき崩せるなどとは考えていなかった。総体の力関 係を変えていく以外に勝負はつかない。しかし、少なくともこの闘争によってわれわれは、動労千葉をナメてかかったら大変なことになるということを敵に認知させたのである。国家をあげた攻撃に真正面から挑み、互角の勝負ができることを示したのだ。
史上空前の大量解雇処分 解雇20名
予想どおりの大反動はすぐに始まった。29日未明には、浅草橋駅の炎上をはじめ各地でのゲリラ事件が発生したが、国鉄総裁自らが顔を引きつらせて「ゲリラを惹起させた動労千葉スト」という非難声明を発し、厳重処分をわめきたてた。しかし動労千葉はこの総裁 声明のなかにも、敵が受けたショックの大きさを手にとるように感じることができた。
国鉄当局は、86年1月28目、第一波ストに対し、史上空前の大量解雇処分を発表した。解雇20名をはじめとする119名の不当処分である。
業務移管
第一波ストヘの報復はもうひとつあった。総武緩行・快速線および我孫子線の運転業務7千キロの東京三局への業務移管である。仕事そのものを奪って職場に膨大な過員を生みだし、配転や首回りの対象とすることによって組織の根幹を揺るがそうという攻撃だ。
そして当局は、この業務移管のための線見訓練を2月5日から実施する計画を打ちだしてきたのである。
第2波ストライキ突入!(86年2月15日)
動労千葉は、こうした大反動に対し、大量不当処分の翌日、1月29日を期して、全身火の玉となって第二波闘争に突入した。不当処分撤回、業務移管粉砕、3月ダイ改での人合理化阻止がたたかいの目標であった。乗務員の5波にわたる順法闘争、地上勤務者の2波にわたる長期順法闘争、連日にわたって延べ3000名の組合員を動員した絶見訓練阻止闘争など、どのような攻撃にもびくともしないエネルギーがこのたたかいのなかで発揮された。
そして動労千葉は2月15日、津田沼、千葉転、成田の3支部および千葉地区を拠点とした、第2波の24時間ストライキに起ちあがったのである。このとき、日本中の心ある労働者は、これだけの不当処分を受けて、動労千葉がこれからいかなる道を連むのかと注目していた。第1波闘争に際し「飛んで火に入る夏の虫」と称した国鉄当局や権力も、動労千葉ももはやこれまでという思惑を込めて徹底した弾圧を加えたことは間違いない。しかし動労千葉の構えは当初から、87年4月まで、たとえどんなことがあろうとも喰らいついてたたかいぬくことを通して、絶対に団結を守りぬくという決意であった。第2波ストは、いわばその不動の決意表明であった。
解雇8名、272名の処分
3月14日、国鉄当局は、第2波ストに対して、解雇8名をふくむ272名の大量不当処分を通告し、さらに4日後の18日には、先の第一波ストに対する3,600万円に及ぶスト損害賠償請求訴訟を提訴した。
これによって動労千葉は、分離・独立以降だけでも総計34名の解雇者をかかえることになった。マスコミは、「財政的困難は決定的」と鬼の首でもとったように喜んだ。