1972年の船橋事故で、動労千葉所属の高石運転士がその場で逮捕され、起訴されるという事態が発生した。
この時、当時の動労千葉地本は、事故の責任は、国鉄再建10カ年計画の最中で徹底したスクラップアンドビルドと運転保安無視・労働強化が職場を直撃して いたために、起こるべくして起きた事故であること、直接の原因は信号停電と2分30秒間隔の過密ダイヤにあったことを当局に突き付け、運転保安闘争に起ち 上がった。
高石運転士が起訴された後の裁判には、組合の指示した数の2倍もの動員者が駆けつけるなど、この事故が運転士一人ひとりに突き付けられた重大な問題としてあったこと、そして動労千葉の基礎を築く闘いとなったのだ。
この闘いの結果、高石運転士は1977年に津田沼電車区(当時)への職場復帰を果たすという勝利を得た。動労千葉は、闘うことによって当局の合理化攻撃を打ち破り、運転士への事故責任の転嫁を粉砕してきたのだ。
「防衛から攻撃」の反合・運転保安闘争へ
動労千葉は、「資本の最大のアキレス腱・弱点は安全問題にある」ことを切りロとし、ここに徹底してこだわりぬくことによって、反合闘争の主導権を労働組合が握り返した。それは、当時掲げられた「防衛から攻撃の反合・運転保安闘争へ」というスローガンに象徴的に示された。
そもそも資本主義社会において、直接的利益を生まない保安部門への設備投資や必要要員の配置などを、資本が無視・軽視するのは当然のことであり、労働 者の抵抗や労働組合の闘いだけが、はじめてそれを強制することができる。市場原理と安全は、絶対に相入れることのない水と油の関係だ。
しかし、資本とはいえ、安全などどうでもいいとは言えない課題でもあります。その意味で、反合・運転保安闘争は、資本と最も鋭く対決する闘いであると同時に、資本の最大の弱点でもあるのです。
動労千葉の団結力は如何に形成されたのか
事故を起こした一人の組合員を守るために、全組合員が処分を覚悟して 闘いにたちあがるという方針は、一人ひとりの組合員の動労千葉への大きな信頼関係をつくりあげました。反合・運転保安闘争によって、「一人は万人のため に、万人は一人のために」という原点が、全組合員のものとなったのです。
三里塚・ジェット闘争、分離・独立の闘い、そして国鉄分割・民営化反対闘争等、その後のすべての闘いが、反合・運転保安闘争によって形づくられた団結力が土台にあったからこそ実現できたと言っても過言ではありません。
青年部問題の発生と新執行部体制の確立
70年代初め頃から、千葉地本青年部に対して動労本部青年部の革マルよる集団邸テロ・リンチを受けるという事態 が多発する。動労本部はこの事態を不問にして、73年1月千葉地本青年部役員6名を権利停止処分にした。激しく怒った千葉地本組合員は1月臨時大会を開催 し、統制処分撤回の決議をあげ、本部に屈服していた千葉地本執行部は総辞職した。
9月地本大会において、関川委員長、中野書記長体制が確立した。これ以降、青年部レベルの対立から、千葉地本と本部革マルの対立に転化していった。
線路改善闘争
75年以降、千葉でレールが非常に劣悪化し列車が激しく振動するので、線路の改善闘争をやった歴史があります。 乗務員分科会が自分の足で各線区を歩いて線路の状態を調べ、そのデータを団体交渉の席上に持ち込んで、『この現状を見ろ』と。このときはわれわれ素人です から、当時の線路を主管している施設部長や課長あたりは「だいたい素人がなにを言っているんだ」とまともに対応しない。それに対してわれわれは安全運転闘 争を対置した。
つまり線路が悪くなる原因は、線路保守の手抜きがひとつ、それと同時に列車のスピードアップがあるんです。スピードアップとは同時に激しくブレーキをか けることになりますから、物理学の原則で必然的に、車両とレールの双方に衝撃が非常に強くなる。だからレールがたちどころに悪くなるということが、ほんの 半年ぐらいの間に起きた。それを動労千葉としては、「外房線は制限速度何キロ以下に抑えろ」「内房線はこれにしろ」「総武本線はこういうふうにしろ」とい うことを全部組合で方針化し、その指令どおりに乗務員が運転した。その結果、トータルすると1日約五千分ぐらい遅れが出た。それをダイヤに組み込ませると いう闘いをやった。文字どおり「ダイヤ改正」になった。
今までは、ダイ改のたびに労働条件が悪くなるからダイヤ改悪反対と言って闘争をやったが、国鉄労働運動史上始めて、ダイ改で労働条件が良くなった。その間に線路も修復されていく。
動労革マルとの対立の激化
70年代前半の対立は、70年代後半の三里塚ジェット闘争の渦中で、いっそう非和解的な関係となっていいた。
75年動労全国大会 千葉地本傍聴者に本部革マルによる暴行 (松山大会)