船橋事故闘争と反合・運転保安闘争論の確立

1972年の船橋事故で、動労千葉所属の高石運転士がその場で逮捕され、起訴されるという事態が発生した。
この時、当時の動労千葉地本は、事故の責任は、国鉄再建10カ年計画の最中で徹底したスクラップアンドビルドと運転保安無視・労働強化が職場を直撃していたために、起こるべくして起きた事故であること、直接の原因は信号停電と2分30秒間隔の過密ダイヤにあったことを当局に突き付け、運転保安闘争に起ち上がった。
高石運転士が起訴された後の裁判には、組合の指示した数の2倍もの動員者が駆けつけるなど、この事故が運転士一人ひとりに突き付けられた重大な問題としてあったこと、そして動労千葉の基礎を築く闘いとなったのだ。
この闘いの結果、高石運転士は1977年に津田沼電車区(当時)への職場復帰を果たすという勝利を得た。動労千葉は、闘うことによって当局の合理化攻撃を打ち破り、運転士への事故責任の転嫁を粉砕してきたのだ。