動労千葉の闘いの軌跡

動労千葉の闘いの軌跡

国鉄千葉動力車労働組合

動労千葉結成30周年ギャラリー

動労千葉結成以前の闘い

 動労千葉の前身は、国鉄動力車労働組合(1950年に機関車労働組合として結成され、1957年に名称を変更)千葉地方本部である。

前史
1978年2月
助役機関士線見阻止闘争

千葉県と東京都新小岩地区の運転士と車両のエンジニアで組織した労働組合である。われわれの組合員の職場は、千葉県全域と東京駅を含む東京一部地域に及んでいる。現在組合員数500名。その他にリタイア労働者もOB会として組織している。企業側の新規採用の徹底抑制が続き、新規採用再開後も企業の差別政策で、採用時に動労千葉への不加入を強制されている。だがわれわれは民営化後も30数名の組織化に成功している。

 結成当初はけして戦闘的労働組合ではなかったが、60年安保闘争や、320人もの死者をだした62-63年の三河島・鶴見における鉄道事故への怒り、機関助士廃止-5万人合理化反対闘争、ベトナム反戦-70年安保・沖縄闘争、さらには「生産性向上運動」による激しい組合破壊攻撃(わずか2年余りの間に動労・国労の組合員が6万名も減少した)との闘いの勝利のなかで、今日の土台が築かれていった。

 また、動労千葉地本にとって重要な意味をもつ二つの闘いがあった。
 ひとつは、合理化や人員削減によって列車の安全運行が脅かされ続けている職場の現状に対する闘いである。72年千葉県船橋駅で列車衝突事故が発生し、組合員が逮捕された。われわれはこれに対し「資本の利潤追求の結果安全性の確保が軽視されたことによって起きた事故である」という立場から、数波によるストライキ、減速闘争をもって闘い、当該組合員の解雇を断念させ、職場復帰をかちとった。以降、「闘いなくして安全なし」はわれわれの最も重要なスローガンとなっている。
 もうひとつは、軍事空港建設に反対して闘い続けられている、日本における戦後最大の農民闘争であり、反権力闘争である成田(三里塚)空港反対闘争との連帯である。われわれは空港の開港に向けて、国家権力による激しい弾圧が反対派農民に加えられる状況のなかで、労農連帯をかけて1977~78年、空港へのジェット燃料の貨車輸送を拒否する「100日間闘争」を闘いぬいた。

新生動労千葉の結成

1979年3月30日
動労千葉結成大会

 このような闘いのなかで、動労千葉地本は組織と団結を強化し、動労内の最も戦闘的・民主的地方本部となっていったが、一方、動労本部は1970年代の後半から急速に変質を深め、1978年の全国大会では、①ストライキ闘争の放棄、②成田空港反対派農民との連帯闘争の中止等の方針が提起され、それに反対した千葉地本の大会参加者をロビーでリンチし、発言を封じるという状況に至る。
 そして1979年3月には、闘いを放棄する動労本部方針を拒否した千葉地本執行部全員の執行権・組合員権を停止し、さらに委員長以下4名の執行部を除名するという暴挙に走った。こうした状況のなかで、1979年3月30日、われわれは動労本部からの分離・独立を決定し、動労千葉を結成した。

 以降2年近くの間は、国鉄当局公認のもとに繰り返された動労本部の組合破壊のための職場への襲撃に対して、多くの重軽傷者をだしながら団結を守りぬくための闘となる。
 国鉄当局も、1979年12月に書記長を解雇、1980年5月に組織部長を解雇、1981年には3月2日~6日まで闘いぬかれた成田空港へのジェット燃料貨車輸送阻止-6万人人員削減反対のストライキを理由に副委員長など4名の役員を解雇するなど、激しい組織破壊攻撃をしかけた。

国鉄分割・民営化反対闘争

1985年11月17日
国鉄分割・民営化阻止!
日比谷野音でスト突入を宣言

 動労千葉の闘いの歴史のなかで、最も激しい攻防戦となった闘いは、国鉄分割・民営化-10万人首切り反対闘争であった。
 中曽根内閣は、1983年に国鉄を分割・民営化する方針を打ち出し、以降、嵐のような組合破壊攻撃が吹き荒れた。
 この攻撃の激しさは、国鉄の最大組合であった国労が、1983年から民営化が強行された1987年までのわずか4年間で、224,000人から44,000人まで減少したこと、同じ間に130,000人の国鉄労働者が職場を追われたことに示されている。
 また中曽根首相は、全日本労働組合総評議会を潰すために国鉄労働運動を潰すこと、そして改憲・戦争国家への転換が民営化の目的だったと後に公言した。この攻撃は、民営化によって十数万人の国鉄労働者を解雇し、その権利を破壊するだけでなく、労働運動を解体するために仕組まれた国家的不当労働行為であった。

 激しい攻撃のなかで労働組合の対応は、民営化反対:動労千葉・国労・全動労、民営化推進:動労本部・鉄労と二つに割れた。とくに動労本部は最悪の組合破壊の手先となった。(民営化推進派の組合は、後に解散-統合して現在のJR総連となった)
 また、国鉄分割・民営化に反対した国労も、1986年の大会で、民営化に妥協する方針を提起・決定し、組合員の激しい怒りの声によって、3ヵ月後の臨時大会でこの妥協方針が覆される等の動揺のなかで、ぼう大な脱退者が続出し、組織が分裂して闘いを構えることができなかった。

 われわれは国鉄分割・民営化攻撃との闘いは、全ての労働者の未来と労働運動の存亡をかけた闘いであることを訴え、家族を含めた討論を重ねるなかから、1985年11月第一波スト、1986年2月第二波ストを中心とした組織をあげた闘いに起ちあがった。
 この闘いは、全国に大きな波紋を広げた。われわれは、意図的な政府発表やマスコミの報道によって隠されてきた国鉄分割・民営化攻撃の本質を、この闘いによって初めて社会問題化することができたと考えている。また攻撃は当初から妥協の余地のないものであったが、そうである以上犠牲を恐れずに闘いぬくことによってしか組合員の団結を守ることができないということが、われわれの基本的な立場であった。
 警察権力はスト拠点職場を1万名の機動隊員で包囲するという弾圧体制をとり、一方 国鉄当局は、第一波ストで20名、第二波ストで8名の組合員を解雇し、さらにこのストライキに対し約300,000ドルの損害賠償訴訟を起こすなど、これまでに前例のない激しい 攻撃をしかけた。また、1987年の国鉄の民営化の時点でも、このストライキ時に停職処分を受けたことを理由にさらに12名の組合員が、民営化された新会社=JRへの採用を拒否された。しかしわれわれは、組合員が毅然とした闘いを貫いたがゆえに、団結を維持したまま民営化されたJRにのり込んで、さらに闘いを継続することに成功した。なお、このストライキは、国鉄分割・民営化に反対した国鉄労働者の唯一のストライキであった。

国鉄分割・民営化から23年の闘い

1989年4月13日
長期波状ストライキ
4・13幕張拠点スト

 1987年に、国鉄は民営化され、六つのJR旅客地域会社と一つのJR貨物会社に分割された。
JRでの新たな闘いは、次の4つの課題をもって開始された。
① 国鉄分割・民営化によって解雇された仲間たちの解雇撤回の闘い
② 多くの組合員の強制配転、拠点職場の廃止等、激しい組合破壊攻撃との闘い
③ 極限的な人員削減によって荒廃した職場での反合理化・列車の安全運行確立の闘い
④ 国鉄の民営化と平行して進んだ政治反動、軍事大国化に反対し、労働運動の再生をめざす闘い

 JRでの闘いは、1988年5月、組合破壊のために運転士から駅売店やファーストフード店などへ強制配転された組合員の職場復帰を求める断続的なストライキをもって開始された。組合破壊攻撃粉砕の闘いは、1995年のわれわれの拠点であった勝浦運転区廃止攻撃に対する72時間スト、組合破壊攻撃を未然に封じ込めるための、1996年以降の恒常的スト体制の確立、1997年の佐倉機関区廃止攻撃粉砕闘争、2003年12月の習志野電車区廃止反対スト、国鉄分割・民営化以来強制配転されたままの状態に置かれてきた組合員の職場復帰を実現した04年の16日間にわたるストライキなどを焦点として、永続的に闘いぬかれている。
そしてついに、動労千葉の闘いの前進に追い詰められたJR東日本は、館山運転区・木更津支区という動労千葉の二つの拠点職場(支部)を廃止して、組合の団結を破壊し組合そのものを根絶するという国鉄分割・民営化以来最大の攻撃をかけてきた。06年7月から廃止のタイムリミットとされた07年3月までの9ヶ月間、我々は組織の総力を挙げた闘いを貫徹した。館山・木更津に両支部の組合員を先頭に、街頭宣伝、地区集会、JR東日本抗議行動、3日間のストライキをもってこの大攻撃を粉砕し、団結を打ちかためつつ日々勝利している。

1997年3月27日
公労法解雇28名全員の解雇撤回勝ち取る
第24回動労千葉臨時大会

 動労千葉は、2007年9月の定期大会で、「国鉄分割民営化攻撃以降20年の大攻防に勝利したと総括できる地平に立った」と宣言した。この攻撃の狙いであった国鉄労働運動根絶攻撃を打ち砕き、団結を固めて闘いぬいている。そして国鉄分割民営化の矛盾が噴出し、以下の点で破綻が露わになっている。一つは安全問題、二つ目は要員問題そして三つ目はJR資本とJR総連革マルの結託体制である。動労千葉葉、この三つの矛盾を徹底的に突きまくり、分割民営化粉砕の第二次国鉄決戦に全面的に突入している。

 反合理化・列車の安全運行確立の闘い

 反合理化・列車の安全運行確立の闘いは、1988年12月に起きた列車衝突による運転士の死亡事故(JRが輸送混乱を防ぐために停止信号を無視しろという違法な指示を行なったために発生した)一周年を期した抗議ストを皮切りに、1991年の運転士の労働強化反対闘争、毎年のダイヤ改正での労働強化反対闘争、車両検査修繕業務(幕張車輌センター)の全面的な外注化を阻止している。2002~2010年にまたがる断続的なストライキ、非協力闘争等を今日まで闘いぬいている。

安全崩壊!
国鉄分割・民営化こそ、尼崎事故の真の原因だ
そして責任の半分はJR資本と闘わない労働組合にある

 JRでは、2004年以降、線路破断が頻発するなど、民営化、規制緩和、外注化の結果として、「安全崩壊」は深刻な状況にあり、この4年余りのわれわれの最大の課題は、抜本的な安全対策の実施、民営化・規制緩和政策の抜本的見直しを求める闘いとなっている。
 こうした状況のなかで、2005年4月25日に、JR西日本の尼崎駅近くで、107名の乗客・乗員の生命を奪う列車転覆事故が発生した。これは、国鉄分割・民営化という犯罪的政策がもたらした大惨事であった。

 動労千葉は、この事故を重く受けとめて、2005年5月25日より危険箇所の速度ダウン等の安全運転闘争に突入した。JR東日本はこれを「違法行為」「違法争議」として、運転台に管理者を添乗させて監視・恫喝し、不当処分を発令するなど、闘いを圧殺しようとしたが、3ヵ月余りの闘いを貫徹し、前例のない規模のレール交換を実施させ、危険箇所には速度を照査して自動的にブレーキをかける安全装置を設置させるなど、大きな成果を実現した。

 しかしながら、この尼崎事故から1年もたたない2005年12月27日、JR東日本の羽越線で、またしても5名の命を奪う転覆事故が発生した。そして2006年に入り1月7日そして11月19日と、動労千葉が運転を担当する総武線で、またしてもレールの完全破断が発生した。実に4年連続のレール破断である。踵を接するように1月24日には、JR西日本の伯備線で、保線工事の際の見張りの人数を削減するという安全無視によって、3人の国鉄労働者がひき殺された。
 動労千葉はこのような事態に抗して、2006年3月10日より06春闘・反合運転保安闘争に立ち上がった。列車の減速闘争と72時間ストライキというこの動労千葉の闘いに、JR東日本は激甚に反応し、膨大な数の管理職を動員し、運転席に送り込み監視と恫喝を行ない、不当処分を乱発した。
 そして、2006年4月6日幕張車輌センターで、動労千葉組合員の運転する列車の脱線事故が発生した。懲戒解雇を叫びたてる当局に対し、動労千葉は直ちに、事故の一切の責任は、安全対策を置き去りにし、放置してきた当局にあることを事実をもって突きつけ、解雇した場合には全組合員が直ちにストライキに突入することを通告し闘いに立った。解雇を含む重処分の策動を、全組合員の団結をもって跳ね返していった。JR東日本は事故より6ヵ月近くも経過した9月29日、出勤停止15日の処分を発令した。しかし我々は、当局の不当解雇を跳ね返して、この闘いに勝利したと総括している。
 また、JR資本は尼崎事故の一切の責任を運転士にかぶせ開き直っており、安全の崩壊は極めて深刻である。この点を踏まえ、2008年4月26日、2009年4月25日、規制緩和・民営化と真っ向から対決し、事故を徹底弾劾する尼崎現地闘争を闘い抜いた。そして2010年4月25日、検修業務の全面外注化攻撃を打ち返すべく、3度目の現地闘争を闘い抜く。

第2の分割・民営化攻撃との闘い

 2000年に始まった外注化攻撃は、1987年に強行された国鉄分割・民営化攻撃の惨憺たる破綻の中で、このJR体制(民営化体制)の根本的再編ともいうべき攻撃に行きつかんとしている。JR7社を数百の子会社・孫会社に分割し、外注化を極限的に推し進める「第2の分割・民営化」ともいうべき大攻撃である。
 労働者をこの数百の企業にバラバラに分断し、団結を破壊する攻撃である。非正規職化を推し進め、賃下げと労働強化を意のままに強行しようというのだ。そして何よりもこの攻撃の照準は、動労千葉の破壊に合わされている。JR資本は、この大攻撃を2010年4月1日付で強行しようとしている。
 動労千葉は、この第2の分割・民営化攻撃に対し、1047名解雇撤回、全面外注化阻止、反合理化・運転保安確立を掲げて2月1日~2日に第1波ストを打ち抜き、さらに3月1日~2日の第2波ストライキに立ち上がった。


2010年2月1日 幕張車両センタースト

1047名解雇撤回の闘い

 国鉄分割・民営化により解雇された仲間たちの解雇撤回に向けた闘いは、1990年1月-3月のストライキを出発点として、ほぼ毎年のストライキ、大衆的抗議行動、労働委員会や裁判闘争等を闘いぬくなかで、1997年に、国鉄の分割・民営化に反対した第一波スト、第二波ストに対する報復とし解雇された28名全員の解雇を撤回させる大きな勝利をかちとった。
 しかしJR東日本は、この過程でも、1990年3月18日から21日に渡って闘われたストライキに対して、事前に組合事務所を封鎖するなどの攻撃を加え、われわれがこれに対抗してスト突入時間を当初の予定より繰り上げたところ、それを「違法スト」だとして、組合に対して1800万円余りの損害賠償訴訟を起こすなどの攻撃を行なっている。
 現在は、国鉄の民営化が強行された際に新会社JRへの採用を拒否されて解雇された組合員(動労千葉、国労、全動労)1047名の解雇撤回の闘いが今もなお継続している。しかしながら今、この解雇撤回の原則を投げ捨て、資本との闘いを一切放棄して、政府に和解を要請する「政治解決」路線が再び浮上してきた。
 2009~2010年、1047名闘争は、決定的な危機をむかえている。解雇撤回を投げ捨て「政治解決」を標榜する「4者・4団体」(注)路線派は、解雇撤回を堅持しているからとの理由で、「1047名解雇撤回・団結まつり」からも動労千葉を排除するという断じて許しがたい行動に走った。
そして今2010年の春、鳩山=連合政権の1047名闘争回解体攻撃の前に頭を垂れようとしている。動労千葉は、あくまでも原則を堅持し、1047名の団結を基礎に解雇撤回に向け新たな闘いを創り上げていく決意だ。
(注)
4者:国労闘争団全国連絡会議/鉄建公団訴訟原告団/鉄道運輸機構訴訟原告団/全動労争議団・鉄道運輸機構訴訟原告団
4団体:国鉄労働組合/全日本建設交運一般労働組合/国鉄闘争支援中央共闘会議/国鉄闘争共闘会議

2003年11月9日
動労千葉、関西生コン、港合同の3労組共闘の11・9国際連帯集会で日比谷野音からデモに起つ日米韓労組の代表

 たたかう労働運動の再生をめざす闘い

 さらにわれわれは、戦争と軍事大国化、雇用や賃金・権利・社会保障制度の破壊に反対し、労働運動の再生をめざす闘いに全力を傾注している。
 1989年に、総評が解体され、労働運動のナショナルセンターが政府や資本と一体化し、反動的組織=連合に変質させられる状況のなかで、連合内からランク&ファイル運動を巻き起こすべく労働組合活動家集団=全国労働組合交流センターが、動労千葉の呼びかけで結成された。全国労組交流センターは、「反連合・反全労連」、「自立、自闘、連帯」を掲げ、労働組合の再生を目指す労組活動家の戦闘的フラクションとして、職場・地域に闘う労組をつくりだし、反戦・政治闘争を際先頭で荷って奮闘している。1991年には、湾岸戦争以降戦争の危機が現実化する情勢のなかで、反戦共同行動委員会を結成した。
また、1998年には、全日建関西生コン、全国金属機械港合同という、現在も最も原則的かつ戦闘的な労働運動を闘いぬく二つの労働組合とともに、「闘う労働組合の全国ネットワーク」を呼びかけて、闘いを続けている。この取り組みは、2003年以降、アメリカからILWUローカル10、ローカル34、AMFA代表、韓国から民主労総ソウル本部を招いた日・米・韓の国際連帯集会に発展し、労働運動全体に大きなインパクトを与えている。
 2008年は、11月2日に開催し5700名の参加を勝ち取った。アメリカからは、5・1メーデー・ストライキを打ち抜いたILWUローカル10、34およびUTLA代表、そして民主労総ソウル本部からは42名の大代表団を迎えて、世界大金融恐慌情勢に立ち向かう国際陣形の形成に成功した。
 昨年2009年は、11月1日に5850名の結集を勝ち取った。アメリカからはILWUローカル10とUTLA、ブラジルからはConlutasの初参加、ドイツからは戦闘的ジャーナリストの参加そして民主労総ソウル本部からは47名の大代表団の参加を得て、国際連帯の深化と拡大の端緒を開くことが出来た。

 動労千葉は、イラク開戦から1週間後の2003年3月27日、世界の労働者との連帯の思いを込めて、イラク戦争反対、有事立法制定阻止、労働法制改悪(全労働者を不安定雇用化し、解雇の自由を法制化するもの)阻止を掲げてストライキに突入、30日まで90時間にわたる闘いを貫徹した。
 また2004年春闘にも、三波にわたるストライキに起ちあがり、日本におけるこの間のイラク戦争反対―有事立法制定反対の闘いの最も中心的な役割を果たした陸・海・空・港湾労組20団体などとともに、イラク開戦1年の国際反戦行動を訴え、1989年に総評が解散に追い込まれ、連合結成以来はじめてナショナルセンターの枠をこえた大統一行動が実現した。
 そして2010年3月20日、青年労働者・学生を中心として、イラク反戦7周年全世界一斉デモに合流し、戦争と大失業のオバマ・鳩山政権を打倒する闘いに立つ。

 労働組合が歴史の最前線に

2006年9月26日、極右反動の安倍政権が誕生した。戦後初めて改憲を公約に掲げた侵略戦争への突撃政権であり、秋の臨時国会で教育基本法の改悪を強行した。また、2006年10月9日の北朝鮮政府による地下核実験を奇貨として、排外主義・国家主義を激しく煽り、核武装も公言しつつ、これらの重大な戦争政策を推し進めんとした。
しかし労働者の団結の何たるかを知らない安倍は本質的に脆弱だった。2007年7月の参議院選挙で、自民党は労働者の怒りの中で惨敗し、安倍は辞任に追い込まれた。次いで登場した福田政権も、2008年9月、自ら政権を放り投げた。1年以内に2度も自ら政権を放棄するという自民党支配の崩壊が進行している。これは新自由主義攻撃の矛盾の噴出であり破綻である。今こそ、麻生政権もろとも資本主義を打ち倒す闘いの最前線に、労働組合が登場する時である。
 教育労働者を中心とした闘いは、2006年9月21日、「日の君」強制を憲法・教育基本法違反とする画期的判決を引き出し、ついに2008年3月31日、「日の丸・君が代」に不起立で闘う根津公子さんを、都教委の解雇攻撃から守りぬいた。そして青年労働者・学生を中心として、「労働運動の力で革命をやろう」をスローガンとして2007年3月18日、6月9日、2008年3月18日の集会が成功している。2008年7月G8強盗サミットは、厳戒態勢を打ち破る労働者・学生の戦闘的デモで迎え撃たれた。さらには、郵政や国・地方自治体業務の大規模な民営化に反対する職場・生産点での闘いが始まっている。
 2009年、世界金融恐慌情勢のまっただ中で、大失業と戦争の危機が深まっている。そして世界の労働者は怒りに燃えて、ゼネスト、デモに数10万、数100万の規模で立ち上がっている。日本では8月30日、労働者人民の力でついに自民党政権が打倒された。労働組合が歴史の最前線に登場するときがきた。動労千葉は最先頭で闘う。

2010年2月

動労千葉結成30周年ギャラリー

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