一発のストライキが流れを大きく変えてしまうということが労働運動や人民の闘いの中でしばしばおこる。
一九八九年十二月五日の二四時間ストライキ決起がそれであった。
清算事業団の時限立法の期限切れが刻一刻とぜまり、全国で約千五百名、動労千葉十二名の清算事業団の仲間は三年間の屈辱と怨念をかけて、ここ一番反撃にたつ決意が日増しに高まってゆく。だが清算事業団闘争の最大の当事者たる国労中央は、とりまく主客の有利な情勢を活用しきってJR本体と清算事業団を貫く総力戦を展開する方針を出しえず、日一日が無駄に費やされていた。
他方、JR総連革マルは、「無駄飯食いの清算事業団の首を切れ」と一段とオクターブを上げ露骨に敵対を強めている。“情勢”は待ったなしである。
まさに、そうした“沸騰点”で動労千葉は決断した。十二・五東中野駅事故から一周年、「分割・民営化」強行以降初の列車を停めるストライキへ真一文字に突きすすむのである。
清算事業団の仲間を先頭に、JR本体の組合員、そして争議団となって闘っている被解雇者が心をひとつにして、大きな課題にたちむかった。
いよいよ、専制的「JR体制」への反撃の開始である。
「我々国鉄労働者にとって、現在の攻防局面がいかなるものかはっきりとつかまなければなりません。 十二月五日のスト、一月一八日のストと一ヶ月ごとにストライキをやった。二~三年前には考えられないようなことがやりぬけたことは、やれる情勢が到来したことであって、われわれがストをやりたいからやったわけではない。ストを打つということは簡単なことではない。スト権があろうが無かろうが大変なんです。 それがやれたということは、客観的に機が熟してきたそういう情勢なり条件が到来したということなんです。」
少し引用が長くなったがこれは、第一波十二・五、第二波一・一八ストを闘いぬいた直後の一月二七日、動労千葉労働学校での中野委員長の講演の一部である。委員長のこの日の講演は二時間余の持ち時間を一息も入れず、熱っぽく一挙に語り尽し、出席者をして「きょうの委員長はずい分気合いが入っているなあ」と言わせしめたほどである。JR体制以降の最初の乗務員のストライキにどれだけの神経と精力を注いだか、よくうかがえる一例である。
動労千葉は、「分割・民営化」決戦(一九八五年十一月から)で二八名の役員・活動家が首を切られ、十二名の仲間が清算事業団に送りこまれた。総数四十名の中心的担い手が職場から切りとられたのである。文字通り満身創痍での出発であった。そこに追いうちをかけるように約百名の仲間が強制配転で運転職場を追われる。
だが、組合員は決してあきらめたりはしなかった。敗け犬になり、当局やJR総連に尾をふり、生きのびようとする奴隷の道をキッパリと拒否し、反撃の機をじっと待ち、時には売店や地上勤務の仲間たちのストを組織の総力戦で一つ一つ戦いとり、その中から列車を停める本格的ストライキヘの態勢を創りあげてきた。むしろ、九〇年、清算事業団決戦を何が何んでも闘いとるという目標から逆規定し、三年間、職場での抵抗を「本番」として構え、闘いながら組織の足腰を鍛えてきたといっても間違いではない。そうした積み重ねのうえに十二・、五ストはかちとられたのである。
「二、三年前には考えられなかったストをやりぬけた」という委員長の感概無量の気持は、組合員みんなの気持なのである。
腹をすえて 全員ろう城
89年 12・5スト
十二月五日、時計の針が零時をまわると、スト拠点の津田沼、千葉転、木更津、館山、勝浦、銚子支部がそれぞれ確保したろう城先の電話が一斉に鳴った。本部からのスト突入指令である。
津田沼支部でも前夜の総決起集会や抗議行動を闘い、組合事務所でのろう城部隊以外の全員がろう城先に集結し、部屋は騒然としていた。しかし、電話が鳴った瞬間、うそのように静かになる。派遣執行委員のAさんが「ハイ、わかりました。零時から二四時間ですね」という会話に一点集中しているのだ。
派遣執行委員のAさんは電話をきるなり皆んなに向って「そういうわけですから」とサらりと指令を“伝達”。部屋中からドッと笑いが巻きおこる。中には「Aさん手抜きするなよ」などという冗談もとびかい、また元の喧騒としたむせかえるような状態に戻るのである。なかには、誰に指示されたわけではないのにタバコの吸いがらをかたづける者、明日の食事に気を配る者など、ろう城ならではの“秩序”と献身性が如何なく発揮されている。深夜一時、二時になっても部屋の片すみに積まれた貸し布団に手をつける者はいない、ワイワイ、ガヤガヤ、時には高笑いといった活気が部屋に満ちあふれているのである。勿論、だからといって“武装解除したり「対当局や権力との関係を甘くみているわけでは決してない。時おりパトカーが電気を消して巡回してくる、当局の動員者も消耗しきった顔で三、四人が組みになって偵察にくる、このような時には即座に緊張し、身構えているなかに、油断とかスキといったものは見られない。選抜し、支部組合事務所にたてこもり、敵の包囲の中で闘っている仲間と完全に一体なのである。
津田沼以外の拠点の前夜もほぼ同様にたたかいがすすめられていったことが報告されている。
組合員が一旦腹をすえ、一丸となってストに突入したとき、その時点であらかた勝負が決せられたといって決して過言ではない。
そのあたりを、最も攻防戦が激しかった千葉転の役員に聞いてみた。
ストの準備期間も短かったし、色々大変だったと思いますが。
O君、「はっきり言って無我無中でやったということだね。千葉転は、分割・民営化決戦で永田支部長以下ほとんどの役員が解雇され、五人の先輩や仲間が事業団に送られた。その後、しばらくの間、執行体制も十分に出来ない、それをいいことにして、当局や極一部のJR総連の連中はデカイ顔をしている。とにかく何んとかしなければ、ということで若手を中心に必死で体制をつくってきた。その後も一進一退の状態がつづいていたけど先輩が一生懸命支えてくれたので、ここまでやってこれた。そういう状況の中で十二・五ストが指令されたわけです。本当に真剣勝負だったな」
H君「ストのやり方、ろう城の場所づくりから、食事の手配など、全てが初めての経験といっていいわけだから必死だった。こんなに真剣になにかをやったどいうのは初めてじゃないかな。
だから、細かい事は、ほとんど記憶に残っていない。ただ、俺たちの職場に東日本の当局の動員者が我がもの顔で入ってきて「お前ら出ていけ」といった態度には頭にきた。あの時の怒りは絶対忘れない。
それと、ろう城について、場所を貸してくれたところで、「ガンばってな」と激励されたことも強く心にのこっている。じ一んときたね」
A君「ストの「指令」が下りたのが、確か四、五日前だった。時間が少ない中で全乗務員をオルグしたり体制をつくるということで、十分に寝る暇もなかった。永田さんや何人かの解雇者も応援にかけつけてくれて本当に助かったよ。心配もあったけど思っていたより皆んな協力してくれ、どんどん体制がつくられていった。普段あまり協力的でない人もいざとなると、一生懸命やってくれ、仲間意識の強さを感じた。」
オルグで苦労した点は何んですか。
H君「分割・民営化決戦と、その後の処分のイメージがだいぶ残っていて、それをどうのりこえるかが苦労した点です。「スト権があるから」といっても、すぐに『ハイそうですか』、とはいかないわけですから」
O君「確かにスト後処分ということがまず頭にのぼるわけで、特に処分ばっかり受けてきた四〇代の人は最初は口が重かった。だけど、前に営業や検修で何度かストライキをやってきたわけで、その辺も含めて話し合う中から全体がやる気になっていった。
そうすると、普段仕事もきついし、当局もエバッテル「ヨシ、それじゃ一発ここでやるか」というムードが急速に盛り上がったように思う。」
A君「JR総連は問題外としても『国労はどうする』という質問もかなり出てた。こうした意見を受けて、支部長(当時は繁沢支部長)が分会に“共闘”の申し入れをやった。分会の組合員もだいぶ盛りあがってはいたけど、分割・民営化決戦のときのことがあるから皆んな心配したのは当然だったと思うよ。」
最後に「特に印象にのこったこと」についてうかがったら三人とも「一から十まで初めての経験だったけど、全組合員が本当によくやってくれた。百%全員がストに入ったとき、涙が出るほどうれしかった」という同様の感想がのべられた。
敵の手の内見たり スト破りに弾劾の嵐
十二月早朝の外は、さすがに寒い。まだ夜も明けきらない四時頃になると千葉運転区前には、白い息を吐きながら、ポケットに手をつっこんだ組合員が続々と結集しはじめている。当局・JR総連どもによるスト破り弾劾行動だ。
組合員は、時をおかず、,鉄の門をはさんで東日本全体からかき集められた課員どもに激しい弾劾をたたきつける。
間もなくして現地闘争派遣の責任者である布施副委員長が顔を出し、結集している組合員にむかって「十二.五ストは千葉転をはじめとする全乗務員と一の宮、鴨川、館山の各派出の全組合員が敢然とストに突入した。東中野駅事故一周年にしてついに運転保安確立をかかげストに起ったこの闘いは、差別、選別を欲しいままにしてきたJR体制の専制支配をぶち破る決定的な第一弾であり、清算事業団決戦の開始の闘いである。最後までやりきろう」と高らかに宣言。
組合員の志気も一挙に高まっていった。組合員のどの顔も晴ればれとしている。
当初、当局やJR総連は「千葉労になにができる、ストでもなんでもやれるものならやってみろ」と見くびった態度をとっていた。ところが、動労千葉が一旦決断し、全支部で見る見るうちに闘争体制が築かれてゆく様を目の前にすると、今度は”理性”も何もかもかなぐり捨てて弾圧体制を敷きはじめる。当局はなんと! 革マルの“弾圧とスト破りの要請”を全面的に受け入れ、東日本の根こそぎ動員と警察機動隊の配置を行ない、それを背景にして違法、不当なスト破りに乗りだした。
スト当日の年休に対し時期変更権を行使し、他組合の公休、特休者に対し業務命令を乱発し、勤務指定してくる。
このあからさまなスト破り強要に千葉転、津田沼の国労組合員は激しく抵抗していく。
国労中央の指導放棄の中で、組合員が当局の前に裸で投げ出されるという、八五年の分割・民営化決戦と同じような裏切りが又々再現されようとしていた。こうした厳しい状況の中で、国労組合員一人一人に決断がつきつけられてゆく。
分会長や地本との真剣な激論が、動労千葉組合員がかたずをのんで見守る中で、延々と続けられている。
「指導部は何度裏切れば気がすむのだ」「事業団の仲間を見捨る気か」という叫びにも似た訴えは、普段同じ釜の飯を食べている動労千葉の組合員の胸にもビンビン響くものがある。
しかし、こうした現場組合員の叫びに応える指導は、ついに下されなかった。こうしたギリギリの状態の中から千葉転で二名、津田沼で二名の仲間が意を決して、あえて、動労千葉に結集し、即座にストに突入していったのである。
結集したA君は、「私は、十二・五で犠牲になった平野君の同期である。その私が十二・五の一周年のストライキでスト破りをやることなど到底できない」と切々と語り。
B君は、
「今ここで闘わなくて清算事業団闘争をいつやるというのか、国労指導部は北海道や九州、本州の仲間の悲痛な叫びに応える気がない。絶対に許せない。動労千葉に入り共に闘う」
と訴え、その場に居合せた多くの組合員の感動をよんだ。中年の組合員の中には涙をぬぐう者さえいた。このニュースは、本部から全支部に伝えられていったのである。勇気をこめて決起した四名の仲間を迎え入れ、スクラムにも一段と力が入ってゆく。
燃えに燃えている組合員の情熱は、それに比例してスト破りへの激しい怒りとなっていったのはいうまでもない。全運転区前で、あるいは、出先の駅で、スト破り、JR総連への激しい追及が展開されてゆく。恐怖した千葉支社は、スト破り運転士一人を何人もでガードし「防衛」にやっきになった。スト破り乗務員はうなだれ、不安と後めたさで顔面蒼白、ふらつく足でやっと電車にたどりつく。千葉駅で糾弾していた組合員の間から「あれで運転できるのかなあ」といった“心配”の声さえでるほどである。とどのつまり、当局の動員者が運転台に同乗し、弾劾の嵐の中、ようやく一番列車は出ていった。
おおかたは、ストライキをやっても列車が動けば無力感とか絶望感におそわれるものだが、今回に限ってはそうした雰囲気は感じられない。そこのところを組合員に聞いてみると、「今回はまず最初のストだ、当局の出方、手の内を十分見た、というか見ぬけたというだけでも成果だ」という感想がかえってきた。
そうこうしているうちに組合員から「革マルの海宝(東鉄労地本書記長)と永島(千葉転)が当局の現認者に動労千葉の組合員の氏名を教えている」という情報が伝えられ、怒り猛った組合員が、2人が居るという場所に駆けつけた。 なんとそこには当局の動員者や私服に護られながら、ヒキツつた顔に、むりしてつくったうす笑を浮かべながら、震える手でメモをとっている海宝、永島が居るではないか。
組合員の怒りは一挙にのぼりつめる。「スト破り革マルは許さないぞ」「警察、当局の手先は出てゆけ」と何度もシュプレヒコールがたたきつけられた。それを遠まきにしてじっと見守っていた乗客の間からも「がんばれよ」といった声援もおくられている。
午前中の弾劾行動を終了し、意気揚々と待機場所に引き上げてきた組合員の耳に「東中野事故の原因究明を求めて」「民営化後初のストライキ」「十万人の足に影響」といったテレビニュースが入ってきた。ニュースでも十二・五ストの意味と影響の大さが強調されており、組合員も改めて自らの決起の大きさを、確認していったのである。
十二・五ストライキを各拠点で闘った組合員は、次のように感想を述べている。
(銚子支部)Sさんは、
「やりきったという解放感でいっぱいである。同時に労働者としてもっとも恥かしいスト破りを買って出たJR総連への怒りはすさまじいものを感じる。このストから得た確信を土台に何度でもストライキに起つ決意が固まったようにおもう。」
(館山支部)笹生支部長は
「ストの興奮が醒めやらぬ六日に支部大会を開催し、大成功をかちとった。出席した組合員の顔は誰れもが晴ればれとし、自信に満ちていた。実力でストをうちぬいた成果の大きさを感じる。」
(木更津支部)の通信員は、
「スト前夜から職場を守りぬき整然と全乗務員がストに突入。久留里線関係は100%列車を止めた。この闘いは九〇年の清算事業団決戦の突破口をこじあけたと言いきれる。」
(勝浦支部)Hさんは、
「スト対象者を先頭に全組合員と事業団、強制配転された仲間が一同に結集し闘いぬいた。JR以降初の運転ストということで多少のとまどいもあったが、不安を吹きとばし貫徹する。.館山ー鴨川間は完全ストップ、外房線も特急列車をはじめ七〇本を運休においこんだ。役員についても、やる気でやれば俺にも出来るという自信がもてたことは大きい。」
(
千葉転)の仲間は
「機動隊まで出てくる中で全力で闘った。俺たちのストが国労の仲間もゆり動かし二名が動労千葉に結集した。二名の勇気には頭が下がる思いだ。彼らを全力で守りぬき二波、三波に突きすすみたい。」
(津田沼)浜野支部長は
「この間支部はほとんどの役員が解雇されたり、事業団に送られるという困難な中でがんばってきた。今も支部破壊が襲いかかっているけど、十二・五をやりぬけた力で、今後大いにたたかってゆきたい。」
JR移行後初の十二・五ストライキは、当局の必死のスト破りにもかかわらず、全組合員が一丸となって決起し、実に三百五十本を運休においこんだ。
この闘いによって、激動の九〇年代への“挑戦権”を握りしめることができたのである。
情勢を動かした90年1・18スト
二度もスト破り強制! 怒りをこめ国労と訣別
国労四万の組合員は、動労千葉組合員同様に、国労という唯それだけの理由で何かにつけて差別・選別の仕打ちを受け、「国労にいると新会社に行けないぞ」という国や当局あげての恫喝にさらされながらも膝を折ることなくがんばってきた。 敢えて言って指導部のテイタラクにも拘らずである。
その彼らが、今ここにきて自分の手で国労バッチをはずすということが、どれほど辛く、悲痛なものであるか、闘う労働者なら痛いほどわかるのである。ましては、敵から見れば不倶戴天の敵である動労千葉に結集するというのであればなおさら並大抵のことではない。
周知のとおり、十二・五の第一波ストで四名、一・一八の第二波ストで八名(千葉転で七名、津田沼で一名)の仲間が、十五年、二十年と苦楽を共にしてきた国労と決別し、動労千葉に結集し、即座にストライキに決起していった。
彼らの決起が「国労の中の一握りの例外的分子のハネアガリ」なのでは決してないことは言うまでもない。彼らは、苦闘する全国の仲間にむかって「今、何をなすべきか」を身をもってさし示しているのであり、なによりも彼らをそこまで追いつめておいて、今だ姿勢を改めようとしていない国労指導部を厳しく“告発”しているのだ。
国労指導部に労働者的感性が少しでも残っているというなら、断腸の思いで国労と決別し動労千葉に結集し、決然とストライを貫徹した仲間たちに真正面からむきあい、彼らの“告発”に耳を傾けなければならないだろう。
彼らの決起は、動労千葉の全組合員に百倍の勇気を与え、一.一八ストを見事貫徹する力となり、「清算事業団問題を全社会的問題」へとおしあげることに成功した。動労千葉は、仲間たちの訴えに応え、確信も新たに、いっそうスクラムを固めて、二~三月にすすんだのである。
そうした意味で一・一八ストで新たに結集した千葉転の仲間に、当時の様子や心境について聞いてみた。
『十二・五』それは辛く長い一日だった
A
俺たちが国労の組合員であることを本気で考え、悩み出したのは、動労千葉が「十二・五」で乗務員のストをやると決まってからである。それまでは、管理者もでかい態度をとっていたけど「スト」だと聞いただけで相当あわて出し、五日の乗務員確保に乗り出した。そういうことをキッカケにして、分会も連日、詰所での話し合いに入った。
B
このまま行くと四年前の分割・民営化決戦のときのように俺たちが又スト破りをやらされる。もう二度とあんな事は出来ないというムードが分会全体に広がっていった。支部(動労千葉)の方は、それこそ目の色を変えて準備に全力をあげているし、どうするんだ、どうしたらいいんだ、という焦りで、乗務中もそのことで頭がいっぱいだったよ。
A
それじゃということで、国労としては前から施設でストをやると決まっていたから俺らのところも指名ストに入れてもらおうということで地本に話しをもっていった。ところが地本は「国労は協定で平和条項を結んでるから七二時間前に通告しないとだめだ」というわけよ。そうこうしているうちにも時間がたつわけだから当局も焦りだす。
C
分会も、五日のストの二~三日前ぐらいからそれこそ寝ないで話し合いがつづいた。助役は、夜中でも家に電話してきて「○○仕業に乗ってもらう」「業務命令だ」と言って一方的に電話を切っちゃうとか、点呼のとき出勤時間だけ指示して退庁時間は言わないとか、それはおかしいんじゃないかということで追及しても何も答えないとか、とにかく当直の前は国労組合員で騒然とした状態がつづいた。助役に話してもラチがあかないということで、Aとか何人かの代表が何度も地本に足をはこんだ。
B
そのうち繁沢支部長が「B変の呼び出しに応じないよう協力してくれ」と鉄産労と国労に要請にきた。鉄産労は要請を拒否、俺たちはどうするんだと地本に突きあげたわけ。最初は「(当局に)そんなことはさせない」と大見得を切っていたけど、五日が近づくにつれて地本の返事も曖昧になっていく。とにかく歩いても一〇分もかからないんだから来て説明してくれ」といっても結局一度も来なかった。頭に血がのぼったな。
A
俺としては、当初国労は修善寺大会で“脱皮”したんだから少なくともスト破りだけは組織で拒否すると思っていた。しかし、地本も、本部も、俺たちの言い分に応えてくれなかった。国労で十五年闘ってきたわけだけど、こんなにみじめな気持になったのは、はじめてだった。こういう状況の中で二人の仲間が地本に抗議し、その場で脱退し、動労千葉に行ってしまった。俺としては、二人の気持は本当によくわかったが残った。国労も次はストライキをやると自分色言いきかせ、やっとの思いでとどまったというのが正直なところだ。
B
Aとほぼ同じ気持だった。当日(「十二・五」)は、動労千葉の仲間の顔をまともに見られなかったし、なにか目の前がまつ白になったような感じだった。一日がほんとうに長かったのを、今でも忘れない。
二度とスト破りは出来ない
A
俺たちは、「十二・五」スト以降、仲間と何度も話し合いをもった。ぶざまなスト破りはもう絶対出来ないし、来年は清算事業団の決戦の年なんだから、今度のストライキでは必らず指令を下させようじゃないか、ということで行動をおこしていった。
C
十二月一五日、拡大地.方委員会が開かれ、何人かでそれにおしかけた。それこそ、声がかれてしまうほど「十二・五」での本部の無責任というか指導放棄を批判した。他からも相当激しいヤジが出ていた。そういう雰囲気に動かされてか樫村東日本委員長は「当局のスト破りに抗議しなければならない」と発言。もっとも樫村委員長は、いつも言うことは、カッコいいことを言うけどね。その時はそれで一応おさまり帰ってきた。
B
十二・五ストの後、組合不信というか、幹部不信が、蔓延していった。それは、そうなんだよ、みんな国労だということで処分くったり、色々いじめられてきた。当局に頭にきているし、間違ってもJR総連や鉄産労と同じように見られたくないということでフンバッてきたんだから。それを、本部や地本はスト破りを“強制”したんだから、怒るのも当然だよな。
C
「処分をくってもいいし、『犠救』もいらないから指名ストに入れてくれ」とまで言って頼みこんだのにそれも通じなかった。
A
十二月中旬になって、国労は来年一月一八日ストライキをやるということが決まり、さっそく分会で執行委員会を開いた(十二月二八日)
年の瀬ということだったけど、ほとんどが出席し、清算事業団組合員の雇用確保の実現に向けて全力でがんばることを確認し、二波、三波のストライキでは千葉転分会を拠点に組み入れるよう地本に要望書を出すことが二つ返事で決まり、さっそく提出した。みんな「ヨーシ、今度こそ」と、はりきって年を越したわけだ。
いよいよ決戦の九〇年
A
年が明け俺としては、「いよいよ闘いの年を迎えた」という気持で、ずいぶん気合が入っていた。一月八日、地本は拡大分会長会議を開くというので数人で傍聴にいった。動労千葉も一・一八にストに入ることが予想されていたので、そこでどういう戦術が出されるのか、気や気でなかった。
A
拠点や戦術の説明を聞いていて途中から頭に血がのぼったな。要するに国電、新幹線、主要幹線の乗務員は二~三月ストに入る予定ということで千葉転もはずされていたからだ。
C
いっせいに質問や抗議が殺到した。「動労千葉がストに入るときは千葉転、津田沼はストに入れろ」「十二・五で脱退者まで出ている、どう責任とるんだ」など激しいつき上げがつづいた。
B
このままでは又「十二・五」と同じ状況になってしまうという危機感から「組織防衛のためにもスト拠点に入れて欲しい」と必死で訴えた。はっきり言って、祈る気持だった。しかし、背広にネクタイの地本幹部は何も答えない。ヤジの中には「お前ら、当局と同じじゃねえか」「JR総連にでも行け」とどなりつける傍聴者もいたよ。
C
この日発言したのは、確か、千葉転と津田沼からだけだった。普段は「俺は共産主義者だ」「協会派だ」とエラそうな顔をしている連中も、いよいよ清算事業団の決戦だというこのときになったら、下を向いて黙っている。やつらを見て、頭にきたというより、なさけなくなってしまった。
A
会議は、何度も同じことをくり返し、しまいには「しょうがなく」地本は「スト拠点」は入らないが、特休・公休呼び出し、B変については当局と交渉し、労働者の権利を主張する」と答え、時間切れで職場に戻らざるを得なかった。はっきり言って、地本の答弁に期待はもてなかった。
刻々と『一・一八』がせまる
A
一・一八ストの五日前(十三日)、時間が刻々とせまる中で、運転代表者会議が地本会議室で開かれた。千葉転から勤務者以外全員と、津田沼、銚子運転区両分会からも多数の組合員が傍聴につめかけた。会議は最初から殺気だっている。そういう中で、主に千葉転から「処分をくってもいい、「犠救」もいらない」「スト破りだけはさせないでくれ」と年配の組合員も含め、全員が本当に必死で何度も何度も訴え、詰め寄った。だけど、結局平行線のまま朝をむかえてしまった。
C
怒った組合員が「こんなことでは組織はつぶれてしまうぞ」「事業団の仲間を見殺しにするのか」という問いかけにも役員全員、首をタテにもヨコにもふらないという俺の一番嫌いな態度に終始、本当にムカーときた。中にはがまんできなくなって机をひっくりかえす者も出る始末だった。それでも無表情の執行部を見て、俺は「あ~、これが俺たちの国労なんか!」と、全身の力がぬけるようだった。
信義も断たれ
B
時間切れで朝になってしまった。これじゃ話にならないということで、代表十六名が東日本本部におしかける。
K
執行委員が対応に出たので地本から一緒に行った役員の三者で話し合い、三点について確認した。
一つは、本部方針でやる。交渉が進まないときは二~三月ストを拡大する。
二点として、特休、公休の呼び出しは拒否する。会社が変更する場合は指名ストに入れる。
三点として、安全無視、社会的常識に逸脱する変仕業は地本の判断で指名ストに入れる。
これを一四日に支社に通告する。というので、それじゃということで、はりきって千葉に戻ってきた。
A
ところが、一五日、それを地本に確めるために電話すると、全くふざけたことに、支社にスト通告もしていないし、「指名ストはない」「そんな約束はしていない」っていうんだよな。マジに言ってガックりきた。そのことを皆んなに言うと、もう黙ってしまって何もしゃべらなかった。
B
当局は国労の腰ぬけぶりをいいことにしで片っぱしから呼び出しをかけるという態度に出てきた。俺たちは「いっさい電話に出ないようにしよう」とか色々相談したり悩んでいるうちに一七日、夜をむかえてしまった。ギリギリまで話し合い、地本に「最後」まで訴えつづけたけど、だめだった。十七日の深夜ついに決断、動労千葉に結集した。
A
国労と決別し、動労千葉のろう城先に駆けつけたとき、とめどもなく涙が出てしまった。俺だって、勤めてから一五年間国労のためにと思って一生懸命やってきたつもりだ。いやがらせや差別されながらも国労が好きだったし、正しいと思ったから役員もやってきた。動労千葉のストライキのときだって業務命令で乗せられ、目の前が真暗になりながらも、いざという時は国労も必らずやると信じ、最後まで望みを捨てずにやってきたんだ。
だけど、国労幹部は最後まで応えてくれなかった。一度といわず二度もスト破りを強制してきたんだ。俺たちは、そんなことは出来なかった。
密集するスト圧殺を突破し四八時間ストへ
スト破壊に戦術拡大で反撃
動労千葉は、一~三月過程で、新たな解雇攻撃が切迫する清算事業団問題と、九〇・三ダイ改を焦点として決定的な重大局面をむかえ、組織の総力をあげた闘いぬきに、その後の展望もありえないと判断し、十二・五からまだ一ヶ月も経ていない厳しい条件の中にあったが決断した。全支部は、年明けと同時に二波のストにむかって突進していた。
一・一八ストは、スト中止に動こうとした国労中央の屈服的対応、東京と千葉をスト対象から外し、組合員をスト破りにかりたててしまうというトンデモない誤りを激しくつき動かし、再び敢然と闘いぬかれた。
闘いの正義性と勝利性はこのストライキの渦中で又も八名の仲間が、悩みに悩みぬいて、ドタン場で決断し、動労千葉に加入したことによって、より鮮明となった。犠牲を恐れず、自らの力を信じて闘う者こそが、労働者の心をとらえることを今次闘争は再び証明したのだ。
動労千葉の闘いは、確実に国鉄労働者の心を揺り動かし、二~三月へと真一文字に進んでいったのである。誰しもが、清算事業団の仲間の“苦痛”を思えば「何んのこれしき」という思いをバネにしてである。国労中央による二月スト中止、三月終結、清算事業団の切り捨てという屈服的態度を見てとった敵は、これとばかりに反動を強めてきた。
三月一九日決戦ストを三日後にひかえた三月十六日、社会党田辺委員長による①広域募集をもう一度行なう②JR採用即自主的退職③退職金の上積み、という断じて許せない三項目案なるものが出される。
国労中央も、二月スト頓挫にも見られるように依然として、派閥のせまい利益をおい求め汲汲とし、このドタン場においてさえ“決意”“決断”は見えてこない。だが、現場は燃えに燃えている。こうした動向を見てとり、JR当局、JR総連革マルは一点「動労千葉のストライキを潰せ」と全面的なスト圧殺にのり出した。
津田沼では、電車区を金網のフェンスで囲み、監視ビデオカメラ、サーチライトと刑務所同然の弾圧体制を敷き、他の運転区もそれに準じて、露骨なスト圧殺にのり出している。
本部は、この異常きわまり一ない違法・.不法な対応に何度も申し入れ、抗議をくりかえした。だが、干葉支社は、われわれの当然の要求を足蹴にして、スト前日の十八日の朝から庁舎前にピケを張り、本部、支部役員の職場への立入りすら阻止。津田沼支部においては、なんと組合事務所を鎖するため、囲い込みの「塀」の工事まではじめたのだ。このあまりの異常なやり方を中止させるために、布施副委員長と山口交渉部長が支社にとんでいった。
10時35分・布施副委員長、支社到着。
10時40分・山口交渉部長、支社到着。
直ちに交渉に入る。
「津田沼、千葉転における封鎖と組合員の排除をやめろ」「津田沼組合事務所のフェンス工事作業の中止について電話で申し入れた点を善処しなければ、十二時以降、各支部でストに入らざるを得ない。
当局・検討する時間をかしてほしい。
組合・千葉転の運転士の指名ストを考えている。十一時十五分までに結論を出されたい。
11時10分
当局・相談したが、課長レベルでは、判断できない。
組合・課長で判断出来ないなら部長を出せ、無責任だ。
当局・部長の所在は、つかめない。
組合・支社長は?
当局・今はつかめない。
組合・そんな無責任な話はあるか。千葉転、大野運転士の指名ストを通告する。十二時以降全乗務員の突入については、十一時三五分がリミットであると通告。
11時40分
当局・要求については、受け入れない。
組合・十二時以降全支部でストに突入するとなるが、それでよいか。
当局・やむをえません。
11時55分、組合側引き上げる。
全乗務員一丸となってスト突入
当局の目に余る横暴と不法・不当についに堪忍袋の緒は切れた。正当なストライキを防衛し、清算事業団闘争の成否をかけて、十八日正午からの戦術拡大のストライキは決行された。全乗務員は、100%、完全に組合指令に従って本区で、出先で、決然と起ちあがる。当局、JR総連どもによるスト破壊は物の見事粉砕された。当局は、かな切り声を上げて「動労千葉の違法スト」と、己れの責任のがれにヤッキとなっている。
ある駅の助役は、「動労千葉を本気で怒らせてしまった。それにしても短時間で、こんなにマヒしてしまうとは」と組合員の怒りの激しさと、動労千葉の【結束】のすごさに驚愕していた。
三・一八ストは、混沌としていた状況を一挙に吹きとばし、勝利への展望を切り開くことに成功した。
国労中央右派グループのスト中止策動を粉砕し、七二時間(動労千葉八四時間)ストライキを牽引する決定的な源動力となったのである。
たび重なる国労中央の動揺を克服し、ついて貫徹された七二時間のストライキ決起こそが、その最中に強行された一四〇六名への解告予告という戦後かつてない暴挙を一身に受けながら、不屈にたたかいつづける清算事業団労働者を励まし、すべての国鉄労働者に勝利の確信と勇気を回復させ、闘いの永続的発展、勝利への展望を切り開き、四月一日をむかえたのである。
一九九〇年四月一日、千名をこえる清算事業団の仲間たちは、争議団闘争団を形成した。九〇年代激動を切り開く新しい闘が、ここに始まった。
おわり