千葉でも、86年3月10日から88年4月までの約二年間は、運転職場から駅売店等への不当配転が激しくふきあれた。いずれも、動労千葉の組合員に対する集中的な攻撃であった。
例えば86年3月10日の通知で強制配転され、運転職場から外された者は48名であったが、うち35名が動労千葉、翌年4月は12名中全員、5月は36名中22名、7月は43名中28名。88年4月は40名中32名(以上一部再配転も合む)という事態であった。とくに各支部の執行部はほとんどが配転された。しかしそれでも動労千葉は、団結を守って管内の運転士の過半数を制し、各支部の新たな執行体制を確立して、解雇者や配転者を守ってたたかう体制を維持した。やはりその土台となったのは、二波のストライキを打ちぬいた自信と確信であった。 また、動労千葉にとって非常に大きな位置を占めた攻撃は、運転士登用差別であった。分割・民営化攻撃が開始される状況のなかで、80年度以降のドライバーコース採用者(予科生)が、運転士の資格を取得していながら、発令されないという状態がつづいていたが、当局はこれを利用して、国労や動労千葉を脱退した者だけを順次土職登用するという攻撃をしかけたのである。
組合活動の禁圧、差別、処分 さらに職場では、87年4月1日を期して、組合活動を一切禁圧する攻撃がかけられた。支部・分会の掲示板は一切撤去され、組合事務所明け渡し訴訟が起こされ、奴隷的な労働協約を結ばなければ一切を認めないという攻撃のなかで、日刊動労千葉を手渡したり、組合費を徴収したりすることにまで賃金力ツトや処分が加えられた。徹底した昇進差別、ボーナスカット、面談等を利用した露骨な脱退強要、「暴言」「不規則発言」等を理由とした処分の乱発など、ありとあらゆる不当労働行為の累積の上に成立したのがJRだったのである。 このような攻撃に対してわれわれは、士織登用差別事件、組合員脱退強要事件、掲示板等便宜供与差別事件等々をめぐって労働委員会に対する救済申し立てを行い、いくつもの重要な勝利命令をかちとってきた(93年6月の士職登用差別での地労委全面勝利命令等)。国労も無数の救済申し立てを行ったが、全国各地で連戦連勝をかちとった。
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