もうこれ以上我慢できない

ストライキの方針の決定

 動労千葉は、85年9月の第10回大会で、7月最終答申の綿密な分析の上に、「自らの闘いで労働者の明日と未来をきりひらこう」「決然として怒りの総反撃に起ちあがろう」と提起し、その第一波闘争を雇用安定協約が期限切れとなる11月末に設定する方針を決定した。

 かかげたスローガンは、@国鉄分割・民営化阻止 A二万人首切り合理化攻撃粉砕―ひとりの首切りも許すな! B運転保安確立―国鉄を第二の日航にするな!C未曾有の国鉄労働運動解体攻撃粉砕! であった。
 大会は極めて感動的なものとなった。すさまじい攻撃の嵐のなかで組合員全員が、「今までは我慢してきかが、もうこれ以上我慢できない」という気持ちで一致していることが明らかになった。ストライキを打ち抜けば必ず大量処分による報復が予想されたが、ここで逡巡していれば労働者としての誇りも尊厳もズタズタにされたうえで首を切られる。われわれが矢面にたって起ちあがれば、必ず国労も後につづくであろうという期待も全ての組合員の胸のうちにある共通した思いであった。

2つに1つの決断

 もちろんこの過程には、さまざまな悩みがあり、ためらいがあった。自分だけは「3人に1人」になりたくないという組合員も当然いた。「うちの父ちゃんだけはストから外してくれ」と訴えてくる家族もいた。しかし動労千葉の下した決断は何度となく討論し悩み、そして不安や疑問を洗いざらいだし合いながら到達した結論であった。われわれのとる道は二つに一つしかない。どんな困難があっても起ちあがってたたかい、敵の攻撃をはね返して団結を守るのか、昨日まで仲良く酒を飲んでいた仲間同士が翌日には自分の食いぶちをめぐって醜い蹴落とし合いを演じて奴隷の群れとなるのか。そうなれば、「去るも地獄、残るも地獄」となる。

 腹を固めた労働者にとって、もう恐いものは何もなかった

 動労千葉は、組合員にも家族にもこのことを真正面から訴えた。しかし、こうしてたたかいの方針が決定されるや、闘争態勢は 一瀉千里一挙に築かれていった。
 大会後、各支部大会の開催をはじめ、支部が所在する各地域では、組合員、家族、地区労の仲間たちを集めて地区集会開催の取り組みが一斉に行われた。職場では連日の個別オルグで腹をわった話し合いが重ねられ、さらに家庭でも多くの組合員宅で家族会議がもたれた。こうした数々の取り組みのなかで、あらためて確信をもてたことは、国鉄労働者は怒りに満ち満ちているということであり、中曽根や国鉄当局や動労革マル・松崎に憎しみをたぎらせているということであった。そして、各支部の執行部をはじめ、ぼとんどの組合員が首を覚悟してストライキをうちぬく決意を固めているということであった。腹を固めた労働者にとって、もう恐いものは何もなかった。