国鉄分割民営化反対 闘争の決断 |
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動労千葉は当初から、この攻撃がただならぬものであることを直観的に理解し、そのことを真正面から組合員に提起していた。それは国家権力の中枢が、こともあろうに動労革マルなどを攻撃の手先としてとり込んだことからも明らかであった。
82年から95年にかけて全国の職場に襲いかかった攻撃は、そのまま千葉でもふきあれたが、ただ千葉(とくに運転職場)と他の地方の達いがあるとすれば、それは千葉にはわれわれ動労千葉が存在していたことである。裏返していえば、分割・民営化攻撃の突撃隊となった動労革マルは、千葉では極少数派として点在していかにすぎず、彼らには動労千葉や国労を正面から攻めたてるような力も気迫もなかったことである。 動労千葉は、第二次臨調や国鉄再建監理委、中曽根政権の動向、動労本部の転落ぶりを直視しつつ、嵐のような攻撃に対していかなる有効な反撃を組織し得るのかを真剣に考え、ねばり強くたたかいを展開していった(例えば85・3ダイ改に反対する全国唯一の非協力・安全確認行動)。 しかし攻撃は、このようなたたかいをも完全にのみ込み、押し流す大きさと激しさで進んでいった。 |
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職場に暗雲が
国鉄再建監理委員会が最終答申をだした85年7月時点では、国鉄職員はすでに27万6000人にまで削減されていたが、最終答申にうたわれた「適正要員規模」からすれば新事業体移行までにさらに9万3000人を余剰人員化するというのである。 新たに3人に1人の首を切る攻撃だ。 左、千葉運転区支部長 |
指導部の構え
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しかも、国鉄労働者のだたかいへの決意は決して打ち砕かれてはいなかった。今日まで1047名の解雇撤回闘争を中心としてJR体制を揺るがすたたかいが継続されていることを見れば明らかなとおり、重大な攻撃の意図を打ち砕く反撃へのチャンスは決して閉じられていたわけではなかった。
(県内各地で地域集会を開催 中野委員長) |
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