強制収容所=人材活用センターの設置
 修善寺大会

 

攻撃のピークは7月だった。7月1日には全国1000カ所余に悪名高い「人材活用センター」が設置された。ここに入れられたら新会社には行けないという現代の強制収容所に、翌年3月までの間に21000名の労働者が隔離・収容された。大半か国労の組合員であった。8日に動労は、鉄労、全施労、真国労とともに改革労協を発足させた。鉄道労連→JR総連の前身である。そして動労は、ついに総評からの脱退を決定するにいたるのである。
 この過程で国鉄闘争に非常に大きな影響を与えたのは、7月6日の衆参ダブル選挙で自民党が圧勝(304議席)したことである。国労本部は最後の望みをこ の選挙に託していた。5000万署名もそのためにあった(実際それは3500万という驚くべき故に達していた)。
 この選挙の大敗で国労本部は、ほとんど骨が折れてしまった状態となる。22日から千葉で問かれた国労全国大会では「大胆な妥協」方針が打ちだされ、労使共同宣言の締結については中央闘争委員会に一任するとの方針が決定されたのである。国労は6月時点ではいまだ16万人の人員を保っていたが、七月以降の脱道者は毎月1〜2万人ずつにはね上がっていった。追い討ちをかけるように、当局は8月末に改革労協との間に第2次労使共同宣言を結び、9月冒頭には、75年のスト権ストに対する202億円損賠訴訟を動労に対してのみ取り下げるという露骨な国労切り崩し政策を打ちだした。

修善寺大会
 ここにいたって、権力、当局、そして動労革マルは、国労の解体・消滅は時間の問題であり、間違いなく87年4月までには消えてなくなると思っていたに違いない。だがこの洪水のような逆流に抗して、国労の組合員は本部の総屈服方針を断固拒否して起ちあがった。10月9日から修善寺で開催された臨時大会がそれである。そもそもこの修善寺大会は、千葉大会で中央闘争委員会に一任された労使共同宣言の締結を機関として確認するために召集された大会であった。しかし、全国から結集した組合員の抑えがたい怒りはここで一挙に爆発し、中闘提案を否決、執行部は総辞職して新執行部が選出されたのである。これは動労千葉の全組合員が待ちに待った勝利の報せだった。2波のストにかけた動労千葉の思いは、修善寺における国労組合員の決起というかたちでついに実現されたのである。


幕張電車区


人活センター


修善寺大会に押しかけた国労組合員