団結を守りぬき、そして全国へ
内田裕也がやってきた!

 86年を頂点とした攻撃は、動労千葉に対しても激しくふきあれた。千葉鉄管内で人活センターに送られたのは69名だが、うち62名が動労千葉の組合員であった。しかし事態が全く違ったのは、2彼のストライキを先頭とした連日の激しいたたかいを貫徹した千葉の各運転職場では、職場の力関係は圧倒的に動労千葉各支部が制圧していた。
  職場は以前にもましていきいさとしており、昼も夜も職場全休が組合事務所のようであった。逆に現場の職制は、たとえ区長室であろうと安心していることのできる場所はなかった。
  業務移管によって東京から千葉にのり込んできた運転士も、何人もの防衛隊に囲まれてしか職場に立ち入ることはできなかった。だからこそ動労革マルも、千葉の運転職場には一人も広域異動を入れることができなかったのである。いうまでもなく状況の困難さは全国と全く変わりはなかったが、動労千葉は血を流した自らのたたかいによって団結を守りぬき、ごく一部他職場にひき抜かれた以外は、1人の脱退者をたすこともなかった。
 逆に動労千葉は、職場から全国に打ってでた。2波のストライキの記録映画『俺たちは鉄路に生きる』(宮島義勇監督)をもって、全国各地で上映運動を展開し、国鉄分割・民営化攻撃の本質と動労千葉のたたかいを訴えて歩いたのである。上映会は動労千葉の予想をこえる反響でどこでも大成功し、延ベ1万3,000人が参加した。さらに動労千葉は、民間中小の争議組合のたたかいに学びながら、直ちに物資販売運動を全国的規模で始めた。合言葉は「全組合員が活動家になろう」であった。


成田支部青年部

明日の闘いに向けて