一方国労は、修善寺大会を契機として旧主流派が鉄産労として大量脱落した。だが結局4万の組合員(87年4月現在)が残り、当局−改革労協の「1企業1組合」路線は最初からつまずいた。
この背景にはもうひとつ当局の大きな誤算があった。
86年秋に成立した国鉄改革法に基づいて、当局は87年1月に全職員を対象に、7分割される新会社のどこに行きたいかの意思確認を行うが、本州三社については「定員割れ」が生じたのである。3本柱以来あまりにも激しい攻撃のなかで、当局の予想をこえる数の労働者が国鉄を去っていったためである。動転した動労革マルは「採用枠を削ってでも国労や動労千葉の首を切れ」と当局に哀願し、当局は本州でも労働処分歴のある活動家に対するパージを強行した。
87年2月16日の採用通知においては、北海道で4700名、九州で2400名、定貝割れの本州・四国でも約80名が不採用となり、全国で131ヵ所に設置された国鉄清算事業団雇用対策支所に送られることになった。これらの大半か国労組合員だったが、動労千葉の場合は12名が清算事業団に送り込まれた。不採用の基準は「過去三年間に、停職6ヵ月または2回以上の処分」を受けた者とされた。三年前というのは、要するに動労本部が一切のだたかいを中止したときということだ。これによって動労千葉の解雇者は、分割・民営化攻撃とのたたかいだけで40名になった。
清算事業団に送られた仲間は以下のとおり。
磯部哲夫(新小岩支部)、高石正博(津田沼支部)、林熊吉(幕張支部)、塩崎(館山支部)、多田、伊藤(以上銚子支部)、相原、江口、角田、林、中村(以上千葉転支部)、中村(勝浦支部)。
動労千葉は、確かに満身創痍となったが、堂々とた たかって団結を守りぬきJR体制にのり込んだ。国労も組織を残して87年4月のJR発足を迎えた。国鉄分割・民営化攻撃との闘いは終わったのではなく、延長戦に突入したのである。
なお87年9月、関川宰前委員長が、動労千葉の分割・民営化攻撃との死闘を見届けるかのようにして、61才の若さで逝去された。
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動労千葉家族会・事業団送りに怒りの抗議
清算事業団佐倉雇用対策支所
関川委員長勇退時の激励会
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