86年に入ると、国鉄労働運動への解体攻撃はさらに激烈なものとなった。1月の労使共同宣言がその口火となったが、さすがに国労はこの時点ではこれを拒否した。3月4日には、第一次広域異動が提案された。過員の多い北海道、九州から本州への広域異動を募集するというものだが、これは国会審議も経ずに分割・民営化の既成事実化をはかろうとする攻撃であり、かつ後に「血の入れ換え」と称されたように、本州で国労の組合員を職場から追い出すための差し換え要員の送り込み攻撃であった。動労革マルは、首切り三本柱につづいて、国労解体攻撃の先頭にたってこれに積極的に応じ、自らの組合員を半ば強制的に広域異動にかりたてた。その目的は、いかに革マル分子を新会社に残すかの一点にあった。
3月11日には、当局は全職員を対象とした職員管理調書の作成を指示する。それは職員振り分けの第1弾だった(最上、上、普通、下、最下のランク付け)。
4月3日には「企業人教育」が提案された。マル生的攻撃そのものが始まった。同13日には、国労東京地本上野支部を中心とする革マル分子が国労を脱退、新国労を旗揚げした。この集中攻撃のなかで、国労は進むことも退くこともできない巨艦のように立ちつくした。
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