☆今回のテーマと厳密に関係したものであるかは分かりませんが、〔一〕について聞いていた時、思い出したので、感じたこととして書かせてもらいます。
私は学生(高校ですが)であった時、新興と言ってもいいだろう企業のチェーン店で、そこのアルバイトとして働いていました。そこは最近よくうたわれる「やる気を評価する」職場でした。私ははじめてのバイトだったこともあり、頑張れば認めてもらえるというその職場で、やりがいや充実感といったようなものを感じて働きました。周りにいたバイトの仲間たちも同じように感じているように思っていました。その企業では能力に応じて昇給といったような制度(?)があり、1人の作業がきちんと出来れば見習いを抜け人を気にかけるようになれば、さらに上へといったふうに昇格していけます。アルバイト達はもっと熟練したアルバイトになれるよう、上司に当たるアルバイトから指導を受けながら、限界の時間を計っては、もっと早く、もっと早くと尻を叩かれました。私が脱落したのは2年ほど経った頃でした。見習いから昇格し、さらに上へという段で、上司からは期待され、先に昇格したバイトと比較され、尻を叩かれ続け、責められ潰れました。時給たかだか900円の為に人を使うことを強いられ、たった数十円の為に日常まで浸食されていって、職場の外の人間関係さえも壊れ、私はその大好きでやりがいが有ったはずの店を辞めました。今、目立つ新興の会社はやりがいやら人間としてのスキルアップをうたいながら、かつて私たちから搾りとったように多くの若者から労働力のみならず、賃金の支払われない自由であるはずの時間や生活、人間関係までも奪いとっていきます。生きていくのにギリギリ以下の、1時間につき900円の賃金で、それをさも正当な対価であるような顔をして、アルバイト達の人生丸ごとむしり取っていきます。若者は認めてもらうのが嬉しくて、誉めて貰いたくて、限界を忘れて働き、自分をすり減らし、壊れ死んでいきます。資本家に殺されていきます。資本家の側は言葉だけで無限に頑張ってくれる、都合の良い道具だとほくそ笑み、潰れてしまえば、また別の労働者に取り替えるばかりで、まったく痛みを感じていないにもかかわらず、こんな一方的な関係は、主人と消耗品的な力関係は、絶対に正当なものではないし、これ以上野放しにしておくわけにはいきません。
私たちは生き残るため、労働者本位の社会を手に入れるため、自分自身のために闘わなければなりません。労働者から搾取し、命をむしり取ることでのうのうと生きている資本家を許すことは出来ません。革命を起こしましょう。労働者の手に社会を返して貰うために。世界の主役としての座を取り戻すために。私たちはそれこそ奴隷ではないのですから。
講師の方が、今の社会に怒りを持っていることは分かりました。同じ労働者としての怒りを共有し、マルクス主義について学べることを大変嬉しく思います。これからの授業も楽しみにしています。
☆最初の中野さんの話がすばらしく面白かった。まったくお話しの通り、わかりやすい時代になりました。やるべきことは単純ですね。やりきることは本当に大変ですが。
・藤村講師の話は、レジュメもよく出来ていて、30年ぶりの資本論の復習でしたが、楽しく聞きました。
・上司に聞かせたいなあと思いつつ聞きました。職場で直属上司に対して話をしはじめて7−8年になりますが、そしてずいぶん会話が通じるようにはなったのですが、やはりなかなかむずかしいです。例えば、根津さんのたたかいについての話などは、かなり理解してくれるようになりましたが……。当初は「日の丸美しいだろ!君が代好きだよ」と言っていた人が……。しかし、労働運動となると、直接に自分の立場にかかわること。一般論としては理解できても、自分がとなると……むずかしいようです。(誠実な人柄の人なので、努力はしてくれるのですが)。
同僚との連帯をつくるというのも、なかなかむずかしい。一歩進んで二歩後退みたいな状態。
(公務パートで、普通の職場と違うことも大きいのですが……。生活できる給料はもらえないので、本当に生活きびしい人はやめてしまいますから。残っているのはボランティア意識の人が多いのかも……。団結を呼びかけても砂のように固まりにくくて……)
・正規職員の組合は、本当に私たちを無視。私たち非正規が一番つらいのに、いちばん組合必要なのに。正規の人だけで、年1度お祭りやって、なにひとつ役に立たない。組織率下がるのなんか当たり前。ゴミみたいな、いらない組合。
乱筆乱文すみません。1年間、通って考えていくうちにだんだんまとまってくると思います。
☆30年以上も動労千葉の組合員として、また数年役員をやってきて、あらためて労働運動を学ぶとは思ってもいませんでした。今回、基礎講座を受講することになり、自分としては十分に学ぶことが出来ないかも知れませんが、講師の方のわかりやすい話を聞いて、安心しました。第1回目の講義として「賃労働と資本」の前半を聞きましたが、一労働者としてここまで労働と賃金について考えたこともありませんでした。仕事上、毎回は参加することは出来ませんが、たくさんのことを学んでいきたいと思います。
☆労働者の力で革命を!」と、この労働学校に結集している青年労働者(ベテランもいるけど)は訴えている。その根本をこの労働学校で学ぼうと思っています。まさに今の日本の状況は「戦争か、革命か」になっていると感じます。世界中がそうなっているのでは? そんな中での今回の講座は、これからの日本の労働界に対するまったく正しいメッセージだと感じました。
今、JRの社会的ステータスはどんどん下がっています。それこそみんなバラバラにされているからです。だから「ストライキ」なんて考えすら浮かんでこない!! 「社会を動かしているのは労働者だ」と、一体何人の日本の労働者が気づいているのか? どうして今のような政治状況になってしまったのか? その根本は「民営化」ではないか!!「民営化」すればスト権があるように、なんで闘わないのか! それこそが「闘わなくなった労働者などこわくない」と資本が感じ、「何でもあり」を労働者に押しつけているのではないのか! だから「ワーキングプア」などということを平気でメディアで流せるのだ。
まさにこの時こそ団結を固めていかなくてはならない。闘わない労働組合をぶっとばして、「11月集会」路線をもっと拡大していこう!!
☆資本と労働者の関係が分かりづらいことがわかりました。そのため、一生懸命仕事しても、反映されない理論だというのが資本主義だとはっきりしました。
一見、自分の労働条件や給料など、入社前の会社案内を見ると、保障されているように感じました。今、JRでも、資本の思想の押しつけがはじまりました。今回、勉強したことを参考に、現場で闘っていきます。
☆基礎編の卒業生です。本日は感性と原則を自分に取り戻すために参加させていただきました。これからもたまに参加させていただきます。予想以上の盛り上がりで、びっくりしました。
労働=人間を動物と区別する根源的で根拠的なことである。労働は人間が共同して自然に手を加えて価値を生み出すことであり、本当は楽しいことであると思う。
労働、人間はそもそも労働をまじめに、きちんとやりたいと思う生物であり、それが共同性にもつながる。人間のこういう性質をも利用し、あくどく搾取しているのが資本家であり、こういう資本家を打倒しなければならないと思う。
☆賃労働と資本の非和解性という場合の、とりあえず賃労働とは何かということをとことん深く考え抜く講義だったが、それだけで十分、賃労働という制度の労働者に対する敵対性がよくわかった。働いてなんぼということで、個人に帰属させ、自己責任と思わせることそれ自体が階級性をおしかくし、階級的に団結させなくする。
だから賃金闘争も、賃上げ額のみを総括軸にするのではなく、賃闘を通していかに団結が強化されたかを総括軸にする。団結を総括軸にするのは、労働者が団結することで社会の主人公になることができ、歴史を集団的に決定創造することができ、そのことによってのみ、つまりプロレタリア革命によってのみ労働者(階級)は自分を解放できるからだ。常にこのことを念頭に置いて労働運動をやることの大事さを思いました。
賃金・賃労働の歴史の話が興味深かった。共同性を奪われバラバラにされることで「自由」と引きかえに悲惨な境遇にたたき込まれたが、労働者の階級的団結〜共産主義的な共同性の中で、あらためて真の共同性を真の自由をかちとっていくのだと思いました。
☆討論すごいおもしろかった。
労働っていうことをどうとらえるかって、階級支配のあり方でかわるのかなあと思ったんですが、討論が、人間の労働が社会全部をつくっていて、労働者がそれをつくっていて、だから労働者が生み出す力ってすごいんだ!と。
疎外された労働も、本来の労働をとりもどすということも、どうやるかといったら、働けば働くほど人間性や仲間との関係が奪われていくような、そういう資本との関係をかえていくなかで、とりもどすということなんだ。労働者として自分の仕事に誇りをもつということは、ひとりでやるのではなくって、仲間との団結で資本に立ちむかっていくということなんだ。(これがガッチリ分かったことが今日の一番です)
あと、労働力を市場で買う資本家! こんなのにすごい怒りがわきます。
第4期の生徒だった時、「動労千葉で労働運動を学びたい」と入学した。今、ユニオンの青年達と一緒に闘ってきて、もういちど労働学校に行きたいと思いました。
前、頭の中でうんうん考えていたことが、一緒に彼らと闘っているなかでどんどん分かるし、本当に闘える!と思ってます。がんばります。
☆今日はじめて講習を受けて、正直言ってやっぱり難しかったです。資本主義の元をたどると本当に歴史のお話しになるとは思ってなかったのでビックリです。
労働力を買う側の人と売る側の人がいて「買う側の人=他人の労働を自由に出来る人。自分で働かない」と「売る側の人=他人のために働き、そうすることによって自分のために働くことも許される人」−『極限的な人間のモノ化』という話に同感して、同時にムカッときました。私の職場でもそのとおりなので……。
そして「こんなに働いているんだから、ちゃんと払え」とか「同じように働いているのに、支払額が少ない」というのは、みんな思っていることなのですが、物事の表面をなでているだけとのお話しで「問題の本質が覆い隠される」とのことですが、表面をなでているだけということは、もっと深いものがあるのでしょうけれども、そのへんよく理解できなかったので、この後の親睦会で友達に聞いてみます。ありがとうございました。
☆本来、労働は生きるための行為。資本家の儲けのための疎外された労働なんて絶対に嫌だ。労働者階級にとって「いい仕事」がしたい。賃金労働である今の社会で、資本家にとっての「いい仕事」にしないように職場のことを一番よく知っているのは労働者だと闘い、支配権をとりたい。
☆現実的には資本の言いなりに働かないと食っていけないが、それは資本の労働者に対する支配や搾取を自分から受容しているし、ゆるやかな自殺。自分も家族も周りも人間として生きていくには団結して資本家や国家と闘い、この帝国主義社会のあり方を変えるしかないと思いました。
ただ、一所懸命に仕事しないと同僚からも信頼されないし、仕事に誇りも持てない。「一番一所懸命仕事をする人間が一番一所懸命闘う」。そのとおりだと思います。自殺のためでなく、労働者の解放のためにより一所懸命に働いていきたいと思いました。 |