労働学校通信

第Z期No.04

次回講座のお知らせ

8月18(土)・9月15日(土) 各13:00〜
 資本主義とはどういう社会か
 講師 鎌倉 孝夫(埼玉大学名誉教授・東日本国際大学教員)
 マルクス主義経済学者。『資本論体系の方法』(日本評論社)、『資本論とマルクス主義』(河出書房新社)、『経済学方法論序説』(弘文堂)、『「国鉄改革」を撃つ〜公社交通の再生』(緑風出版)など著書多数。資本主義社会について全面的、体系的に明らかにする
*親睦会も楽しみです(会費千円)

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労働学校通信 第4号 (2007.07.10発行)
がんばろう労働者!たたかおう労働組合!ひろげようインターナショナル

自分たちの武器

 労働組合の存在というものについて、一番わかっていないのは労働者。敵が一番よく知っている。労働者が知らない。労働者、労働組合なんてダサイもんだとか、労働組合も悪いけれどね。だけど労働組合という形で存在し、労働者が団結して、それで敵に対して牙をむくという、こういうことをやったとき、大変なことになる。それを敵が一番よく知っているんだということ。
 だからこそ労働組合運動というものを大事にしなければいけない。きちんと生かさなければいけない。ぜひ皆さんに考えてもらいたい、そういうものを目指してもらいたい、労働者というものは、しょせん対抗する手段はそれしかない。
やっぱり労働者がみんなで固まってやる方法って、やっぱり労働組合じゃないですか。そういう自分たちの武器を、ここに来てもう一度見直す必要があるということを、一つの大きなねらい目として、僕はこの労働学校を開校したし、皆さんに分かってもらいたいと思った。

ハッキリさせよう

 「労働基準法にはこう書いてある」「労働組合法にはこう書いてある」−労働法の枠内での闘う労働組合。だけどそういう立場でやっていると、一番主張しなければいけないときに、主張できなくなる。「時間外でどんどん仕事をやります」なんて、労働組合が言う。
 おかしいじゃない。体制内労働運動っていうのは資本主義の枠内で改善を求める運動。だから、資本主義が危機に陥った時には、自分たちも危機に陥って、労働組合として言ってはいけないことまで言い出してしまう。
これでは労働者の要求というか、主張をちゃんと受け止めてやるとはなりません。そこをきちっとさせていくことが重要じゃないかと。
 体制内、そういう枠内に依拠した労働運動というものは、しょせんもう、神通力を持たないということをハッキリさせなければいけないんじゃないかと思います。

(代表あいさつから)

ひとりは万人のために 万人はひとりのために

交流の広場−闘いの輪(受講生の声)を随時発行しています

感想文紹介

働学校に来て2回目です。初めて懇親会にも出させてもらいました。今回の表題ですが、「労働者の生き方」は、本当にここに集まった一人一人にある、ここで1年間できるだけ学びつくしたいと思います。
 今回の講演についてですが、ちょっとここではなく『共産党宣言』の文言に依拠している感じがしました。今日も少し言われていましたが、マルクスだって当時の社会の革命的激動、ドイツ労働者の歴史的決起に胸躍らせながら、革命のまっただ中で『宣言』を書きました。今、安倍や御手洗の終わった姿、それでもすべてを労働者に転嫁し、生き延びようという姿があり、一方ではここには労働者の力を曇らせ、押さえつけてきた体制内執行部をぶっ飛ばして革命やろうという仲間が集っています。依拠すべきはここなんです。
 講師は「去年話した内容とだいたい同じで、聞くのが2回目という人もいると思うけど、初心者に会わせて話します」と言ってました。でも、去年と同じなんてあり得ない。何か決まったことや、一般的歴史を勉強するとか覚えるとかじゃない。あくまで現場で格闘している労働者に通用するか試されているのはまず講師だということです。
 前回の方が資本に対して怒っていた。根本的に批判していた。会場から「そうそう!」とか、「うちの職場の仲間はこう言ってくるんだけど……」とか、そういう職場と結びついた意見が出ていたように思います。もちろん、みんな有給とったり夜勤明けで真剣に来ていて、今回も質問は多く出たけど、前回の方が実践と結びついていたと思います。
 今回は6・9−6・15の過程でほとんど来るだけになってしまったので、次回は自分なりに準備してから来ます。とにかく労働学校は楽しいし、せっかくの機会を生かしていきたいです。

までこのテーマに関しては感想が書けませんでした。ブルジョアジーを打倒する武器を取る人々、労働者階級をブルジョアジー自身がつくりだした、ということを主張するためだったとしても、なぜブルジョアジーの革命的役割について、ここまで解析する必要があったのか、わからなかったからです。「全革命運動が、その経験的基礎をも理論的基礎をも、まさに経済の運動の中に見いだす」(経哲草稿:城塚登、田中吉六訳)という一文でようやく少しは納得いきました。革命の可能性と現実性は経済の運動の中にあるということなのだと思います。
 もう一つ思ったのは、労働者の革命は世界を創り変える大事だと思っていましたが、ブルジョア社会の生成により、少なくとも賃労働と資本の関係においては「疎外」された自己−人間性−を奪い返す当たり前のことだと意識が変わりました。この意識のまま職場に行くと浮いてしまうので、職場では押さえて(自ら自己を疎外して)いるのですが、そんな社会のあり方自体がおかしい。産別も身分も(正規−非正規、部落民、在日)、資本家が勝手に作り上げたすべての分断材料を「団結」という形で破壊して、労働者は階級として一つになり、革命をやりましょう

去の歴史の流れで、封建制から資本主義へといたる変革があったとしても、一部の抑圧者とその他大多数の被抑圧者によって成立している社会であり、多くの矛盾に怒りを覚えることが必要だと思います。そこから、今の現状をどう変えていく必要があるのか、真剣に考えるようになって危機感を持つのでしょうし、そうして初めて決起するものだと思います。不平不満はあっても、そこまではしたくない、そういう人が大多数の中で、自分はどうすべきか? 職場でもよく考えます。

護保険のコムスンの問題で、新聞に次のようなことが載っていました。「今の介護事業所を成り立たせるためには、非正規の労働者にしなければならない。非正規を正規労働にしたら事業所は成り立たない。システムが根本から変わらないかぎり、コムスンの他の企業がかわっても同じ結果になる」と。この「システム」とは今の資本主義社会そのものだと思う。今やトヨタ、キャノンという大企業を先頭にして、正規を非正規におき換え、「偽装請負」で利潤をあげている。物を生産して売って利潤を得るより、人件費を削って利潤を得ているからです。
 労働者の生き方とは労働者が革命をやって生きようということであり、その場合、団結することが革命そのものだということです。労働者が目先の利益にとらわれて「明日食うもの」を得るためだけに闘ったときに、闘わされたときに自分で自分の首を絞めることになる。労働者同士がお互いに競争し、「自分は非正規でも良い」となったときに、資本家は生き延びる。全員が団結して「全員を正社員にしろ」と言って闘ったときに労働者は勝てる。労働者がどこまでも団結を拡大させたときに(国境も越えて拡大させる)労働者は勝てる。

ストジェネレーション、ワーキングプア、ネットカフェ難民等々、格差社会を表現する言葉の中に若者の姿がある。今までと違うのは、それが一部の弱者とかになるような人、身分とか、病気とか、野宿とか、障害者とかだけの問題ではなく、一般の大衆の労働者人民、階級の問題になっていて、全体がそこから引き下がっていると思うのである。とりあえず給料が低く、保障もない、消費行動ができるわけがない。そういうところで生産し続けるために、もっともっと人件費を低くしなければ資本にもうけがない。しかし、給料が安かったら、消費活動ができない。そこで政府は労働者の生活を守るのではなく、逆に権利を奪い、自己責任や競争、チャレンジ、チャンスに転化する。
 政府が労働者階級、野宿や高齢者や障害者のことも、国は保障しない。責任を負わないといって民営化する。資本家が自由に儲けようとすれば、コムスンだって正しくなるだろう。認可したのはいったいどこの誰だろう。コムスンに限ったことではないのだ。
 国が赤字という、そして軍事のためには金を使って、民営化して企業の儲けに労働者を使い回していく。しかし、だからこそ、この支配に対し、その仕組みをぶっ壊す、そして本当に自分たちの人生、自分たちの未来や自分たちが主人公の社会をつくり出していくことが、自分の人生への責任であると僕は思うし、僕にとっては他人の人生の責任はとれないので、自分の人生の責任は、自分は自分として生きていきたいと思うのである。
 だけどそうなるとやっぱりこんな社会では、自分は自分として生きていけないと思うので、こんな社会の中で責任を負わされるのは嫌であって、やっぱり変えなきゃ、革命しなきゃ、闘わなきゃ自分が本当に解放され、主人公として生きていくことはできないと思う。

わりの青年はもう一歩先を求めている。革命のその時迄から、その先迄、自らやるべきことを真剣に考えている。そして自分も。
 世界革命を成し遂げ、全労働者人民が真に豊かな生活を送れるようにするための過程を考える。仲間や仲間との団結を築くことの大切さは身に染みている。ではその仲間ができたとき、「僕たちは何をすれば?」この質問にすっきりと答えることができない。
 革命のその時、自分は、仲間は何処に立ち、何をしているのか。そして革命後、自分は、仲間はどのような労働をしているのか? 今している労働は? 皆が皆、やりたい放題やるというのが共産主義社会ではない。どのような職種に重点を置くことになるのか。
 何故「切り開き搾り取る」という表現(開発と搾取は一体のもの、という)なのかは分かった。では、"発展≠搾取"ということは成り立つのか?
 モノや文明の分配も、労働時間や内容も、何を持って平等とすれば良いのか。過剰生産は不必要、でも新しく素敵なものには純粋に感動するし、手にしてみたくなる。すべての人々が人間らしく生き、誇りを持って労働できればよいが、その為にやりたいことを我慢してしまう人が出てくるのは? 精神的に豊かと言えるのでしょうか。自分がやるべきことは・・・。

初の視点(学ぶべき2点)に絞り上げて、行われたのがよかったと思います。
 特に冒頭部分を唯物史観の解説のようなものにするのではなく、そこには脇目もふらず資本主義論−ブルジョア社会批判−に据えきって展開していったことがよかった。また、それを受けて非常に討論が具体的、実践的なものとなって勉強になりました。
 中身として言えば、その軸心に「労働者・現場に一切責任をとらせない。現場をまったく知らないブルジョアジーが利潤追求のためだけに生産を命令する」ということで論じていたことが、宣言をつかんでいく上での新たな認識として注目しました。

までの『宣言』の学習会のなかで一番よかったと思います。『宣言』の学習会の冒頭をどこから出発するかということで、まず「人間生活の本質である労働=生産」からする。そして今日では、何よりも労働者がその中心を担っている。ここの強調は、アジテーションでした。自分には「本当に労働者が責任をとっていたら、今のような事故や社保庁のようなことは起きない」ということは、最末期の帝国主義の攻撃と対決している今こそ、訴えていっていいと思いました。これを労働者による社会変革の問題として討論する。(この辺、今の社会じゃできないんだという討論のやりとりは、その通りだと思いました)
・アメリカの階級社会の現実は衝撃でした。
・「ブルジョアジーの誕生とその発展」「ブルジョアジーは何を成し遂げたか」というあたりは、僕は皆の顔を見ながら聞いていたんですけど、実はここはブルジョアのことを書いているのだけれど、自分の敵のことで、自分がつくっていることとして聞いているのか、と思った。労働者に依拠していいんだなと思いました。僕は本当に超失礼な心配をしました。
・今回のキーワードは、この最末期の帝国主義の攻撃こそ革命のチャンスということ。18CC後半からロシア革命をへて、今回の安倍の「戦後レジームの脱却」の攻撃を見ると、大変な反動で、すさまじい危機である。でも、この危機の中で「プロレタリアートは武器をとる人々」として登場する。実は、今のことを考えると、すごい危機だけど、革命のチャンスであると思いました。

本主義の矛盾、限界についてはかなり分かってきたように思います。(100年以上も前にそれを見抜いていた人々がいたのは驚きですが)資本主義を乗りこえて(打倒して?)無駄なものをつくらない、必要なものを必要なだけつくる、労働をする社会をどうやってつくっていけばいいのか、組合活動、日々の労働の中でも考えていきたいと思います。

々労働者は、昔でも大きな役割を果たしている。今でもみんなと団結すればすばらしい団結ができるはず。今は平等の世の中、資本家、労働者と分けるのはおかしい。資本家は労働者の気持ちを察し、安全で、仕事をまっとうさせる役割を果たせば、大きな事件は起きないはずだ。

労働学校−今後の希望

義後の交流会についてですが、私はビールが飲めないし、焼酎もあまり好きではないため、できればサワーやジュースなど別の飲み物もあるといいのですが……。

疑応答の時間がもう少し欲しかった。できたら休憩を間にもう1回くらい入れて欲しい。

会主義、共産主義がどのようなものか、よく分からないので、参考になるような書物が他にあれば教えて下さい。
 ソ連は共産主義ではなかった!と言う人がいるように、今の社会は真の?資本主義ではないんだ!と言う人がいると思うので、資本主義について参考になるような書物があれば教えて下さい。

う立場の人の肯定的意見なども聞きたい。先生としての登場は望めますか?

労働者学習センター事務局
千葉市中央区要町2−8 DC会館 電話 043-222-7207 FAX 043-224-7197

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