感想文紹介
戦後支配体制の二重構造(二面性)というポイントがよく理解できました。
先日、靖国神社及び遊就館の見学に行ってきたのも理解を深めるのに一役買ったなと思います。前回の感想文にも書いたことなのですが、伊藤先生のおっしゃっていた歴史を語る上でのタブー"たら、れば話"。「もし日本が、本当にアジア諸国の独立をめざす意味で、植民地支配という形でなく列強に対抗していたら」というあの話が遊就館内の映像にも出てきたんです。
「日本が軍隊を捨て、銃を持たずして列強に抗議していたら、歴史はまた違っていたかも知れないと思われる方もいるでしょう」とナレーターが言います。少しはマシなことを言うかなと思いきや、その後の展開はこうでした。「しかし、それは戦わずして敗戦したことと同じなのです」……ビックリ。あくまで「敗戦国ではいけない。戦わねば虐げられる」というのが前提。その後もやはり「戦いたくなかったが、戦わなければならなかった。そうなったら国民にみじめな思いをさせないためにも、負けてはならない」といったナレーションが続いていました。展示物も軍人の所有物ばかり……人物紹介も男だらけ。歴史経過を書いたパネルは、ヒロシマ・ナガサキのことなんかほんの2行、オキナワのことについてはみじんもふれない(!!)といったありさま。こんなにも偏った博物館は初めて。見た人全員(仲間ですが)気持ち悪くなるというのもうなずける。
戦争ってこんなにきれいなものか? ものすごい憤りを感じた。血まみれの歴史、悲惨すぎる虐殺と暴力の歴史から目を背けて「美しかった戦争図」をおしつけないでくれーと本当に思った。
今、敗戦直後からはじまった二重構造の支配体制が北の核問題もあって、矛盾を通り越して表裏もあまりなくなってきているけど、誰もみんな、それを容認してしまっているんだと思う。結果的には行き詰まるしかない「資本主義」そのものを打ち破る術に、そしてそのうち破ることができる主人公が自分だということに気づいてないだけ。教基法案は衆院を通過したけど、活動に関わってない人たちだって別に賛成なんかしていないと思う。そもそも「美しい国」って??「美しい国」を形成するための「美しい人間づくり」って何? まず「美しい人間」なんてそうそういるもんじゃないでしょ。人間って汚くて不完全な部分が必ずあるものなのに、その汚い部分を愛せないで「国を愛せ」なんてムリだろー。こういう議論を身近な人ともっとして、小さな「ギモン」を大きな「怒りの声」にして、つなげていきたいと思う。
戦後日本が「アメリカの単独占領」と「軍政でなかった」ことが戦前の支配者集団を残存させたという視点は、初めて聞く見方だったので面白く感じました。それにしても日本人民の手で「戦犯ヒロヒト」を処刑できなかったことの限界性を感じます。そのツケが大きく今、我々にのしかかり続けているのではないでしょうか。
・雑多なナショナリズムを批判するのもモグラ叩きのようで難しいのでしょうが、要は「日本人とは?」なんて関心自体がナンセンスと私は思います。必要なのは「労働者とは?」の学習でしょう。まさにこの労働学校!!
・法律があって権利があるのではなく、こういう権利が必要なんだといって認めさせていくという話も重要だと思いました。同じ単組の仲間との会話で、法律にない権利を要求するのは難しいなあと話すので、その時私も先生と同じような言葉をその仲間に言いました。
・「クライアント民主主義」、まさしくその通りだと感じています。私は職場が自治体なのですが、最近よく聞く言葉、「住民、満足度を高める」とかのために「サービス向上」が必要なんて当局や組合まで口にします。すごく違和感を感じてきました。"by the 住民"の視点が全く欠如しているのが現状です。
・田中委員長のあいさつについて、4900名という限界性には確かにあると思います。今回、私は2人にターゲットを絞って声をかけました。どちらもまだ11月集会に参加したことはありません。1人は残念ながら来ませんでしたが、もう一人は急に葬式ができて来れなかったけど、来るつもりでいたとのことでした。結果は0です(1人拡大に限りなく近い……と自己弁護)。参加者一人が来年一人拡大すれば数は倍になる。1万人はとっても簡単だけど、とっても難しい……。大きな事は言えないので、来年も2人に声をかけて、1人は参加させたい。マンガ「おれたちは鉄路に生きる」を武器にして。
15年戦争(私の子供の頃は「太平洋戦争」だったのですが)とその敗戦に対する戦後日本のあり方は、敗戦記念日を終戦記念日としていることからも、えらいウソがあると思っていましたが、本日の講義でその具体的中身がはっきりしました。「歴史を教える」とは、こういうことなんだという講義だったと思います。
ナショナリズム−「日本とは何か」なる質問が出てきたのは、私にとっては「国際基督教大学」という大学に入学してからでした。「日本人」以外の人に「日本」を説明する的なことが「必要」とされてきたのでした。そういう中で、山本七平や土居健郎を読んでいたと思います。
今、この講義を聞いたあとで「『日本人とは何か』という質問」とは何かを考え始めました。こんな質問は必要なのか……考えてきたいと思います。
あらためて「ヒロヒト」という支配者を墓場から掘り起こして、みんなの手で葬り去りたいと思いました。やはりこの問題ぬきに私たちの未来はないです。
今日は田中さんの話にも涙でました。民主労総やAMFAが自分たちの闘いのために必死に学ぼうとして日本にやって来るということは、まさに伊藤先生の講義の締めくくりの言葉、「青い鳥は自分たちの運動の中に」ということですよね。三里塚と動労千葉の闘いの中に、絶対的な未来があるということですよね。
そのことが私にもわかってきていて、だから1万人集会というのも痛いほどわかるのですが、じゃあどうすれば……というところが大きな壁です。この壁を乗りこえること、つまり隣の同僚が確信を持って11月集会に来る時、これは1万人ではなく何十万の集会に容易になることだと思うのです。
しかしこの壁は結構な壁なんですね。教基法衆院可決の伏見さんの満身のシュプレヒコールの中の一言、「我々は体を張って闘うぞー」で壁をぶち破りたいと思います。
1.今日の講義は「4 戦後ナショナリズムのイデオロギー形態」は興味深く聞きました。
照葉樹林文化論がナショナリズムとつながっていくものをもっているというのは、大変勉強になりました。これを主張した人たちは、戦後進歩的なところがあったが、しかし、今はナショナリズムに流れるところがあるというのは、そのとおりだと思います。
戦後、50'〜60'、70'〜80'、そして現在のイデオロギーというものが、戦後の日本の帝国主義的再建→戦争への道に進んでいることに正確に対応していることには、ひとつの驚きでもあります。このように大きな流れで今のイデオロギー状況を見るのは重要なことだと思いました。
2.そのうえで気がついたことは、いずれも日本人論または日本論になっていることです。労働者にとっては違う価値観、ものの見方が戦後のイデオロギー状況を批判していくときに大切なものなのではないかと思います。
労働者にとっては照葉樹林文化に属しているかどうかではないと思います。この点ではっきり言い切っていく、労働者の闘う文化、ものの見方を大きくしていくことが重要だと思います。
3.労働組合という視点から考えると、労使協調ではなく階級的に闘う労働組合、運動をつくることであり、そこからさらに進んで労働者が主人公になる社会、人間の人間的解放を重視する社会。ここをもめざしていくような労働運動をつくることではないかとあらためて思います。レジュメの「ナショナリズムの内面の矛盾を深め、その基礎を崩すのは人民の運動」というのはまさにその通りだと思います。
4.今日の講義を聞いて、戦後の種々のイデオロギーをみすえ、それを自信を持って批判していくことができるようになったと思います。青い鳥は自分自身ということですが、それはさらに私なりの答えを言えば、それは階級的マルクス主義が息づいている闘う労働運動をつくることであり、それが戦後の各イデオロギーに対する私の回答になると思います。
☆戦後日本は世界で唯一の被爆国として、核兵器の廃絶を世界に訴えてきた国だと思っている?
今や日本は戦争に参加し、国会議員が核保有を正当化する発言をしている。教育基本法の強行採択を行い、日の丸・君が代を強制し、愛国心を育てると言いながら、国を愛するためには核を保有しても他の国に戦争を仕掛けてもいいんだ、戦争をするのは国を愛するためなんだという、今まで言いたくても言えない、口に出したくても口に出せない人たちにとって、北朝鮮問題、イラク問題、テロ問題は教育基本法の改定や憲法改定まで行わせ、核保有、戦争を正当化させる大変重大な問題だ。
伊藤先生の最後の10分間の熱のこもった話は共感できて、あらためて運動していく上での考え方の基礎にしなければと思いました。
憲法はそのままでは理念で、運動の中で実のあるものになるのだということ、教基法は成立しかかっていますが、逆に私たちの運動の力で、単なる文面だけのもの、教育労働者が言っていますが、紙切れにしてしまおうということだと思います。私たちの要求は国から与えられるものではなく、私達自身の力で勝ち取るというのは本当にその通りだと思います。
私自身は実は、結構日本人論とか考えるのが好きで、縄文人とか弥生人のほうだとか、日本人とモンゴル人は顔つきや言葉が似ているとか考えてしまいますが、様々な日本人論が時代に対応して出てきていて、それがナショナリズムの形成に一役買っていることを思うと、私もこういう運動を知らなかったら、結構右のほうへ行ってしまったかもと思ってしまいました。様々な日本人論が横行するのは、日本人の自意識過剰からくるのではなく、日本のおかれた歴史的、経済的背景を基礎にして、支配階級の容認やより積極的に流されている面もあるのだと思いました。
ナショナリズムの状況がうまく整理されていた講義だったと思うが、「愛国」とかいったことを唱える人は劣等感の裏返しではないかと思う。
我々人間は、地球というひとつの惑星の上に住んでいる地球人である。そして、輸血とセックスに国境がないのだから、命を大切にすべきであり、人種などによって差別するのは愚かなことである。
地球人として、人間を考えるべきであろう。もっとも、日本人としてのナショナリズムというナルシズムになって、日本的経営を見直そうという一般論が出てくるし、ボク自身も似た考えをもったりもするが、それが排外主義的にまで行けば犯罪である。あくまでも人間を地球人として考えなければ、あまりにも不自然である。
もっと言えばほ乳類として、動物として、生物として、地球生命体の生態系の一部の動物として、人間を考えるべきではないだろうか。
人間自身が思い上がって、また、日本人が思い上がって自然環境を破壊して、またはむごたらしい戦争までする。そうなってしまえば、人間そのものが愚かな生物であると他の動物や植物は思ってしまうのではないだろうか。
だからナショナリズムを冷静に見て、分析して、ナショナリズムには惑わされないで、自分自身、地球人として、労働者として生きていこうと思う。
とても難しいテーマだと思いました。まだ、ナショナリズムと国家主義の違いが理解できていませんが、この実態のない2つの力が私たちに大きく影響し、動かしている源はどこから来たのだろう、など頭の中でぐるぐる沢山のことを考えました。国の中心にいて、この大きな「国家」というひとつの固まりを動かす人々が現在まで行ってきたあらゆるトリックを少し知ることができた気がします。
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