感想文紹介
1回目はとても難しく感じましたが、今回は前回の復習もかねて、理解できることが多かったです。
あたかも私達のためと思わせながら、実際は資本家のための国家だったということが、よく分かりました。そして、革命が起きた後の世界を今まではどうもうまく想像ができなかったのですが、今日はすべてとは言えませんが、自分の中で少し具体的になったような気がします。
法律も憲法も、ブルジョアジーのためにできたと言っていましたが、今あるすべての法律がそうなんですか?労働者国家になった時には、法律は必要ないのですか?
階級的対立関係があるから国家が存在するということが分かってスッキリした。われわれが動けば反動がある。国家はわれわれを抑圧する。法を用いて法の名の下に合法的に抑圧する。法も国家も暴力なのですね。暴力的に抑圧し搾取するのが資本主義とその国家ですね。
先月に続いて「国家について」の講座、聞かせてもらいました。特に1871年のパリコミューンと1917年のロシア革命の説明で、これから小泉を打倒し、革命を目指す者にとって実践的に、教訓にする歴史的事件だったのかを再認識させてもらいました。
最近、30年代ナチスが台頭した頃の歴史ドキュメントの本を読みました。労働者が敗北し、血の海に沈められる過程が描かれていましたが、今日的な問題として、絶対負けるわけにはいきません!再び戦争への道が待っているからです。2回の先生の話を聞き、「国家」とは本質的に人民を打倒するゲバルト性にあると確信しました。ナチスのファシズム支配はその極限にあるもので、これからブルジョアジーがやることは、そのむき出しの「支配」を貫徹することに他なりません。敵の本性が見えてきたということです。今年は本当に、労働者階級と資本家階級が利害をかけてぶつかる年になります。決意も新たにがんばっていきたい。
革命後の社会のあり方について、去年よりは考えやすくなっていました。「諸個人の自覚した協力体、結合体」がどうやって作れるのか、あるいは「自覚した」の自覚の中身は具体的に何なのか、を考えていくことが重要だと思います。
一部授業中に質問しましたが、具体的なイメージにはなりませんでした。どうしても「何でロシア革命は失敗したのか」(これもいつも聞いているのですが)がよく見えないのですね。これは「自覚」していたはずの労働者が実はそうではなかったからなのか。それを「それはスターリン主義だから」の一言では、やはりよく分かりません。「何でスターリン主義が生まれるのでしょうか」という質問をすればいいのでしょうか……。そして、この「自覚」した労働者に自分はどうしたらなっていくのか……。今の職場の問題にぶつかりながら考えていくしかないと思います。
それにしても質問に対して非常に丁寧に答えて下さる先生の姿勢に感銘致しました。
最近考えていることだが、マルクスやレーニンを読む時には、そこに書かれている冗談や皮肉、語尾にいたるまで、そこに込められたニュアンスを正確に読み取られなければいけないということである。
コミューンの世界史的歴史的意義をはっきり確認しつつ、1つ1つの政策はわかりやすい「民主主義的」なものであり、コミューンの4原則の1つ1つも「〜にすぎない」と、わざわざ確認されている。そこに、コミューン「国家」とは、今までの国家のような神秘的なベールにおおわれたものではなく、労働者の力で十分に作って運営できるものということを強調していると思う。
実際にコミューンの4原則も、マルクスやその他の人たちが、上から教えたというよりも、現実の必要性と革命直後の労働者階級の自己解放性、高揚の中から次々と下から自然な要求として出され、実現にうつされたものであるらしい。
「〜にすぎない」という言葉から、「国家を運営する」ということは、特別な能力、イデオロギーを必要とすることではなく、労働者の力で団結と自己解放性があれば、十分出来るということを、ニュアンスとして出していると思う。
「コミューン」のもつ理論、その世界史的、歴史的意識ということを強調することは絶対に重要であるのだが、そればかりを強調すると、いくら正しいことを言っても「だから、特別な能力を持つ人にしかできない。だから支配階級が独占するしかないのだ」という考えになりやすいので、特定の党派や後半部分でわざと1つ1つは実際は「〜にすぎない」と強調しているのだと思う。講師の講演でそこが強調されていて、なるほどと思いました。
1)プロレタリア革命、プロレタリア国家を考える時、実はきわめて単純なもののとらえ方が重要なのだと思う。そして、だからそれはまったく可能なのだということだ。
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幾重にも複雑に覆い隠され、ブルジョア国家の支配下で、私達の意識さえもがその影響から自由ではないために、分かりづらくなっているが、むずかしいことではない、単純だ。
実は、現に労働者階級は全体を郵便の型のように組織する可能な共産主義!すでに労働者はその能力をもっているのだ。
2)パリ・コミューンが動き始めた時、労働者一人ひとりにとってそれはどれほど胸おどる体験だっただろうか。初めて生きていることの喜びにふるえるような瞬間!人類史はまったく新しい歴史にふみこんだのだ。
3)2006年をどう闘うか。
田中委員長は、「時代が激しく動いている現在、敵の激しい攻撃は必ず労働者の団結をうみだす」と断言。「退路を断って、原点の戻って闘う時であり、ここをあいまいにした場合、中途半端なことをやっていたら、動労千葉も潰れる。困難かもしれないが、もう一度、組合の団結を固めて退路を断った時、労働者の時代を開くことができる」と、非常な決意を語った。そして06春闘からこの時代の主役としておどりでることを宣言した。
労働組合が団結を固め、職場から立ち上がることこそが、この時代を切り開く闘い方なのだ。そしてこれを恐れる敵、国家権力、資本家も、ここに焦点を据えてきているのだと。
4)「ソ連スターリン主義は革命から生まれながら革命を裏切った。だから崩壊した。いいじゃないか、われわれがマルクス主義、レーニン主義を復権するのだ!」
ゆがめられたマルクス主義、しかし、現に闘っている労働者階級がいるじゃないか。今こそ原点に立ち戻るのだ。
5)4つのコミューン原則
労働者が階級として団結し、敵階級と対峙した時、それは必然的に発見され、力となるものなのだ。労働者の階級的団結、この力こそが歴史を開くことを確信する。
私は今日の授業で、昨年よりもはっきりわかった2つの確信がありました。1つは、「労働者が階級的に自己を解放するためには、いったんは革命によって支配階級となる必要がある」ということです。もう1つは、革命は労働組合とソビエト(コミューン)と党が「有機的に一体」となり進行させていく中で実現していけるということです。それから今日の授業で大変感動したのは、ロシアに「真の労働者が主人公となる革命を、その実現まで二度でも三度でも革命を起こそう」と言って闘った労働者達がいたということです。
ケン・ローチ監督の「大地と自由」を先日観ました。何度も何度も観て、大切な歴史の文献を読むみたいに、セリフを覚えて観ました。今日の授業では、この映画で観たいくつかの場面(歴史の事実)が、私の想像を助けてくれて、理解しやすかったです。
例えば、労働組合を中心とした民兵が武装してファシストと(ファシストの軍隊と)闘うということ。これまで「暴力」を考える時、ついつい抽象的になり、やっぱり暴力は基本的には反対だけど……みたいなところではっきりとリアリティをもって、正しい暴力があると言えませんでした。けれども「大地と自由」を観て、今日の授業を受けて、私は国家を倒し、労働の場、生産手段を取りもどし労働者の解放を現実のものとしていくための正しい暴力がはっきりと分かりました。イメージもつくし、言葉も持ったという感じです。もっとはっきり感覚としてわかるには、実際にそういう場面に飛び込んでいく(あるいはつくっていく)中ではっきりするとも思いますが……。
それから、ファシストに支配される村を民兵が闘って解放して、その後村の農民・労働者が会議をするシーンが「大地と自由」の中であるのですが、この会議で出される意見や決定していくことをかみしめればかみしめるほど、今日の授業で得た確信・学びの一つである労働者が支配階級となる必要があるという意味が分かります。
"地主の土地を共同農園にして、とにかく前線で戦う仲間に食糧を"という議論を村民達がするのですが、その中で「地主の土地を共同農園にするのはいい。でも、私みたいな小さな土地、私が開墾した土地は、共同農園にしたくない。私が耕したい」という趣旨の主張をする人がいるのです。そこでの議論は、マルクス主義がなければ成り立たないし、決定の仕方(ここでは多数決でしたが)は、かなり強引で、抑えつける形をとりながら「すべての土地を共同農園化」というものでした。この会議は普通の学級会とか国会みたいな会議ではなく、古い関係の復活の傾向や、階級社会の中で身につけてきた常識や、支配されてきた"欲"に対し、単に「説得」するものとは違い、結果として押しつぶすものだと思いました。今日の授業を受けるまでは、このシーンを強引だなーという思いがあって、うーん、これでいいのかなーとも思っていました。ところで、この村はこの先どうなったかは別に映画では描かれていませんが、私は今ならいろいろ想像できます。歴史の事実は、その後スターリン主義が革命を押しつぶしていくのですが、もし、そうでなかったら……。多数決で決めた「自分の小さな土地も差し出して、共同農園化して生活をしていく」というのを実践していくことになる。これが本等の説得力になっていくのではと思うのです。
国家という概念が一般にはあって、普通に一個人として生きていても国家が支配している部分があって、それは法だったり社会だったりする。そこに存在する一個人が社会を形成しているのに、国家という物質ではない観念が集団として形成され、認識できる形ではないものの社会を支配しているんだと思った。物質や形と切り離されていて見えるけれども、実はその形や物質もろとも支配されたところに作られているんだと思った。
国家に支配されない心は何にも頼らない、金や権力、法に頼らない観念を超えたところにあると思う。
今は、サービスが資本からつくられ、それを仕事にさせられているけれど、サービス、介護や様々な仲介やらは仕事じゃなく、金などなくても本当はできるのに、お金がないと受け取られなくなっている。
いろんなことが法や金がないとできなくなっていて、それをまた仕事や規制緩和とか言って資本ブルジョアジーにとっていいようにうまく導かれているけれど、本当はそんなこと人間として当然のことを金がないとできない、法がないとできない、国家が動いてくれないとできない〜なんて言わせられている。
いやいや、労働者達が解放した時は当たり前なんだ、できることなんだと、国に頼らなくても会社じゃなくても自分たちが主導権を握ればできるんだと。その世界にしたい。何の、誰の犠牲もない時、分かち合える、共有できると思う。
なぜ国家(今の)を打倒しないとならないのか、動労千葉の闘い、日米韓の国際連帯の意義がとてもわかりやすく、力強く明快に説明していただいたように思う。先生も言っていたが、現実に起きている労働者の闘いが、今回の講義の中身、理論を(マルクス主義を)肉付けしているよう実際感じることができ、うれしく思いました。
国家の本来的な姿がむき出しになってきている現在、私のいる自治労がどう闘うのかが本当に問われている。公務員労働者が国家(当局)の側につくのか、労働者として闘いに立ち上がることができるのか……。路線を間違えば、同じ労働者が当局の手先になりえてしまうのでは。やはり労働者が公務を担う、自治体を担う、天下をとる必要がある。その思いを、必要性を痛感させてくれた講義だったように思います。
観念的な国家像を、資本家階級の道具であるという本質をいかに暴いていき、仲間をつくるのか。しっかり学んでいければと思います。
今回は、前回の復習から始まり、〈国家の発生と消滅〉〈プロレタリアートの独裁と国家の死滅〉の講義でした。その中で、第一に重要な点、「国家権力は、革命によって労働者階級の力で打倒しないかぎり消滅しない」。二点目、「労働者が階級的に自己を解放するためにはいったんは革命によって支配階級となる」。三点目、「労働者国家はすでに本来の意味の国家でない」
その中での1871年のパリ・コミューン、労働者が世界史上初めて、自分の政治権力を樹立したこと(2ヶ月であったけれど)。
1917年のロシア革命の確立。この二つの革命こそ、労働者がブルジョアジー(国家権力を打倒して)はじめて労働者の国家を作った階級の支配ない社会を作ったということは、すごいことだと。でも、なぜつぶされてしまったか。それは、指導者の考え方。(ロシア革命のように全世界の労働者に呼びかけておきながら)
労働者が国家を確立するということは、全世界の労働者と団結して、帝国主義国家権力を打倒すること。
<事務局から>
いよいよ第5期労働学校・基礎講座もあと2回を残すのみとなりました。「労働運動の半分は勉強すること」です。たくさん学んで、思う存分闘って、実践講座に進みましょう!
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