動労千葉結成から早くも20年を迎えることになりました。この20年は、多くの困難を乗り越えた組合員そして家族の団結と、全国からの支援に支えられて歩んだ年月でした。
今、この20年を振り返ってみますと、想いは動労千葉結成以前の20年にも及びます。結成以前の20年が、動労千葉の20年を支える組織力の基礎をつ くったように感じるからです。とくに、60年代後半のマル生粉砕闘争と、青年部問題を発端として、関川前委員長を中心とした地本の新体制を確立する過程で 動労千葉の基礎は形づくられました。
私白身も、マル生当時の職場の異様な暗い雰囲気のなかで、それに対する反発から当時所属していた千葉気動車区支部の執行委員になったのです。それが運動 の始まりで、その後、電化に伴う気動車区の廃止という状況のなかで、千気支部の最後の支部長を引き受けることになりました。
千葉気動車区は、当局から「無法区」と呼ばれ、最も激しいマル生攻撃を受けました。まず管理者が全て集められ、組織切り崩しの号令が下り、機関助士廃止 19万人合理化の提案とあわせて攻撃が始まりました。職場ではマル生分子とのいざこざが絶えず、ストライキに対する反対行動が煽られ、スト破りが拡大しま した。闘いは生活をかけた組織の攻防戦になり、多くの組合員が自動車の免許をとるなどして、首をかけて闘いに起ちあかつて、この攻撃をはね返したのです。
その後、いわゆる青年部問題がおきます。関東青年部や本部青年部の会議や行動で、千葉に対する集団暴行事件が多発するようになり、本部は逆に千築地青役 員を無期限の権利停止処分にするという暴挙が行われました。しかも、各支部や各分科会から処分撤回の決議があがる状況のなかで、当時の地本執行部は本部方 針を受け入れるという立場でした。この時もやはり千葉気動車区支部が先頭にたって処分撤回を求めました。一年間に6回もの臨時大会が開催され、73年9月 の勝浦大会で、関川委員長1中野書記長の新体制が確立されたのです。この大会も会場は時間切れになり、海岸に場所を移して続けられました。
また、動労本部からの分離・独立の闘いも、全国大会であれ中央委員会であれ、どちらの主張が正しいのか、組織をあげて参加させ全体で闘いぬきました。その結果、言われなき好誼中傷に対する反発が団結力になりました。
私は、動労千葉が20年間闘い続けられた原動力はここに生まれたと考えています。
動労千葉結成前後の40年あまりの闘いは、それぞれに想いがありますが、国鉄労働者にとって最も大きな試練だったのは、やはり国鉄分割・民営化攻撃との 闘いでした。マル生の時もそうでしたが、まさに生活をかけた闘いでした。しかし、各支部の執行部も、現場の組合員も、みんなが腹を固めはをかけて起ちあが るという雰囲気になりました。この力も一朝一タにできあがったものではなかったと考えています。それにしても、マル生のときですら、今みたいな極端な差別 をすることはできませんでした。JRになってからの差別や組織破壊攻撃は、まさに異常です。
動労千葉は、労働運動がどんどん後退する状況のなかで、原点を守った運動を20年間続けることができました。このことのもつ意味は大きいと思います。首 切りや賃下げ攻撃がふきあれ、一方では新ガイドラインとか、労働法制の改悪など、政治反動の流れが激しくなる状況のなかで、今こそ労働組合がしっかりとし た方針のもとに運動しなければ大変なことになります。労働者のための労働組合という原点にたち返ることが求められています。今後も、動労千葉が労働運動の 原点を守り、全国の仲問たちとともに力強く運動を展開することを期待します。 |