大須賀君が亡くなったのは1991年1月のことでした。彼は、不当解雇された仲間たちの生活と闘いを支えるためにビルメン会社をたち上 げようという計画のもとに、懸命の努力をしていました。そして、数年に及ぶ準備期間を経て、いよいよという段取りのときでした。無理がたたったのだと思い ます。突然倒れて帰らぬ人となりました。
大須賀君は、普段は温厚でやさしい性格の人でしたが、こうと決めたことは絶対最後までやり通す、真面目さと芯の強さをもっていました。また飲めばおもしろい人で、最後には奥さんと一緒に「新宿そだち」を歌います。
国鉄分割・民営化をめぐる闘いの時も、成田支部ではずっとローテーションで組合事務所への泊り込み体制をとっていましたが、支部書記長だった彼は、ほと んど家に帰らず組合事務所に寝泊りしながら闘いの指導や組合員の相談にのっている状態でした。成田運転区の廃止、そしてそれに伴う支部組合員の配転という 過程では、一ヵ月以上個別オルグを行い、相手の話を聞き、自分の意見を述べ、支部としての方針を固めていくということを続けました。こうした組合員一人ひ とりとの個別対応がうまくいかないと職場はまとまりませんし、団結は強化されません。大須賀君は、つねにこうした活動の先頭を担っていました。
私もそうでしたが、彼ははじめ民青に入っており、奥さんもそのサークルで知り合い一緒になったのです。しかし、その彼が変わったのは三里塚闘争を通して でした。当初は反対していた共産党はそのうち闘いから逃亡し、その一方で権力は激しい弾圧を強めていきます。結局、「こんなことではだめだ」という思いで 民青をぬけることになったのです。その後の大須賀君は、75年に地本青年部長に選出され動労本部革マルとの闘いの先頭にたち、81年からは成田支部書記長 として、つねに動労千葉の運動を牽引し続け、1986年の第二波ストを理由として不当解雇されたのです。
今大須賀君が生きていれば、一〇四七名の解雇撤回闘争や闘う労働運動の新しい潮流を創りあげる闘いにとって、どれだけの力を発揮していたことか、残念で なりません。しかし、彼の遺志はわれわれが引き継ぎました。結成20周年を新たな出発点として、動労千葉の大躍進をめざす決意です。 |