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◆追悼   悲しみをのりこえて◆

関川さんの思いで

 

総武支部 高野 隆

 関川さんが亡くなったのは1997年9月のことでした。動労千葉が、分 割民営化という大変な嵐に立派にたち向かい、団結を守りぬいて堂々とJRにのり込んだことを見とどけるかのようにして、61才という若さで逝去されたので す。関川さんの出身職場であり、私もともに闘った成田運転区も、この攻撃の渦中で廃止されました。関川さんにとっては、それだけが残念だったに違いありま せん。
関川さんが動労千葉地本の委員長に就任したのは、1973年のことです。動労本部と千葉地本の対立が激しくなっている時で、青年部に対する統制処分を受 け入れてしまったそれまでの地本執行部に対する怒りが職場で高まり、旧執行部は総辞職してしまうという状況でした。何度も何度も臨時大会が開催され、それ でも結論がでないなかで、関川さんが委員長をかってでたのです。このときの関川さんの決断がなければ、今の動労千葉はなかったかもしれません。
関川さんは、かなり遅くなってから組合運動に身を投じました。1967年の成田支部書記長が始まりで、それからわずか7年で、本部との対立が激しさを増 すなかでの委員長ですから、大変な決断だったに違いありません。後でうかがった話では、委員長就任にあたって地元の親しい友人宅を訪ねて、「今度、委員長 という職に就くんだけどまいったなあ、大丈夫かなあ」と相談されていたということです。
しかし、関川さんに指導された千葉地本はその後めざましい闘いを展開し、暴力的な動労本部のオルグ団投入をものともせず、分離・独立をはたして全国に誇れる労働組合になりました。
関川さんは、気取らず高ぶらず、義理人情に厚く、真正直で多芸な方でした。組合専従になってからも、闘争で組合員が職場に篭城しているときなどは、必ず 職場に寄ってくれて、膝をまじえて談笑したり激励をしたりしてくれました。また地元では長い間楽団の編成に携わっており、組合の旗開きなどでも自ら アコーデオンを弾いて組合歌を歌うような人でした。その飾らぬ人柄が動労千葉にものり移り、私たちの伝統になって今日まで受け継がれています。
関川さんが亡くなられてから10年、私もあとわずかで退職という歳を迎えましたが、あらためて心から感謝し、動労千葉のますますの発展に向けて全力を尽くす決意です。

 

大須賀君の思いで

元成田支部 高柴 康

 

大須賀君が亡くなったのは1991年1月のことでした。彼は、不当解雇された仲間たちの生活と闘いを支えるためにビルメン会社をたち上 げようという計画のもとに、懸命の努力をしていました。そして、数年に及ぶ準備期間を経て、いよいよという段取りのときでした。無理がたたったのだと思い ます。突然倒れて帰らぬ人となりました。
大須賀君は、普段は温厚でやさしい性格の人でしたが、こうと決めたことは絶対最後までやり通す、真面目さと芯の強さをもっていました。また飲めばおもしろい人で、最後には奥さんと一緒に「新宿そだち」を歌います。
国鉄分割・民営化をめぐる闘いの時も、成田支部ではずっとローテーションで組合事務所への泊り込み体制をとっていましたが、支部書記長だった彼は、ほと んど家に帰らず組合事務所に寝泊りしながら闘いの指導や組合員の相談にのっている状態でした。成田運転区の廃止、そしてそれに伴う支部組合員の配転という 過程では、一ヵ月以上個別オルグを行い、相手の話を聞き、自分の意見を述べ、支部としての方針を固めていくということを続けました。こうした組合員一人ひ とりとの個別対応がうまくいかないと職場はまとまりませんし、団結は強化されません。大須賀君は、つねにこうした活動の先頭を担っていました。
私もそうでしたが、彼ははじめ民青に入っており、奥さんもそのサークルで知り合い一緒になったのです。しかし、その彼が変わったのは三里塚闘争を通して でした。当初は反対していた共産党はそのうち闘いから逃亡し、その一方で権力は激しい弾圧を強めていきます。結局、「こんなことではだめだ」という思いで 民青をぬけることになったのです。その後の大須賀君は、75年に地本青年部長に選出され動労本部革マルとの闘いの先頭にたち、81年からは成田支部書記長 として、つねに動労千葉の運動を牽引し続け、1986年の第二波ストを理由として不当解雇されたのです。
今大須賀君が生きていれば、一〇四七名の解雇撤回闘争や闘う労働運動の新しい潮流を創りあげる闘いにとって、どれだけの力を発揮していたことか、残念で なりません。しかし、彼の遺志はわれわれが引き継ぎました。結成20周年を新たな出発点として、動労千葉の大躍進をめざす決意です。

磯部さんの思いで

千葉機関区支部 柴崎 良夫

 動労本部より分離独立してはや20周年を迎 えることとなった。今、その20年を考えるとき、やはり分離独立前の組織争闘戦が鮮明に思い出されます。職場はもとより出先での、当時の動労本部のしつこ いオルグ団、そして、動労本部オルグ団の無軌道な行動のなか、動労千葉新小岩支部結成大会を準備し、成功させたことが私の脳裏に焼きついて離れません。
その成功に向けて、いきり立ったわれわれを冷静に指導してくれたのが磯部さんでした。
その後、推されて本部執行委員として、あの厳しかった「分割・民営化反対」の二波の闘いで、私たちの代表として、闘いの先頭で頑張り、悔しくも不当処分 の対象となり、国鉄当局と変質した動労本部の癒着のなかで「JR採用」を希望したにもかかわらず清算事業団に送られることになってしまいました。あの 1987年2月のでき事に対する、磯部さんはもとより、私たちの悔しさ、怒りは、忘れることができません。
しかし、佐倉清算事業団での三年間、私たちがときどき訪ねた時なども、われわれJRに採用された仲間を心配させないようにと、彼はいつも明るくふるまっ ていました。しかし「分割。民営化」3年後の1990年3月31日の日比谷野音での集会の時に、磯部さんの進路選択についての苦悩を知った時、私はこの三 年間何も力になれなかったことを本当に申し訳ない気持ちでいっぱいでした。
そんな磯部さんは、解雇撤回に向けた決意も新たに新しい職場にも慣れ、張り切っていた矢先の5月中旬、勤務中の仮眠時間に突然帰らぬ人となってしまいました。家族はもちろん、私たち仲間もその訃報を信じることができませんでした。
今ふり返ってみると、彼とは国鉄入社以来、学園教育(助士科・機関士科)等、いつも一緒でした。特に趣味で職場の登山クラブに所属し、全国の名山も数多 く登りましたが、彼は計画から下山まで仲間のなかでいちばん慎重で、その慎重さですいぶん楽をさせていただいたような気がします。最近、昔の仲間とときど き山に行くことがありますが、そんな時、彼がいたらと思い出すことが多々あり、元気でいればと本当に残念です。
私たちは、磯部さんの清算事業団での3年間の精神的な苦痛、侮しさを忘れることなく、磯部さんの遺志を引き継ぎ、磯部さんをはじめ清算事業団の仲間の厚地ふ原職復帰に向け関いぬかなければなりません。