動労千葉の前身は、国鉄動力車労働組合(1950年に機関車労働組合として結成され、1957年に名称を変更)千葉地方本部である。
千葉県と東京都新小岩地区の運転士と車両のエンジニアで組織した労働組合である。動労千葉組合員の職場は、千葉県全域と東京駅を含む東京一部地域に及んでいる。現在組合員数500名。その他にリタイア労働者もOB会として組織している。企業側の新規採用の徹底抑制が続き、新規採用再開後も企業の差別政策で、採用時に動労千葉への不加入を強制されている。だがわれわれは民営化後も30数名の組織化に成功している。
結成当初はけして戦闘的労働組合ではなかったが、60年安保闘争や、320人もの死者をだした62-63年の三河島・鶴見における鉄道事故への怒り、機関助士廃止−5万人合理化反対闘争、ベトナム反戦−70年安保・沖縄闘争、さらには「生産性向上運動」による激しい組合破壊攻撃(わずか2年余りの間に動労・国労の組合員が6万名も減少した)との闘いの勝利のなかで、今日の土台が築かれていった。
また、動労千葉地本にとって重要な意味をもつ二つの闘いがあった。
ひとつは、合理化や人員削減によって列車の安全運行が脅かされ続けている職場の現状に対する闘いである。72年千葉県船橋駅で列車衝突事故が発生し、組合員が逮捕された。われわれはこれに対し「資本の利潤追求の結果安全性の確保が軽視されたことによって起きた事故である」という立場から、数波によるストライキ、減速闘争をもって闘い、当該組合員の解雇を断念させ、職場復帰をかちとった。以降、「闘いなくして安全なし」はわれわれの最も重要なスローガンとなっている。
もうひとつは、軍事空港建設に反対して闘い続けられている、日本における戦後最大の農民闘争であり、反権力闘争である成田(三里塚)空港反対闘争との連帯である。われわれは空港の開港に向けて、国家権力による激しい弾圧が反対派農民に加えられる状況のなかで、労農連帯をかけて1977〜78年、空港へのジェット燃料の貨車輸送を拒否する「100日間闘争」を闘いぬいた。
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