様々な和解策動と5/28反動判決
 第2期は、1047名が不屈の長期自活闘争体制に入る一方、中労委を舞台にしてさまざまな和解工作が展開され、それが全て破産する過程である。88年以来、採用差別事件で全地労委が組合側完全勝利の命令をだした。国鉄改革法23条という狡猾なからくりを使って断行された首切りりが、国家的不当労働行為以外のなにものでもないことが全面的に明らかになったのである。
 労働委員会闘争は、闘いの場を中労委に移したが、中労委はいつまでも命令を交付しようとせず、「3者懇」などの場で国労を和解という名の屈服にひき込もうとした。だがそれはいずれも失敗に終わり、中労委は92年5月28日に一旦採用即退職という断じて容認することはできない「最終和解案」を提示することをもって闘争終結策動を断念、93年12月24日の政治的反動命令にいたる。このときも、地労委命令を踏みにじるこの反動命令を受け入れようとする動きが国労本部や弁護団の一部に生みだされたが、闘争団を先頭とする現場の怒りの声にはね返された。

●「8/30申し入れ」と5・28反動判決
 第3期は争いの場を裁判所に移すが、実際の攻防は政労使交渉をめぐって展開された。最大のでき事は、94年12月の亀井運輸相による202億スト損賠訴訟の取り下げである。これは一面では闘争団を先頭とした国鉄闘争の不屈の継続がつくりあげた極めて大きな地平であると同時に、他面では、力づくでは(とくにJR総連革マルの力によっては) つぶすことができないと判断した国労と国鉄闘争を、からめ手で買収し、解体しようとする攻撃であった。実際、国労本部はこれを契機として政労使交渉路線に全面的にのめり込み、政府の国労取り込みJR連合化の画策に国労側から呼応するものとして96年の「8・30申し入れ」がだされる。その核心は、国鉄改革法の承認と1047名闘争団の切り捨てにあった。だがこれも現場からの厳しい批判にさらされる一方、そもそもJR側からもはねつけられるなかで、政府・運輸省主導の闘争終結策動は完全に暗礁にのりあげたのである。
 99年の5・28東京地裁判決は、清算事業団解散の期限が追るなかで、あせりにかられた国家権力がいっさいの幻想的ベールをかなぐり捨てて、再び問答無用のやり方で、国鉄闘争を解体する路線に舞い戻ったことを示した。だがそれは、闘いをつぶす手段を失った敵の追いつめられた姿でもあった。
 また、全国の地労委、中労委が一致して認定した不当労働行為を、憲法28条や労働組合法よりも国鉄改革法を上に置く論理で全面的にくつがえした5・28判決は、全国で苦闘する多くの労働者の激しい危機感を生みだした。「こんなことがまかりとおったら、首切りも不当労働行為もやりたい放題になる!」。この怒りの声を結集し、逆に反撃への転機とすることが求められていた。動労千葉は、直ちに5/28判決弾劾署名の取り組みを開始した。この署名運動には、全国からたちまち532の労働組合と213名の学者・弁護士・知識人の署名が寄せられた。全国の仲間たちの危機感の深さは、われわれの予想をもこえるものであった。

国労闘争団 5.28版同判決弾劾!
●「補強案」をめぐる激しい分岐
 しかし、国労の一部役員は、この5/28反動判決によっていわば骨を折られた状態となる。判決直後の大動揺、5/28反動判決と期を一にして噴出した、国鉄改革法の承認や国労の名称・組織形態変更等の全面降伏要求に対する、自らを辱めるような対応をへて、 ついに98年8月の国労大会では、政府やJR、JR連合などに突きつけられた要求どおりの「補強案」を突如提案するにいたるのだ。
 今国労のなかでは、国労の自己解体に等しいこの「補強案」をめぐって、現場からの猛然たる怒りの声が噴出し、200通をこす意見書が本部に集中するなど、激しい路線的分岐がおきている。