総評の解体と

 国鉄分割・民営化

 

 動労千葉が81年3月ジェット闘争をたたかいぬいた直後の81年3月16日、第2次臨時行政調査会が発足した。さらに同年9月には国鉄等三公社の改革をテーマとする第4部会が設置され、11月には「戦後政治の総決算」を標榜する中曽根政権が登場、そして同年暮からいわゆる「ヤミ・カラキャンペーン」と称された、マスコミあげての国鉄攻撃が一斉に始まった。
 周到な準備のもとに開始された攻撃の最終的目的は、今日ではすでに中曽根白身が公言しているとおり、右翼労線統一の動きと一体となって、総評労働運動を解体すること、その最大の障害となっている国鉄労働運動、とくに主力部隊である国労を解体することにあった。

  まず国鉄分割・民営化攻撃との攻防の全体像を俯瞰しておく。
 第一にこの攻撃は、いうまでもなく全国単一の公共企業体としてあった国鉄を、「赤字解消」などのペテンを弄して、7つのJRその他に分割し、民営化した。
 第二にこの過程で、35万人体制合理化が始まる直前の80年には42万人だった国鉄職員が21万人(87年4月時点)にまで削られた。つまり2人に1人というすさまじい要員削減・首切り攻撃が進んだ。  
 そして第三に最も重要なことは、国鉄労働運動を解体しつくそうとしたことだ。マル生攻撃の失敗で骨が折られた鉄労に代わって、その尖兵となったのが革マルが牛耳る動労本部であった。    
 第四に、最大の焦点であった国労は、指導部の無方針のもとで一戦も構えることなく大きな後退を強いられた。動労千葉は渾身の力をつくしたたたかいへの決起によって満身創痍となったが、政府・自民党は動労千葉・国労の解体に失敗し、国鉄労働運動はその骨格を守りぬいて、JR体制下での果敢なたたかいが継続されることになった。  
 こうして国鉄の分割・民営化は強行されたが、この攻撃とのだたかいは、87年4月JR体制以降後、そして今日まで、何ひとつ決着を見ることなく、延長戦がたたかいぬかれているのである。

第二臨調の発足

   「ヤミーカラキャンペーン」「国鉄労使国賊論」等、「カラスが鳴かない日はあっても、国鉄のことが新聞に載らない日はない」といわれた洪水のような反国鉄キャンペーンを背景に、第2臨調は、82年7月の基本答申で、正式に国鉄の分割・民営化と新経営形態移行までの「緊急11項目」
を打ちだした。
  しかしこのころは、国鉄を分割 ・民営化することについて、まだ臨調、自民党、国鉄官僚の間にきしみが残っていた。だが職場規律確立をはじめとする緊急11項目については一体であった。国鉄当局は82年度を最後に新採を停止して徹底した要員削減攻撃を開始したが、なによりも国鉄労働運動の解体が彼らの一致した至上命令となっていった。

  同時にこの過程は、激しい攻撃の予兆を背景として、国鉄労働運動の内部に、急速にとたかう者と裏切り者の分岐をつくっていった。