動労革マルとの対立の激化
70年代前半の対立は、70年代後半の三里塚ジェット闘争の渦中で、いっそう非和解的な関係となっていいた。
75年動労全国大会 千葉地本傍聴者に本部革マルによる暴行 (松山大会)
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線路改善闘争
75年以降、千葉でレールが非常に劣悪化し列車が激しく振動するので、線路の改善闘争をやった歴史があります。乗務員分科会が自分の足で各線区を歩いて線路の状態を調べ、そのデータを団体交渉の席上に持ち込んで、『この現状を見ろ』と。このときはわれわれ素人ですから、当時の線路を主管している施設部長や課長あたりは「だいたい素人がなにを言っているんだ」とまともに対応しない。それに対してわれわれは安全運転闘争を対置した。
つまり線路が悪くなる原因は、線路保守の手抜きがひとつ、それと同時に列車のスピードアップがあるんです。スピードアップとは同時に激しくブレーキをかけることになりますから、物理学の原則で必然的に、車両とレールの双方に衝撃が非常に強くなる。だからレールがたちどころに悪くなるということが、ほんの半年ぐらいの間に起きた。それを動労千葉としては、「外房線は制限速度何キロ以下に抑えろ」「内房線はこれにしろ」「総武本線はこういうふうにしろ」ということを全部組合で方針化し、その指令どおりに乗務員が運転した。その結果、トータルすると1日約五千分ぐらい遅れが出た。それをダイヤに組み込ませるという闘いをやった。文字どおり「ダイヤ改正」になった。
今までは、ダイ改のたびに労働条件が悪くなるからダイヤ改悪反対と言って闘争をやったが、国鉄労働運動史上始めて、ダイ改で労働条件が良くなった。その間に線路も修復されていく。
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