東中野事故1988年12月5日

 スト権スト以来の大闘争

 まさにJRの運転保安は危機に瀕している。千葉では、JR移行の翌年88年12月に、「赤信号をこえて運転せよ」という規程に違反した指導文書が配布され、その直後に東中野駅で列車衝突事故が発生し、運転士と乗客の生命が奪われるという衝撃的な事故が発生した。また同じ時期に上越線、東北本線、函館本線などで貨物列車の脱線転覆事故などの重大事故が激発する。
 動労千葉は、「たたかいなくして安全なし」「だたかけなければ殺される」を合い言葉として、直ちに安全運転・減速闘争の指令を発してたたかいに突入すると共に、当局の責任を徹底的に追及し、東中野事故一周年を期して、89年12月5日に24時間ストに起ちあがった。運休350本。JR発足後初めての本格的なストライキである。
 動労千葉の要求は、@東中野事奴以降の事故原因究明、責任の明確化、A公平な士職登用、B強制配転者の原磯復帰、などであった。東中野事故への怒りの抗議と運転保安確立への切実な要求を発端としたこの時期のだたかいは、清算事業団闘争の山場とも重なり、営業、検修を中心とする11・20、11・30ストに始まり、翌年3月の84時間ストまで総計8波に及ぶ、スト権スト以来の集中的な大闘争となった。
 

東中野事故に抗議(88年12月7日津田沼)


89年4/17スト(新小岩)


89年4/1スト
   
 92・3ダイ改は、改悪動乗勤制度の適用開始、「時短」による新たな勤務制度導入など、JR東日本における大合理化の扉を一挙に間こうとする攻撃であった。しかしJR東労組は、前年11月段階で動乗勤改悪を裏切り妥結しようとしていた。動労千葉は11月18日、水戸の動労車労組、動労総連合とともに三組合の委員長のよびかけで前乗勤改悪阻止に向けた「全動力車乗務員集会」を開催、11・22第1波ストを動労総連合の統一闘争(正午から16時まで)として、さらに11・26ストを始業時から15時まで敢然と闘いぬいた。
 このストでは、当局・JR東労組は、東京からスト傲り要員を一切送り込むことができなかったが、これば動乗動改悪への裏切りをめぐる東労組の内部の怒りと動揺の大きさを示していた。続いて動労千葉は、91年2・21ストを本線運転士の9時から15時までのストを軸に、92/3ダイ改に対する唯一の反撃としてたたかいぬいた。
NEXT