(1)はじめに
非常に大変な情勢の中で、しかしもう一面では極めて展望がある情勢の中で、皆さんの闘いが始まるのだと、冒頭に私も申し上げたい。
今日は二つの点で話をさせていただきます。
一つは、国鉄闘争が文字どおり国鉄労働者・JR労働者のみならず、日本の全労働者の未来を決する基軸になって来た。現在に至るもそうである。この基軸性をわれわれがしっかりとつかむ限り、勝利の道を突き進むことができるという点についてです。
もう一つは、今度の外注化阻止決戦を勝利に導く最大の武器は、動労千葉が長い歴史の中で闘いとってきた反合・運転保安闘争の路線にあるということ。このことについて述べてみたいと思います。
(2)戦後日本労働運動と国鉄闘争
①戦後革命期情勢の高揚と挫折を決めた国鉄労働運動
◎47年2・1ゼネストに向かう闘いの爆発
まず歴史の話になりますけれども、日本の労働運動は戦後、文字どおりの革命情勢の中で闘いを始めます。「おっ、日本に革命情勢なんかあったのか」と思う方もいるかもしれませんが、1945年8 月15日の敗戦、日本帝国主義の敗北以来、労働運動はもの
すごい勢いで爆発していきます。当時の情勢はものすごい食糧危機、飢餓です。
他方で大失業です。どんどん戦争から復員してきます。しかし、国内の産業はあらかた破壊されておりますから、膨大な失業者が街中に溢あふれます。当時の政府の統計で1399万人が失業中です。残った工場もほとんど稼働していません。賃金は欠配です。
こうした状況の中から労働者人民の怒りが爆発していきます。その中心が、国労65万人、全逓50万人です。この二つを中心に全官公庁共闘会議が形成されます。これは160万人です。
さらに民間も含めて400万人の労働者が結集して敗戦の翌々年47年、2・1ストに向かいます。スローガンは飢餓賃金突破と吉田内閣打倒でした。労働者のゼネストで、時の内閣を打倒する闘いです。
その過程で46年8月にはナショナルセンターが結成されます。産別会議と総同盟。「左右」の二つのナショナルセンターです。10月闘争があります。国鉄、海員、電産への解雇攻撃でしたが勝利しました。首都圏の先進的地区に工場代表者会議がつくられました。地区の先進的な労働組合と労働運動活動家が会議に結集して、未結成の工場や職場の組織化が進められていく。
そしてただちにストライキが始まり、共闘が組織され、指導の問題を解決していく。「地区ソビエトの萌ほ う芽が」と考えて良いと思います。さらに闘いはストライキから工場占拠・職場占拠に、そして生産管理(業務管理)闘争に発展しました。
◎2・1ストの敗北を導いた共産党
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そのような嵐のような状況の中で2・1ストに向かって前進するわけです。内閣打倒のゼネスト決行は、国鉄という大動脈と全通信網を労働者が遮しゃだん断し、全産業で労働組合が資本の支配を圧倒し、労働者階級が占領軍支配と真正面から対決することです。それに対して日本は当時占領下ですから、マッカーサー、当時のGHQ(連合国総司令部)がゼネスト中止命令を出した。銃剣をもって弾圧に出た。それに対して2・1ストの指導部であった日本共産党系のリーダーたちが総屈服する。
この2・1ストを敗北に導いたのは、当時の産別会議を指導した日本共産党そのものだということです。彼らの路線は“アメリカ占領軍は解放軍である”という度し難い認識にもとづいていました。それは第2次世界大戦を帝国主義強盗どもの戦争と考えるのではなく、ソ連が参加する反ファシズム民主主義擁護の戦争とし、積極的に擁護していたからです。ソ連スターリン主義は、“帝国主義戦争を全世界プロレタリアの反戦闘争で阻止する。そして世界革命に向かって闘う”という労働者階級の当然の原則、ロシア革命の勝利で実証された路線を真っ向から否定していました。国際労働者の闘いをソ連防衛のために利用するだけだった。だからアメリカ帝国主義の戦争を賛美し、支持した。日本共産党はそのスターリン主義の党だった。
加えて彼らは日本のプロレタリア革命に反対し、民主主義革命を綱領にして、占領下の平和革命論を主張していました。したがって米占領軍は彼らにとって友軍だった。その解放軍がゼネスト中止を命令した。日本共産党は完全に路線的に破産しました。自己保身と組織防衛に汲きゅうきゅう々とします。労働者階級が2・1スト挫折によってその後、激しい敵の反動に直面して、生活と権利の防衛に呻しんぎん吟することへの反撃を放棄し、無責任な態度に終始します。そして労働者が必死の反撃に出るや、そうした闘いを今度は抑圧する側にまわったのです。このことははっきりさせておかなければならないと思います。その結果として産別指導部から分裂した民同(民主化同盟)は全労組に拡大し、右傾化し、労働運動の反共派が勢力を増します。
こういう中で47年5月には新憲法が施行されます。6月には社会党内閣が登場し、吉田内閣と交代します。2・1ストは敗北しますが、もはや保守政権では乗り切れなかったのです。社会党内閣が日本の内閣として登場するのはこの時と50年後の1990年代の自民党支配崩壊の中で、彼らを再び政権党に戻すのを助けた村山内閣です。さらには今度の民主党・連合政権に社民党が参加するという形で政権の一翼に入る。これしかない。結局、日本の社会民主主義の党である社会党(社民党)とは、本来の日本の資本家階級の直接の党ではもはや政治支配が不可能となった情勢において、体制救済の役割で政権にありつく党だということです。だから彼らが政権に就くということは革命的情勢の兆候なんです。
こうして2・1ストは挫折しましたが、米帝(アメリカ占領軍)と日本の支配階級(資本家階級)を震しんかん撼させるんです。ついにここまできたかと。
◎政令201号と定員法による国鉄10万人首切り
48年7月に政令201号が出ます。それは占領軍の命令を日本政府の政令という形に置き換えただけで、中身は占領軍による公務員のストライキ禁止命令です。違反する場合は占領軍の軍事裁判が待っているという状況です。この年の11月には公務員法が改悪され、公務員のスト権、団体交渉権が奪われます。公労法(公共企業体等労働関係法)ができた。国労、全逓はともに本部は非常事態宣言を出すが闘わず、反撃は下部から起こります。国労新得機関区の青年行動隊が職場離脱闘争に打って出て、それが他職場を巻き込みつつ拡大。逮捕者500名を超え、解雇者1000名余の弾圧です。全逓下部も決起しますが、孤立します。
そして49年、経済安定9原則(ドッジライン)で超緊縮財政、企業整備(大量解雇・賃金凍結)、労働運動解体(スト禁止・職場秩序再建)、大衆収奪・徴税強化等々が占領軍の命令のもとで開始されます。米帝は政策転換し、日本資本主義の復興計画を実行するのですが、それは労働者人民に対する犠牲の押しつけであり、そのための戦後労働運動の徹底解体です。まず26万人の行政整理を強行する定員法攻撃がかけられます。その中心は国鉄10万人の首を切るということです。国鉄10万人の首を切るというのは、この時と、国鉄分割・民営化攻撃の2回だけです。国鉄労働運動を解体することが、戦後革命情勢を抑えつける最大のカギであると支配階級が見ていたからです。
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7月1日、9万5000名の解雇が通告されます。その直後の7月5日に下山(国鉄総裁轢死体)事件、7月15日に三鷹事件(電車暴走)、8月17日に松川事件(列車転覆)が相次いで起こります。「国労関係者と共産党員のしわざ」とするフレームアップが一斉になされる。三鷹事件では、12 名逮捕、11名無罪、死刑宣告された竹内被告は無罪を訴え続け獄中病死。松川事件では国労福島支部と東芝松川工場の活動家20名起訴。うち一審で5名死刑、5名無期、他全員有期実刑が宣告された。14年後全員無罪確定となった。こうした完全なでっち上げ攻撃の中で、国労指導部の民同派は、解雇された共産党、および革同の執行委員、中央委員を排除して新執行部を成立させる挙に出ます(ゼロ号指令)。国労成田中央委員会はかろうじて成立し、この間の経過が承認され、10万人首切りは民同派によって受け入れられたのです。
2・1ストを闘い抜き、それ以降も様々な反動がありましたけれども、激しい熱気があふれていた日本の当時の労働運動が、こういう攻撃に対してまったく反撃できない。こういう事態が起こったのです。
◎朝鮮戦争の勃発と総評の結成
越えて50年の6月、朝鮮戦争が勃発する。そして翌7月、総評が結成されます。GHQの占領軍主導でつくられるわけです。結成された総評は朝鮮戦争遂行の国連軍を支持することをスローガンにしていました。そしてレッドパージが行われる。
ここで非常に重要なことは国鉄、全逓を中心にして爆発した戦後の労働運動を収束させたのは、こうした戦争とナショナルセンターの解体だったということです。ナショナルセンター解体の後には戦争が来るということを私たちは言いますけれども、そうした事態が起こったわけです。次にナショナルセンターが解散され、新たな右翼的なナショナルセンターがつくられるのは国鉄分割・民営化が終わった後、89年の総評解散、連合結成です。
先ほど田中委員長が国鉄分割・民営化を前後する話を述べられましたけれども、まさに国鉄分割・民営化は、49年以来の事態であったと言わなければならないと思います。革命的情勢の接近を粉砕するためのナショナルセンターの解体、戦争への突入ということが40年後の89年に再び起こったということです。国鉄分割・民営化の持つ意味がここにも照らし出されていると私は思うんです。
◎革命否定の共産党・社会党と労働者の時代認識
戦後革命期の闘いについて考える時に、もう一つ思うことは、あの情勢を主導した共産党なり、その反対派であった民同派、その党である社会党なりが、その後一貫して“労働組合と革命とは一線を画さなければいけない”“その間には万里の長城があるんだ”ということを、労働運動の中に「常識」として押しつけている。その結果として日本の労働者階級の意識がそういうような常識にとらわれる。そこから脱却するのに何十年もかかったということがあるわけです。それは彼らが戦後革命を敗北させ、踏みにじった張本人だからではないでしょうか。
しかし、戦後革命期はまさに革命情勢だったんです。飢餓の中で、あるいは文字どおりの大失業の中で労働者が立ち上がる。そして工場を占拠し、生産を支配する。それが社会を覆っていく。他方で支配階級の権威も力も総崩れとなり、支配が崩壊的である。米帝国主義の占領軍の銃剣の力のみが労働者階級の前に立ちはだかっている。しかもこのような情勢が世界のほとんどの地域と国で生起している。こういう瞬間が文字どおりあったということです。そして今、われわれが迎えているのも、まさにそういう情勢への接近ではないだろうか。そうしたことと無縁のところで労働運動を考えるというやり方ではもはや成り立たないのではないだろうか。それが労働者の今日的な時代認識だと思うのです。
戦後革命期の中でもう一つ明らかなことは民同、今日の協会派の果たした役割です。彼らは権力とつるんで、特に国労の中でははっきりしたわけですけれども、左派をたたき出して自分たちがヘゲモニーをとるということをやりました。産別をつぶして総評は朝鮮戦争賛成という旗印を掲げてつくられたわけですけれども、この中心となったのは民同です。
今日、国鉄1047名解雇撤回闘争の中でも4者4団体の問題があります。国労5・27臨大闘争弾圧の問題もあります。そこで国労協会派がどういう態度をとっているのか。そのことを押さえておきましょう。
②55年体制と戦闘的反乱
◎総評の左転換
労働運動はそうした中で、総評時代といわれる時代を迎えます。1951年に日本は占領から独立し、講和条約が結ばれる。これには、皆さん承知のように日米安保条約というのがついてきますね。当時は朝鮮戦争のど真ん中ですから日本国中に基地があります。基地は沖縄だけではなかったんですね。全国に基地があります。そこからどんどんその戦場に向かって米軍が飛び立つ。こういう情勢が連日の状態でした。
これに対してどう立ち向かうのか。前年の50年にできた総評がほとんど1年も経たない51年3月、こういう朝鮮戦争の現実がまざまざと突きつけられる中で総評の左転換を行います。「中立・全面講和・基地撤去・再軍備反対」を掲げます。
しかし、この転換が実際に労働運動の中で大勢となるのは6月の国労新潟大会です。民同派が左右に分裂し、「教え子を戦場に送るな」というスローガンを日教組が掲げたのもこの年です。総評は翌年52年にはゼネスト禁止の労働三法改悪反対(労闘)ストライキ、破防法反対のストライキを打つまでになります。
この左転換はなぜ起こったのか。50年朝鮮戦争が始まって1年、日本国中、朝鮮戦争の渦中にぶちこまれていく。そういう中で労働者人民の激しい下からの怒りが基本にあったと思います。以後、日米安保と反戦平和は日本階級闘争の絶えることのない火点となっていきます。しかしそれだけではない。国鉄の定員法をはじめとする解雇が49年にあり、それにはほとんどの労働組合が抵抗することが出来なかったけれども、激しい怒りは続いていたということです。労働運動の指導部は屈服し、米帝の朝鮮戦争を支持するところまで一挙に進みますが、しかし労働者階級全体は戦後革命以来の激しい怒りとエネルギーをたぎらせていたということです。この50年代前半、電産と全自動車が激しく闘います。内灘射爆場土地接収反対闘争と北鉄労組の米軍事物資輸送拒否ストライキもありました。
◎55年体制
そういう中で55年体制というものが成立することになります。日本帝国主義の本格的復活が開始された、朝鮮戦争が生み出した軍需生産ブーム(朝鮮特需)を契機として高度成長が始まります。労働強化と合理化による労働者への強搾取が激しく行われます。
一方で自由民主党(保守合同)が結成、他方で左右の社会党が統一する。そして自民党が政権の首座を一貫して押さえ、社会党と総評が高度成長のおこぼれを労働者に分配する役割を果たす。こういう形が90 年代まで続いた55年体制です。
もちろん単におこぼれで労働者が浮かばれるわけはありません。それに55年体制の大きな柱をなしたのは生産性本部です。生産性向上運動が始まる。その活動は労資協調主義の労働組合を資本の手で育成し、階級的労組を破壊することが狙いです。総評はこの生産性本部には完全には賛成しませんでしたけれども、抵抗を組織しない極めてあいまいな態度を取りました。資本と合体した右派第二組合の分裂攻撃と闘えない総評労働運動の弱点はここにあるのです。今日に至る合理化攻撃が本格的に始まったということです。
◎春闘の開始
一方で春闘が始まるのもこの55年です。春闘は産業別統一賃金闘争という面があります。それは定期昇給プラスα を要求する賃金闘争になります。定期昇給とは、青年労働者の低賃金を出発点として年功序列で昇給幅を大きくしていくことであって、昇給という名前がついているが、資本家が払う賃金の総量、賃金原資は変わらない。それにプラスα として物価上昇分を付け加え、生活給要求をめざす。とにもかくにもそういう賃金闘争を開始した。闘いがない限り賃金が限りなく低下するのは当然ですから、それ自身は一つのプラスと言えます。しかし総評は他面で反合闘争、さらには政治闘争から完全に後退して、賃金闘争一本槍となる。それ自体も物価上昇分が生産性向上分とされ、生産性原理に取り込まれていく不断の傾向を持つ。したがって職場労働者、特に青年労働者の不満を増大させる。しかし闘争は幹部だけの闘争となり、現場労働者のエネルギーを引き出し資本と対決する労働運動を弱体化させていった。他方で様々な弾圧をはじめとした政治的な反動化と対決し抵抗することから身を避けることになっていった。
◎56年砂川基地反対闘争
しかし55年体制の翌年、56年には砂川基地の拡張反対闘争が爆発します。動労千葉が闘う三里塚闘争は砂川闘争の大きな影響を受けながら労農学共闘の伝統を引き継いで闘われていることを知っています。砂川闘争は総評がやったわけではないんです。この時登場したのが、やがて60年安保で登場する全学連と、そして労働者は当時の三多摩区労協、当時の地区労です。それから京浜地区の戦闘的な鉄鋼労働者、金属労働者が参加する。いわばランク&ファイルの労働者の闘いが砂川闘争に結集していくという形になります。
◎57年国労新潟闘争
そして1957年、国労新潟闘争が行われます。これは約1カ月ぐらい続きます。激しい実力闘争でした。休暇闘争か時間内職場集会です。特に最後の1週間は無期限の実力行使で列車運行を麻ま痺ひさせる闘いとなった。国労新潟の労働者が立ち上がったのは、直接には57春闘に対する処分反対です。総評民同指導の経済主義一本槍という右寄りの路線が結果した、職場における労働強化、高度成長とともに始まった激しい列車の増発。こうした労働者への攻撃に対する反撃として国労新潟の闘いが爆発したんです。実際は孤立した新潟だけの闘いではなかった。東京や広島やその他でも闘われました。しかし他は全部国労本部に抑えられ、国労本部や総評の闘争抑圧を拒否して闘った国労新潟が一つ孤立する形になります。最終的には本部により鎮圧された。その後、国労新潟はたいへんな分裂攻撃に遭遇していくことになります。
しかし、この国労新潟闘争は全国の国鉄労働者に、特に青年労働者に非常に大きな衝撃を与えることになった。動労革マル松崎らもこの国労新潟闘争に刺激を受けて立ち上がったグループの一人です。千葉からも国鉄労働者がこの新潟闘争に参加しました。帰ってきて報告会をやると、涙を流しながら、新潟の労働者はこんなふうに闘っているんだと報告をして「われわれも新潟に続こう」「なぜ本部は闘争抑圧するのか」と、そういうことが下部で広がる。この闘争を収束させた国労本部民同、総評や「新潟は挑発だ」と叫んだ日共指導部(野坂参三)に対する怒りと批判が渦巻き、それを乗り越えようとする意識が形成される。突破する階級的労働運動の路線を模索する闘いは国鉄労働運動を超えて拡大します。
さらに勤評闘争や警職法闘争が続いた。こうして総評は、指導部は非常に右翼的、経済主義的になっていきますけれども、下部の労働者は激しい戦闘化を示していきます。
③安保闘争と三池闘争
◎国労・動労の6・4政治スト
こうして60年の安保闘争となっていきます。さらには三池闘争となります。60年の安保闘争は2・1スト以来の大衆的な爆発を遂げていきます。最先頭になって闘い抜いたのはもはや総評ではありません。全学連と新しい左翼の潮流です。労働運動の中でも国鉄、全逓では指導部の抑圧を蹴ってこの闘いに参加する下部組合が出てくる。そうした決起に押されて国労、動労は初めて、60年6・4ストを打ち抜きます。総評は二十数波にわたる統一行動を組織します。国労新橋支部の労働者とその他の戦闘的な労働者が全学連と合流して決起集会をやるというようなことも行われます。尾久、田端地区でも労働者と学生の合流集会が行われます。以来スト拠点(電車区や機関区)での全学連の支援・合流は60年代さらには70 年代に向けて発展してゆきます。安保闘争の中で、青年労働者と全学連、新左翼との接触、合流、討論は常態化します。
国労と動労が日米安保と対決し、反戦平和を直接の課題として政治ストの実力行使に出たのは労闘スト以来でした。新潟闘争で誕生した国鉄青年労働者の、社共、総評指導部に対する不信と、それらを戦闘的に乗り越えようとする動向は安保闘争の中で凝縮していきます。
◎三池闘争とその敗北
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三池闘争はこうした60年闘争の渦中で進みます。三池は当時、総評最強の労働組合と言われていました。それに対して炭鉱資本は襲いかかります。1492名の指名解雇が通告される。この中には「生産疎外者」というふうに呼ばれた500名の活動家が含まれています。三池労組全体は8000名ぐらいですから、これは大変な指名解雇攻撃です。職場活動家を直接狙い撃ちに一掃しようとするかつてない労組破壊攻撃です。
そして資本の側が全山ロックアウト。これに対して三池労組は無期限ストで闘います。60年7月まで約半年間、資本の第二組合を組織して生産を再開しようとする攻撃と、それを阻止するピケット防衛隊の攻防が続けられ、7月にはホッパー(貯炭槽)を占拠し、生産阻止を続ける。これに対して地裁が立ち入り阻止の仮処分を出し、機動隊1万を出動。三池労組側は全国から10万人の労働者が結集して対決するホッパー決戦となった。しかし炭労・総評が藤林斡旋案(指名解雇を拒否した1278人について、炭労が中労委に解決を一任。中労委会長の藤林が、自然に退職したものとみなすという斡旋案を提示)を三池労組を無視して受け入れ、決戦は中止。総評は指名解雇を受け入れて三池闘争を幕引きするということになります。単に力尽きてストライキが中止されたわけではない。その上、現場における職場闘争は解体され、国会における政策転換闘争へと方針変更を強制されます。三池労組もそれを受け入れ、敗北が確定します。この結果は闘争終結後の63年三池炭塵大爆発事故につながっていくわけです。この年、闘争後の大合理化により、1人当たりの出炭は56 ㌧(59年14㌧)と激増していた。三池闘争で明らかになったことは、この闘争を指導したとされている協会派が、労働者階級の闘いを前進させるようなものではまったくないということでした。こうした破産が明らかにあるわけです。
こうして60年の闘いが行われます。その後、安保を強行した岸内閣は退陣して池田内閣になります。これが所得倍増政策を展開します。総評は迎合する。こうして総評の右翼化はさらに進んでいきます。さらに右派ナショナルセンターの全労会議と総同盟が合体して62年に同盟ができます。総評内民間産別の右派潮流が結集し、IMF―JC(全日本金属産業労働組合協議会)ができて労働運動の右翼再編の陣形がつくられます。
一方、安保・三池の敗北後、第2次高度成長期となり、合理化と労働強化は激しく全産業を覆います。それが62年の国鉄の三河島事故、あるいは63年の鶴見事故をもたらすことになるんです。しかも、鶴見事故の同日に三池大炭塵爆発が起こります。実に凄せいさん惨な爆発でした。労働運動の右傾化、総評の右傾化と闘うことが焦眉の課題となっていきます。
◎社・共に代わる労働者党建設をめざす新しい左翼と 青年労働者運動
今や安保や三池を敗北に導いた社会党や日共に代わる階級闘争の新しい担い手が必要なんだという意識が青年労働者、学生の中で広範に起こっていきます。
革命的共産主義者同盟(革共同)ができあがったのはこの過程です。彼らは62年に戦闘的な労働運動を防衛し、つくりあげていかなければいけないという路線を出します。それは60年代の日本労働運動に登場する反戦青年委員会運動に結実していくことになります。60年安保闘争を経て、日本の労働運動は、ややオーバーに言いますと、総評・民同の運動、日共の運動、そして新しい左翼の運動という3者が鼎ていりつ立するという構造の中に入っていきます。国労新潟闘争を出発点として60年の安保・三池闘争を経て、こうした階級的な青年労働者の運動が、政治デモストレーションの場だけでなく、労働運動の、特に国鉄労働運動の現場の中で拡大していきます。
④70年安保・沖縄闘争
◎全世界で戦後革命以来の大衆闘争
こうして70年の安保・沖縄闘争という段階に全体は入っていきます。皆さんもご存じのように70年の安保・沖縄闘争というのは、一つはアメリカ帝国主義の凋ちょうらく落があります。ベトナム戦争でアメリカは敗北するところまでやがて行き着きます。日本もそうですけれども、世界中で戦後革命期以来の大衆闘争が爆発します。パリの5月、アメリカのベトナム反戦闘争、公民権闘争、こうしたことはみな、この70年前後に起こってきます。一方、日本では当時まだ占領下にあった沖縄で、祖国復帰闘争が爆発します。他方で日米安保条約反対闘争がこれに結合します。こうして沖縄奪還・安保粉砕の闘いが始まります。その主役として学生、当時の全共闘、さらに反戦青年委員会運動がもう一方の主役として登場します。60年安保闘争との相違点です。総評労働運動の右転回と低迷の中で、その中から生まれた青年労働者運動が日本階級闘争の最大の火点である安保・沖縄問題を掲げて左から政治闘争の前面に立って国家権力と対決し、情勢を揺るがす存在に成長したことの意義は大きいのです。この闘いの中で、労働者こそ社会の主人公である、資本主義の矛盾はわれわれの力で打開する、という活き活きとした意識が急速に拡大した。
◎反戦派労働運動
こうして70年の安保・沖縄闘争をリードしたのは、全共闘と反戦青年委員会でしたけれども、反戦青年委員会運動は単に安保粉砕の政治闘争を街頭で闘っただけではないんですよね。何よりも重要なことは国鉄を先頭に労働現場で闘い、職場闘争、反合理化闘争、反マル生闘争の主導権をとったことです。それは全産別で生じた運動でした。公労協の全逓はもとより、造船、NHK、化学、鉄鋼、金属、そして日教組の中でと、あらゆるところで反戦派の青年労働者が立ち上がり、創意溢れる職場闘争が爆発的に組織されることになります。戦後革命期を除けば資本家階級が未だ経験したことのない、資本への反乱でした。
◎動労千葉の分離・独立への闘い
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さらにはこの70年安保・沖縄闘争では、後でも述べますけれども、動労千葉が船橋事故闘争を推進する。かつて動労が「鬼の動労」と言われた時代があり、松崎はそのことを吹聴するわけですけれども、この「鬼の動労」という言葉が生まれたのは73年順法闘争なんです。73年順法闘争を爆発させたのは、まさに船橋事故闘争なんですよね。当時の千葉地本時代の津田沼支部のパンフレットがあります。船橋事故闘争は72年から76年まで激しく続き爆発します。当時の国鉄順法闘争の最先端を形成する闘争になったんですね。ストライキで私鉄に振り替えが行われるということはあっても順法闘争でそういうことははなかった。ところがその頃になると順法闘争で津田沼、船橋で電車が止まっちゃう。それぐらい激しい順法闘争だったんです。この船橋闘争を一つの大きな跳躍台にしながら、千葉地本の新しい執行部が形成されます。そして皆さんが闘い抜いた三里塚ジェット燃料輸送阻止闘争が70年代の後半を引き継ぐというような状況に入っていきます。体育館に3000名が結集する。動労千葉の三里塚ジェット燃料輸送阻止闘争は、こういう渦中で実現したわけです。
これは大変な危機感を支配階級に与えました。ですから弾圧も激しかった。反動も激しかった。しかし何よりもそれに乗じて動労革マルがその反革命的な本質をあらわにして、この反戦派労働運動に敵対するというふうになっていきます。70年代に入ると動労千葉地本青年部に対する暴行が始まる。72年船橋事故闘争に敵対する。74 年には順法闘争を自粛するという宣言をもう出します。三里塚ジェット燃料貨車輸送阻止ストライキが始まると、当局の先兵になって「籠かご抜け」、つまりストライキ破りの行為を破廉恥にもやる。78年にはついに三里塚闘争との絶縁を宣言し、それを動労に強制する。同年に貨物安定輸送宣言を行う。これに対して79年、動労千葉は分離・独立します。
動労革マル松崎は、こうした70年安保闘争の中で青年労働者運動が労働運動の主導権に決定的な影響を及ぼすまでに勢いを伸ばしていくことに恐怖を覚えたのです。さらに動労千葉が反合・運転保安闘争の地平を切り開くや、国鉄当局との非和解の闘いから逃れようとして、敵対し、その国鉄全線への波及を阻止しようとしたのです。「合理化絶対反対」を口先で唱えて青年労働者を騙だますことはもはや不可能となったのです。
◎国鉄分割・民営化と労働運動解体攻撃
労働運動は総評労働運動の枠の中にまだあり、経済闘争、春闘を中心に続きます。けれども、明らかに総評主導の運動から、これに対する反戦派労働運動というものが登場する。しかもそれが反合闘争や反マル生闘争など様々な闘いの先頭に立つ。こういう状況がつくられていったわけです。先ほど述べましたけれども、49年戦後革命を抑えて産別が解散し総評というナショナルセンターになったわけですけれども、この総評というナショナルセンターから新しい労働運動が勃ぼっこう興して、激しい危機感を支配階級に与えるというところまで事は進んだということです。しかもその中心に国鉄の闘いがあった。動労千葉がその大きな牽けんいんりょく引力となったというわけです。 80年代に国鉄分割・民営化に事は進みますけれども、この国鉄分割・民営化とは、もちろんこれまでの支配階級のあり方では、要するに国鉄のようなあり方ではもうダメだという国鉄自身の危機があって、あるいは日本資本主義自身の危機があって起こった。そのためには国鉄労働運動を根底的に解体するということが一方でありました。もう一方では日本の労働運動が激しい戦闘的な変貌を遂げるであろうということに対する激しい危機感があったんです。こうして国鉄分割・民営化に進んでいく。国鉄労働運動を解体して総評を解散する。一つのナショナルセンターを粉砕する。完全に資本にぬかずく、資本の利害を代表する労働運動にもう一つ転換させようという支配階級の危機は激しく増大したということです。
だが分割・民営化は成功したか。完全に破綻したということです。それを詳しく検討することは別の機会にしたい。
今、私たちは「第2の分割・民営化」との決戦だと言っていますが、それには、動労千葉の闘いと1047名闘争によって、80年代分割・民営化が破綻した、その中心的な眼目である国鉄労働運動の解体が破綻した、風穴を開けられた、そこで仕切り直しをしなければならない、JR分割・民営化体制を支えるはずのJR―JR東革マル結託体制が矛盾に転化した、平成採労働者に大きな動揺が始まっているということがあります。そこで動労千葉や動労水戸の前進を食い止めなければならないということがあると思います。そのための攻撃として滝君に対するライフサイクル攻撃や、幕張支部執行部に対する強制配転などの露骨な不当労働行為をかけてきているのです。
だが最大の焦点は検修一括外注化攻撃です。分割・民営化のもつ究極の合理化攻撃だという側面がいよい よ全面的に現れてきたのではないでしょうか。
(3)国鉄反合闘争と動労の運転保安闘争
では、反合・運転保安闘争は、どういう歴史的な経過をたどって、その路線の確立に到達したのかということを考えてみたいと思います。
①戦後労働運動と反合闘争
前半に述べましたように、戦後革命の後、50年、60年、70年へと労資の対決は激しく進む。その中で、常にその中で一つの大きな基軸になってきたのは国鉄闘争だった。特に後半においては、動労千葉も深く関わってきた。その労働運動の中で大きな課題になってきたのが反合闘争の問題ですね。とにかく戦後を乗り切った資本主義は、高度成長という過程に入るんですけれど、激しい合理化は、そうした資本主義の本質です。
合理化というのは二つの側面があるんですね。一つは、資本は間断なく労働の緊張を強め、機械への労働の従属を強め、効率化してくる。そして労働者間の競争を強める。スピードアップとかロングランを強制する。特に新機械の導入を契機に、抜本的にやってくる。近代化合理化と言われたような側面です。さらにそれを促進する能力給や昇進制度をつくる。しかし、けっしてそれだけじゃないんです。資本の合理化攻撃にはもう一つの大きな側面がある。労働運動それ自身を内側から解体していく。合理化推進の生産性向上運動の路線に取り込んでいく。さらに、取り込まれない労組を分裂させる。そのために合理化推進の反労組分子を組織する。それを積極的に推し進める。そういう側面が必ずあります。合理化はここまで不可避に進むのです。だから条件闘争とか、「事前協議制」の獲得で対応できる代物ではない。55年発足の生産性本部は、こうした資本の合理化運動のセンターです。
60年代から70年代に国鉄労働者を襲った攻撃も、直接の合理化と同時にマル生攻撃でした。マル生攻撃とは、生産性向上運動に労働者を組織することです。国鉄では職員局が先頭になって、異様なまでの「精神教育」でマル生のリーダー役(職制)を駆り立て、職場に小集団を組織し、昇進・昇格と結びつけ、国労、動労から脱退させて労資協調の第二組合である鉄労に加入させる攻撃となった。この過程で国労は「座して死を待つわけにはいかない」と反対運動に立ちますが、不当労働行為摘発方針です。それは成功したのですが、組織分裂攻撃に真正面から闘わない。生産性向上運動の小集団と対決しない。労働組合とは何かをかけた本質的な闘いから逃げた。
こうした反合理化闘争が日本の労働者の大きな課題になってきます。
②三河島事故と動労青森大会方針
そして合理化は国鉄の62年の三河島事故、63年の鶴見事故、同時に起こった三池大炭塵爆発に象徴されるような、大事故と大労災の激発をもたらすことになります。
62年の三河島事故は160人、63年の鶴見事故は161人という死者を出すことになりました。三河島事故は、脱線した貨物列車に上下の列車が二重衝突したということです。実に凄惨な事故が起こった。国鉄の労働者であれば本当に身震いするような事故が起こったんです。しかも発端となった貨車の脱線は日常茶飯事だった。電車の過密ダイヤもそうです。ですから、三河島、鶴見事故のようなことはいつ起こってもおかしくない。そういう状態だった。
◎62年動労青森大会で運転保安闘争方針出る
もはやこのような事態を絶対に看過できないと、そういう気持ちはものすごく高まりました。こうして、同年の動労青森大会は、事故防止委員会から脱退することを決めた。事故防止委員会とは、労使一体で事故を防ぐという建前の委員会です。そこから脱退する。そして、実力行使で運転保安を守っていくんだと、こういうことを打ち出したわけです。それは衝撃的でした。これは事故防止委員会をやっても、労使協議をやっても、安全のための訓練強化以外の何の結論も出ないんですね。それと、合同の弁護団をつくっての刑事責任対策。しかし安全投資を放棄し、合理化をますます強めながらの訓練強化は、労働者を激しく締め上げて、さらなる事故の原因にすらなるんです。こうしたことに対する怒りが爆発したのです。
さらに、青森大会では、事故は結局、労使対決の問題じゃないんだというそれまでの悪しき伝統にとらわれていた従来どおり労使協調の執行部は辞任に追い込まれた。新執行部は実際に運転保安を実力で闘い取ろうという方針を出さざるを得なかった。
◎革マル松崎の屈服
その勢いで12月ストライキ方針を打ち出します。実力行使で運転保安を要求することが決定されていきます。しかし、新執行部はストを直前で中止する。ストライキを構えれば、何らかの対応を当局側はしてくれるんじゃないかということです。ATS(自動列車停止装置)設置で幕引きをやったわけです。こうした姿勢で、国鉄当局が労働者に事故責任を転嫁することをやめるとか、事故の原因である合理化をストップするなんてことはまったくありません。
当時、動労にはもう一つの動きがありました。それは先ほど述べたような国労の新潟闘争以来の動きです。革マル松崎を先頭に、前年に動労に青年部ができる。これが下からの労働者の現場の怒りを代表する形になっていました。ところが、松崎はこのストライキ中止に屈服し、容認していくことになった。これは先ほど述べたような、労働運動を階級的に戦闘的に進めていこうという動向の一つに動労青年部があったわけですから、重大な裏切りでした。実際にも12月ストを前にして運転保安闘争(減速闘争)がいくつかの地本で先行的に始まっていました。だが12月スト中止で、青森大会で盛り上がった事故闘争は、以後、動労から消し去られていきます。そして革マル松崎は「事故問題は労働運動の課題とならない」として船橋事故闘争にあくどく敵対することになります。
◎青年労働者に集中する合理化攻撃
国鉄の本格的合理化は57年の第1次長期計画から始まります。67年から69年、機関助士廃止闘争が激しく闘われましたが、それが5万人合理化攻撃という第3次計画です。49年の10 万人首切り以降、国鉄は新採をとらなかった。しかし、高度成長の牽引力としての国鉄輸送の大増強と要員事情の逼ひっぱく迫から、採用を再開したのが57年。合理化は、この新採の青年労働者に最大の矛盾を集中することになった。合理化では青年労働者の持つ柔軟性ということが必ず活用される。反合理化闘争は、青年労働者の動向が決めるんですね。敵の狙いも青年労働者。こういう関係にあります。
◎千葉地本青年部の闘い
そういうさなかですから、当時の動労青年部のリーダーである革マル松崎が、この運転保安闘争の危機にあって屈服するということは許されない。当時、千葉地本は、青年部長が中野顧問でしたから、激しい反論を加えていくことになります。しかし、千葉地本執行部はまだ完全に右派執行部だったわけですから、まずは動労千葉地本を本当に戦闘的なものにすること、それなしには、実践的に松崎の屈服を乗り越えることはできない。そうして当時は、青年部活動家・滝口君の解雇を撤回させる闘いに集中していくわけです。
しかし、中野顧問を先頭に動労千葉の先進的労働者は、事故闘争を運転保安闘争として実践的に闘い取っていく課題への挑戦を一時も忘れ去ることはありませんでした。
先ほど述べましたように57年に国鉄の合理化は本格化するんですけど、60年代に入って、国鉄当局は毎年1万5000人の要員削減という合理化を開始します。基本は、動力の近代化です。電化です。それに伴って5万人合理化ということになります。その中心は、助士廃止、2人乗務廃止です。当然にも青年労働者、青年部が焦点化します。激しい下からの突き上げが組織化され、5万人合理化反対闘争、助士廃止反対闘争は今でも記憶に残る闘争になりました。 実際は、その先頭に立つ国労、動労はストは立てる。しかし寸前に中止する。そういうことでなんとか譲歩を引き出そうという条件闘争でした。それで敗北します。
現場労働者に激しい不満を蓄積することになります。70年代に入ってからだと思いますけれども、千葉地本は、千葉気動車区を先頭とする支部を除くと、まだ全体としては右翼的な地本でしたから、だいたいそういうストを指令されて、そして直前になると中断するということが続けられると、もう嫌になる。そこにマル生分子が右から煽あおる。そこで保守的な支部でストを返上する。こういうことが起きてしまうところに一面では追い込まれていくということがありました。こうした状況を逆転させ、青年部も高齢者層も、先進的な支部も保守的な支部も含めて団結を固めさせたのが船橋事故闘争でした。
(4)船橋事故闘争と反合・運転保安闘争路線の確立
①労働者への事故責任転嫁を許すな!
そういう中で、72年3月28日にに船橋事故が発生します。事故自身は詳しく述べる必要はないと思います。電車の追突で758人の負傷者が出た。これに対する船橋事故闘争はどういう意義があったのか、どういう運動をつくり上げたのかということを中心に考えてみたいと思います。
「事故は文字どおり当該の労働者、そして乗客の生命を奪い、しかも当該乗務員ないし当該の労働者を犯罪者として逮捕する。しかも有罪にする。そして、全生活を根底から破壊する」。これに対して、当該の津田沼支部を先頭に気動車区支部と地本青年部を中心にして地本執行部を突き上げながら闘われた船橋事故闘争は、この国鉄事故の責任を労働者に転嫁することを粉砕する、これを絶対に許さない、これを一番の眼目にして闘い抜かれたということです。高石運転士の問題(逮捕・起訴・休職)は、文字どおり全員の問題だ。全員で闘い、はね返すのだ。労働者に事故責任を転嫁することを絶対に許さない、というスローガンにして闘ったということです。
“事故原因は労働者のミスだ、弛たるみだ”として、訓練強化を強制し、労働者を締め付ける。そして安全無視の合理化こそ真の原因であることを隠いんぺい蔽し、さらなる合理化を強行する。この循環をなんとしても断ち切るということです。(4)の冒頭の引用は実は松崎の言葉なんです。松崎はこれに続いてなんて言ったかというと、「これはいわば職能意識に過ぎない」と。彼はこういうふうに言って、この事故問題に対する労働者の激しい怒りを無視抹殺する。逃げる。それにとどまらずこれに敵対する。こういうことを松崎はやったんです。事故問題を取り上げることは「職能意識」であって「階級意識」ではないというわけです。後で述べるように事故は国鉄当局の最大の弱点です。そのことを知っているがゆえに、労働者が闘いをもってそこに踏み込むことを本能的に阻止しようとしたのです。こういう立場を彼はとったということですよね。
②動労千葉の強い団結が生まれた
船橋事故闘争は、労働者に事故責任転嫁を許さないと、ここに徹底的に執念を燃やして闘うということでしたが、歴史を振り返ってみれば分かるように、指導部が驚くほどの連続的な動員と闘いを実現しました。そして72年3月の事故発生・不当逮捕から9月の高石君起訴弾劾・刑事休職阻止の闘いを経て76年の高石君の現場復帰獲得まで足かけ5年の闘いを貫いて勝利しました。この間、乗務員はもちろんのこと、地上勤務員も、当時の動労千葉地本全員のエネルギーを引き出したのでした。運転保安闘争は、順法闘争によって「暴動寸前」と言われた乗客との激しいやりとりを随所で起こしましたが、動労千葉の乗務員は真正面から正義を主張して説得に当たり、臆せず闘争を貫きました。
ですから、先ほど述べたように、千葉気動車区支部を除けば、時にはストライキを返上してしまうような、そういう状況が一変しました。組合を脱退していた15 名の指導員が「過去を反省し、今後は組合の一切の指令指示に従って闘う」と組合員の前で宣誓し、復帰するということも起こりました。全体が、こういう労働組合、こういう闘いならばやろうぜということで、動労千葉の強い団結がこの過程の中で生まれたということです。この過程で73年、動労千葉には新しい階級的で戦闘的な地本執行部の体制が出来ました。こうして船橋事故闘争はその後の闘いの一番の基礎になったわけです。それは、革マル松崎が牛耳る動労からの分離・独立や、国鉄分割・民営化攻撃に立ち向かう力になりました。
③「一人は万人のために、万人は一人のために」
そうした力になったのはなぜでしょうか。「一人は万人のために、万人は一人のために」を地でいった闘いだったからです。絶対に仲間を見捨てない。これが階級的団結の基本です。そしてすでに述べた「労働者への事故責任転嫁を許すな」です。延々と続いてきた合理化とその累積が事故を引き起こしたのです。毎日、毎分事故の危険に直面しながら働いている労働者にとって、船橋事故闘争は絶対に後に引けない闘いだった。全組合員の圧倒的な支持の中で闘いは進んだ。
鉄道労働者にとって、事故を阻止し、安全を闘いとることは誇りであり、胸を張って闘い抜く大義です。労働者こそ社会の主人公なのだということをはっきりと実感できる闘いだったのです。
そして国鉄当局と資本はそれをまったくなしえないのです。後に、分割・民営化から1年後の1988年に東中野事故が起こります。当時のJR東社長・住田は「事故が起きて良かった」という発言をして、ものすごいひんしゅくを買いましたよね。これがやつらの本音なんですね。労働者が何人死のうと、乗客が死のうとお構いなしです。東中野事故はまさに分割・民営化のもたらす安全崩壊の結果でした。その1周年に、動労千葉は東中野事故弾劾を掲げてJR体制に対する初の大規模ストに立ち上がりました。それは90年の動労千葉84時間、国労72時間の清算事業団解雇阻止のストライキに引き継がれて1047名闘争を生み出したのです。当時、分割・民営化阻止決戦の2波のストライキで組合員1000名うち40名が解雇処分を受けて、文字どおり満身創そ う痍いだったのですが、決起できたのは船橋事故闘争で会得した、安全を闘いとる誇りと力に確信があったからです。事故弾劾・運転保安闘争はJR体制に対する反転攻勢の最初の闘いとなったのです。このことはしっかりと押さえるべきことだと思います。
④安全問題は国鉄当局の最大の弱点
結局、安全問題は国鉄当局の最大の弱点だということです。船橋闘争でそこをしっかりとつかみとったわけですよね。
資本は、利潤を直接生まない安全投資、保安設備その他に対する投資は限りなくゼロ化する。これが資本の本質です。安全よりも効率化、スピードアップが彼らの本質です。日本の合理化の権化と言われているのはトヨタです。トヨタ方式が合理化の手本になったわけです。これはどういうことかと言うと、限りなくラインのスピードを上げる。安全投資や在庫投資を削って効率化を上げていく。じゃあいったいその着地点はどの地点か。国鉄の場合はゼロにするわけにはいかない。トヨタだって自動車をおシャカにするわけにはいかないんですよ。それはどこで分かるんだ。住田は言った。「事故が起こらなければ分からない」。事故が起こる寸前のスピードが最適速度なんだ。最適安全投資なんだ。それが資本の法則なんです。それを実践することをあからさまに宣言し、原理としたのがトヨタ方式です。単に本質だというだけじゃない。実際にそうやるんです。だからあらかじめ、事故が起こらないような投資をするなんていったら際限ない、そしたら絶対に効率化はできない、国際競争には勝てないというわけです。
したがって闘わなければ労働者は殺されます。労働者の抵抗だけが事故を防ぎ、労災から身を守ることになる。「安全は闘いとるもの」は三池闘争で生み出された言葉ですけれど、闘争を解体され、社会党の国会政治(政策転換闘争)に身を預けたら、大事故が起こったのです。資本による大量殺人に三池の労働者をさらした協会派の罪は重いのです。国鉄においてもまったく同じです。
⑤事故闘争から反合・運転保安闘争へ
船橋事故闘争の中で動労千葉は次々と起こる大小の事故を摘発し、運転保安闘争を展開しました。73年11月の踏切事故、レールボルトの折損事故に対する1割減速・現場徐行闘争、74年2月、7月の欠陥路線抗議の2割減速の線路闘争から9月の北総電化と対決する闘い、管内46カ所での安全確認・大幅減速闘争へ。こうして75年3月ダイ改で特急など10分のスピードダウンを国鉄当局に強制し、以後、線路点検にもとづく減速闘争を恒常的に展開し、それをダイヤに反映させることに勝利していきます。事故責任を労働者に押しつけ、安全能力を喪失した国鉄当局に対する怒りと自ら闘って安全を守ろうとする誇りが「奪われた労働条件を奪い返せ」の反合・運転保安闘争へと発展していったのです。ダイヤ改正のたびに動労千葉は、少しずつ労働条件が良くなるということをつくりだした。ダイヤ改正のたびごとにどんどんきつくなるんじゃなくて、その逆を行くというところまで突き進むことになったんですね。これは、動労の中でも、国労を含んだ中でも、動労千葉の闘いは非常に注目されていくということをその後、生み出していくとことになったのです。
⑥国鉄分割・民営化は極限的な合理化攻撃
国鉄分割・民営化というのは極限的な合理化攻撃なんです。二つあります。一つは労働者階級の団結をぶっつぶし、力関係を根底から変える。中曽根の言ったように「戦後政治の総決算」をやる。もう一つは根底的な合理化攻撃です。委員長も言われたように、どんどん分割して、効率を限りなく上げていくということですよね。そのためには安全なんかまったく度外視する。事故が起こったら、その時に手を打つようなことを考えればいいんだと。こういう考え方です。大事故はそうたびたびは起こりません。だけど、その起こらない間に実は事故発生の原因がはどんどん蓄積していって、やがて爆発するわけです。事故はある日突然来るんじゃまったくない。
しかし、分割・民営化というのはその逆を行くということですよね。鉄道はレール、車両、運転が一体となって初めて運行される完結したシステムで成り立っている。しかも全国を文字どおり動脈のようにつなぐ巨大なシステムです。その一カ所でも、一部門でも破綻すれば崩壊します。分割・民営化はそれを、効率化を原理にして、限りなく分割していく。先ほど述べられたように何百もの会社をつくる。7社分割から、今度はレール、車両、運転を分割し、外注化する。さらには完全別会社化する。そしてすべての会社が効率化をめざして際限のない合理化に進む。JRの分割・民営化体制というのは、そういう意味で蟻地獄に落ち込んでいる。自ら進んで穴を掘ってそこに落ち込んでいくだけなんです。それは間断なく事故をつくりだし、大事故につながる。究極の安全破壊です。
だからJR体制においては、鉄道事業は蟻地獄のように消滅していく。『ニューフロンティア21』では鉄道部門は第三部門に落とされています。しかし鉄道なしにJRは成り立たない。第一の駅ナカ事業も第二のカード部門も、そうしたビジネスモデル自体が、腐朽化したバブル経済を前提にしていて、すでに破産しているのですが、第三に落とし込められた鉄道部門の上に成り立つのです。その鉄道部門が徹底的に軽視され、事故多発となる。こうした矛盾の塊がJR体制なんですよね。
だけど、そうなるまで労働者は我慢するというわけにはいきません。ですから、労働者は立ち上がる。動労千葉は立ち上がる。そして、そうした蟻地獄のように矛盾と危機を深めさせていくJR体制を一日も早く解体する。こうした路線に立って闘わねばならないところに来ているのではないでしょうか。反合・運転保安闘争路線は、これと闘う強力な武器、労働者の闘う力をぐいぐいと引き出し、高める路線なんだということですよね。ここのところをわれわれは押さえなければならないし、船橋事故闘争は、そのことをはっきり示したということです。
(5)おわりに
◎第2の分割・民営化との闘い
以後、皆さんの闘いによって、反合・運転保安闘争は、レール破断に対する闘いや、幕張事故に対する闘いにおいて、その力をいかんなく発揮していると思うんですよね。第2の分割・民営化ということが、今度の検修外注化攻撃の本質だと思いますけれども、この第2の分割・民営化攻撃に立ち向かう強力な武器は、この反合・運転保安闘争路線にあると思うんですよね。分割・民営化は文字どおり極限的な安全破壊をもたらすことは明らかです。
さらにこの攻撃はなんといっても平成採全体を対象にしています。ライフサイクルのように乗務員を駒のように引き回し、駅要員の非正規化を進める。実質賃下げを強制する。労働者の尊厳など1ミリも認めない。そうしたやり方に平成採全体が動揺しています。JR東の体制でそれを抑えることは出来ません。滝君に対するライフサイクル配転という激しい攻撃が起こっていますが、こういう状況の中で、動労千葉のようにこの大合理化攻撃と闘えば道は拓かれるんだという意識が浸透していることに、JRとJR東が心底から恐怖しているからです。
しかしJRは、そういう体制にのめり込んじゃっているんです。ここからもう絶対に脱却できませんよ。限りなく分割し、限りなく合理化を深める。効率を高める。搾取を強める。その結果は鉄道のますますの荒廃となる。大事故となる。労働者の誇りを徹底的に足蹴にする。この循環から逃れられないんですよ。逃れるということは、“分割・民営化は間違っていた”ということを彼らが言わざるを得ない。だからJRは破産しているのです。
◎合理化に対する闘いのポイントは青年労働者
最後に一言だけ強調しておきます。合理化は絶対に青年労働者がポイントなんです。これは始めからそうなんです。青年労働者に全部矛盾が集中するんです。新しいシステム、新しい分割、新しい仕事のやり方、そこに青年労働者がたたき込まれることは明らかなんです。かつて1957年に、10年ぶりぐらいで国鉄で採用が再開した。松崎が国鉄労働者になったのもその年です。そして、その前後に中野顧問以下の動労千葉の青年労働者の第一期生が誕生した。彼らが遭遇したのが大合理化だった。そして、この大合理化との闘いの中で革マル松崎は屈服し、動労千葉は今の道を歩むことになった。
今、第2の分割・民営化の大合理化攻撃の中でやっぱり矢面に立つのは、なんといったって青年労働者です。平成採です。同じように、歴史は繰り返す。JRも平成採にすべての矛盾を押しつけざるを得ない。滝君たちのように彼らは必ず決起すると思います。今度の闘いの決戦場は、この平成採の決起を組織すること、ここにあるということを皆さん繰り返し強調されていますけれど、本当にそう思う。JR分割・民営化体制の屋台骨を完全に粉砕するのは、この平成採を獲得する大組織化運動です。
今度の闘いは本格的な長期闘争になると委員長が言っておりますが、そうだと思います。反合・運転保安闘争路線を長期に貫き、平成採を動労千葉のもとに獲得して勝利する。
この国鉄闘争の新たな出発こそ、日本労働運動全体を必ず再生させる。爆発させる。韓国の労働者階級もこのことを注目しています。さらにはアメリカの労働者階級も注目しています。そういう意味では、やっぱり国際的な影響も、この闘いの中から出てくると思います。
全部はしゃべれませんでしたけど、趣旨をくんでいただきたい。以上です。
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