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追悼

関 豊中央支部副支部長

 6月5日深夜、中央支部副支部長・関豊さんがご逝去されました。享年65歳。膵臓痺でした。
 関さんは1958年に国鉄勝浦機関区に就職、69年に新小岩機関区で念願の機関士となり、98年に退職されるまで鉄道輸送の最前線で活躍されました。また入社と同時に動労千葉地方本部に加盟。以降、本当にかけがえのない仲間であり、リーダーでもありました。
 1979年、動労千葉は動労本部の変質に抗し、「動労大改革」を訴え、本来の労働組合のあり方を求めて分離・独立しましたが、関さんは初代本部執行委員として、動労千葉結成の中心的な役割をはたされました。
 関さんは、すでに本部と千葉地本の対立がぬきさしならない関係に至っていた1977年に動労千葉地方本部の執行委員に就任されました。
 以降、分離・独立までの一年半、そしてその後の数年は、激しい組織破壊攻撃との攻防の過程でした。当局と一体となった動労本部・革マルのたび重なる襲撃や、延べ数万人に及ぶ暴力オルグとの激しい組織攻防戦の渦中で、関さんの姿はつねに闘いの先頭にありました。
 また、20万人もの国鉄労働者が職場を追われることとなった国鉄分割・民営化の嵐の渦中では新小岩支部の支部長として、先行きへの不安に切り裂かれた職場の団結を守りぬくために粉骨砕身その先頭で闘われました。
 国鉄分割・民営化反対闘争は、動労千葉にとってまさに組織の存亡をかけ、全組合員が首をかけて起ちあがった決戦でした。激しい組織破壊攻撃が吹き荒れる状況のなかで、いかに職場の団結を守りぬくことができるのかが最大の攻防点でした。
 関さんはこうした事態を前に、首を覚悟で1984年に新小岩支部長を引き受け、二波のストライキを闘いぬいたのです。
 さらに関さんは、退職された後も、OBと被解雇者で結成した中央支部の副支部長に就任し、亡くなるまで動労千葉のためにご尽力をおしまれませんでした。
 関さんは、もちまえの明るさと人情に厚い性格、正義感で仲間から絶大な信頼を集め、いつも仲間たちの中心にいました。とくに闘いが大きな困難に直面したときに関さんはつねに最も困難な部署を引き受けて下さったのです。
 関さんは信念の人でもありました。労働者としての誇り、動労千葉の団結と闘いへの信頼に対し、どんなときにも一寸もぶれることのない確信をもちつづけていました。どんな困難なときにも笑顔で組合員を激励し、勇気づけ、接する人をたちどころに引き込んでしまう人間的な魅力は比類のないものでした。関さんなくして今日の動労千葉を語ることはできません。動労千葉の団結の中心にはいつも関さんの大きな笑い声が響いていました。
 また、関さんは多才で元気の固まりのような方でした。動労千葉随一のスポーツマンで、テニスやスキー、卓球、柔道、空手などあらゆるスポーツに秀でていました。書道もプロはだしで、数年前まで組合のあらゆる集会の横幕は関さんの手によるものでした。
 その関さんが、退職を間近にして急性白血病で倒れたときには誰もが信じられない思いでした。しかし、関さんはその意志の強さ、明るさでこの難病を克服し、お元気になられました。
 ところが、無常にも今度は膵臓痺という別の病魔が関さんをおそいました。しかし関さんは、「ここに来ると元気になるからね」と言って、無理をおして病院をぬけだして顔をだしてくれた組合の本部でも、お見舞いにあがったときも、苦しそうな顔ひとつ見せず「絶対に治してみせるからね」といつもと変わらぬ笑顔でした。
 そこには、自分のこと以上に周囲を思いやり、普段から一度も弱音をはいたことのなかった関さんの面目躍如たるものがありました。
 永い闘病はんとうにご苦労さまでした。関さんは帰らぬ人となりましたが、永遠に私たちの仲間であり、これからも天国から私たちの闘いの戦列に加わり、スクラムを組み続けるでしょう。
 残された私たちは、関さんの遺志を引き継いで、動労千葉の闘いをますます発展させるために全力を尽くして闘いぬく決意です。
 ご遺族の皆様の悲しみはいかばかりか、心情を察するに余りありますこれからも後顧の憂いの残らぬよう全組合員が一致協力して、残されたご家族を支えてゆく所存です。
 関さんさようなら。動労千葉組合員一同にかわり、衷心からご冥福をお祈りし、最後のお別れの言葉とさせていただきます。
 2004年6月10日

国鉄千葉動力車労働組合   

大失業と戦争の時代に通用する新しい世代の動労千葉を創りあげよう!
 
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